10-3
――絵が好きなの?
それは言えなかった言葉。一年生の五月。入学して、クラスで各々馴染み始め、自分の居場所を作り始めた頃のことだ。
まだ屋上の鍵が壊れてたことを知らなかった私は、学校の中庭によく行っていた。
手入れの行き届いた花々。しかしせっかくのそれを見に来る生徒は少なかった。だからこそ、私は人のいない中庭を利用した。誰かにいじめられていたわけではないけれど、不意に一人きりになりたくなる時はある。そんな一人なりたい時、絶好の場所だった。
いつもは誰もいないはずの中庭。だけど、その日は違った。
彼が、いたのだ。
中庭の芝生の上に座り、ノートを広げ、それいっぱいに鉛筆を走らせていた。
静かな場所で、無心に。まるで何から逃げるように。
遠目から見えるその絵は、見たことがないほどに綺麗だった。
中庭の花の絵。モノクロのそれは生き生きとして、だけどどこか寂しそう。
その絵には彼の心が映っている。そんな気がした。
私はそんな彼に声をかけてみたかった。何でもいい。天気の話でも部活は決めただとか、なんだって。
彼の声を聞いてみたい。彼のことを知りたいと。そう思ったのだ。
絵が好きなの。
結局、その言葉はかけられなかった。
音が聞こえないことを気づかれるのは避けたかったし、何よりも彼の邪魔をしてはいけないと思ったのだ。
そして、彼が霧隠彩葉という名前であることを知った。
一年生の頃は別のクラスだったけど、二年生になり同じクラスになり、自然と彼のことを目で追いかけるようになっていた。私の狭い視界にはいつだって彼がいた。
周りとは関わりたがらない彼。だけど、誰よりも偏見なくその人を受け止める彼。
絵をやめた、と言いながらやめきれない彼。
不意にそんな彼の姿に影が差す。私は待ってと手を伸ばす。行ってほしくない。そう叫びたいのに、なぜか言葉にできない。変わりに走る。それでも追いつかない。だけど、彼はどんどん遠ざかっていってしまう。
そして――――
ん……。
重い瞼を持ち上げると、私の世界は真横になっていた。
左側には天井、右側には机。目と鼻の先には本が広がっている。
私は目にかかる髪を気にせず、広げたままの本に指を這わせる。文字は見えない。読む気もない。ただ指が紙面上を踊る。
……そっか、図書館に来たんだっけ。
学校の最寄りの駅前に位置する図書館。自宅からは少し距離のある位置にあるここではすっかり私は常連。近所の図書館に通わなかったのは単純に蔵書が少なかったのと、家の本当にすぐそばにあったからだ。あの家から少しでも離れたかった。
小さい頃から本を読むのは好きだった。人混みの中でも静かな場所でも本の世界に没頭できた。もはや特技だったといってもいい。
しかし、学校に行く勇気もなく、逃げるようにやってきた図書館で本を開いてみたがその内容は一向に頭に入ってこない。何度視線や指で追っても駄目だった。
本を変えてみても駄目。がむしゃらに本を取り出しては読もうとするのだが、机に積み重ねる結果となった。そして、ついには寝てしまったというわけだ。
図書館で寝たのなんて何年ぶりだろう。
幼い頃。夏休み午後ずっと入り浸るような生活を良くしていたので、途中で疲れて寝てしまったことはよくあった。一人だった私に司書さんはよくかまってもらったものだ。ここは保育園ではないはずなのだけど。
起きた?
隣に座り込み、覗き込んできたのは丸顔のいつも笑っている馴染みの司書さんだった。私は寝起き、乱れた髪の毛を整える。私の取り乱した様子に司書さんは大きく口を開けて笑う。大きな声で笑っているのだろう。ここは一応図書館であるはずなんだけど。
有姫ちゃん、今大丈夫?
司書さんはそんなことを言う。携帯を取り出し時間を確認すると、午後五時。すっかり練習をサボってしまった。
学校に行く気はなかったし、こんな時間に行ったところで迷惑になる。というわけで、はい、と返事。
そう良かった、と司書さんは安心たように頷き、私の逆隣に視線を見やる。
寝ぼけていたのと司書さんの体で見えなかったが、頭が覚醒し始め後ろに誰かがいることに気づく。そこには椅子はない。しかし、その人物は腰をかけているようだった。
この子の相手してくれる?
そう言って紹介するのは車椅子に座った一人の少年。
小学校低学年くらいだろうか。子供用の車椅子でも大きく見えてしまうほどに小柄で、その手足は骨ばっていて枝のように細い。そしてなぜか目を瞑っていた。
そして司書さんに車椅子の向きが変えられ、私の正面に向く。すると、男の子は目を開いた。まんまるの目でなんの邪気もない瞳。
……えっ。
違和感。
男の子の焦点が合って、いない。
この子は目が見えない。そんなことは聞くよりも明らかだった。司書さんに視線を送ると、こちらの意図を察したのか静かに頷く。
私は了解し、再び少年と向き合う。男の子はわざわざこちらを見なくてもいいのに、私を見ようとしてくれる。
おねーちゃん、ごほんよんで。
この子、ずっと楽しみにしてたのよ。あなたの朗読。私が読んでも納得しなくてねえ。
……ああそうだ。この子は私の朗読を聞きに来てくれていた子だ。今更のように思い出す。
その場の流れで始まった朗読。誰がやっても同じの、ただの読み聞かせ。やっている私自身そう思っていた。
だけど違った。
ここに、他の誰でもない私の声を楽しみにしている子がいたのだ。
私の声を聞きたいと言ってくれる人がいたのだ。
――彩葉くんも、私の話は聞いてくれたな。
なぜか、彼のことを思い出してしまう。
おねーちゃん、あおいさい、でるんだよね?
光の失った少年の唇を私は追いかける。決して噛み合わないその視線。私は、そうかな、と曖昧に応える。
なんのおはなしやるの?
ウキウキした様子の少年は車椅子から身を少し乗り出す。私は、みんなで考えた劇だよ、と返答する。言いながら私は“みんな”の中に私がいないような妙な虚無感を抱く。
すごいなあ。ぼく、ぜったいにみにいくからね。
……え。
ぼくはめがみえないけど、おねえちゃんのげきはみたいから。
言葉を、失った。
心臓の音が大きく、しかし穏やかに打つのを感じる。
見えないのに、見る。
たったそれだけの事実を認めるのはどれだけ辛いのだろうか。
私は、自分の無音をこんなにも恥じているのに。
こうであることが、私のあり方そのものが罪だと感じるのに。
盲目の男の子がお話を“見よう”としているのに。
だから、おねえちゃん。がんばってね。
私は何を考えていたのだろう。私とこの子は、何が違うのだろう。
何が、この子を強くしているんだろう。
おねえちゃんのこえ、すきだからたのしみ。
この男の子が楽しむ世界。確かに私の脚本ではあるけれど。
私は、そこにはいない。
私の言葉は、どこにもないのだ。
……本、読もうか。
うん!
そうして私は朗読のための本を探し、読み聞かせを始めた。
なぜか司書さんは朗読する私の頭を、男の子には分からないように静かに撫でた。
遠い昔にお母さんに撫でられた、忘れていた記憶が蘇る。
震えそうになる声を悟られないように、私は朗読に没頭していった。
男の子の母親が迎えに来て(いつの間にか本当に保育園になっていたのか)、私の読み聞かせは終わった。
司書さんは私にお礼を言った後、仕事に戻っていた。あの男の子に構っていたから仕事が溜まってしまったのだろう。
そうして私は再び図書館に一人になった。
窓から覗くは、闇。時刻は午後七時になろうとしていた。
ぶるる、と携帯が震えた。
いつもメールが来ないだけに一日にこんなに多いなと思ってしまう。差出人には最近実行委員だから理由で半ば強引に教えてもらった彩葉くんのアドレスが表示されている。何か葵祭に進展があったのだろうか。
私はなぜかドキドキしながら、いそいそとメールを開封する。
〈至急、学校に来ること 哀川恋歌〉
………………。
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え?