9-2
「なんだ、これ……」
学校に来て早々、眼前の出来事を僕は理解できず、立ち尽くしていた。
二年生の教室を占める校舎三階。器物破損事件によりセットの残骸が廊下に巻き散らかされていた廊下。そこにタンクトップでボンタンに足袋。全身は筋肉の山脈と言わんばかりに隆々な人々がその残骸を片していた。
僕たち同様、他のクラスメイトたちもどう見ても学校関係者には見えない厳しい顔つきのお兄さんたちに一歩引き、ヒソヒソと噂話をしていた。完全なアウェイの中黙々と仕事をこなしていく彼らはまさしくプロ。誰も声をかけることができずにいた。
「なにって、従業委員の方々。うちの」
「いや、何でうちの学校に建築会社の方々がやってくるんだよ!」
「パパ、土木関係やってるの。地方じゃそれなりに有名なのよ?」
「そうじゃねえよ! ……待て、昨日親父さん呼んだのってまさか」
「そ。用意するって言ったでしょ」
腕を組み、得意げな哀川。
哀川の横を偶然従業員の方が通ると、「お嬢、ご無沙汰してます!」と元気よく野太い声で挨拶されていた。哀川は「苦しゅうない」と気取って答えていたけど、周りのドン引いている視線には気づいていないのだろうか。
「お前、元々の装置とか伝えてるのか?」
「写真なら以前に取ってあったものを昨日のうちに送っといたわ。完全に同じにはならないけど、限りなく近くはなるはずよ。期間的にはそうね……三日ってところかしら。パパに聞いただけだけどね」
「たった三日か……」
哀川の見積りに思わず険しい顔になる。確かにあれだけあった残骸の掃除速度を見れば彼らの作業効率の良さは伺える。だけど、そのセットはこの一ヶ月をかけて作られたものなのだ。残り滓とともにすぐに片付けられるものではない。
「それがプロとアマチュアの違いって奴よ。別に卑下することじゃないわ。だって、情熱はどちらも同じだもの」
「あれだけ大人に頼りたくないって言ってたのにな」
「交渉も立派な技術よ。できることは何でもやる。なに? そのつもりだったんじゃないの?」
哀川は僕の頬を覆われたガーゼの上から人差し指でぐりぐりと押す。じんわりとした痛みが伝わる。何か突きつけられているようで哀川の方を見ていられなくなる。
「信用の方も大丈夫そうね」
「……ああ、向こうから折れてくれたからな」
信用回復。それは思わぬ形で達成された。
――どうやら道明寺が壊して回ったらしい。
そんな噂が一夜にして広まったのである。
本人は否定しているが、新聞部のチェーンメールに寄る情報の拡散、及び噂の概要が書かれた新聞の記事が学校中にバラまれていたことは確実に生徒たちに不信感を募らせた。普段の彼の態度が悪かったというのもあるし、何よりも彼自身の反論がないのも噂の信憑性を強めた。あいつも強く出れないのだ。
「ボロボロになったかいがあったわね」
「なんのことだ」
「まだシラを切るの? まあ、喧嘩して白状させたっていうよりは新聞部の諜報能力に負けたって方がうちのクラスのダメージも少ないか。新聞部は新聞部で問題になる気がするけど」
「……新聞部、ね」
「どうかしたの?」
「いや、何でもない」
新聞部。なぜか誰もその部員の知らず、学校側に問い詰めても「そんなものは存在しない」と返されてしまうような学校非公認団体。その実力は折り紙つきで、ゴシップめいた突飛な内容でもその大半は事実である。……らしい。実を言えば、今日まで詳しくは知らなかった。哀川に新聞部について聞いたら、「そんなのも知らないの?」と呆れながらも教えてくれた。
だが、そんなに情報収集能力を持った新聞部であっても、僕には納得がいかない点がある。
……僕はまだ情報をリークしていない。
今日にでもばら蒔こうと考えていたのだ。そもそもいくら電子媒体を使ったからといって情報がたった一夜で広まるだろうか。
それもまるでその場にいて見てきたような記事――それこそ盗撮でもしないと得られないような詳細を記事にできるのだろうか。
僕は確かにとあるビデオデータを持っている。しかし、それは今もこの胸ポケットに入っている。仮に滝本がバラしたとしても物的証拠のこれがないと信じようとはしないはずだ。
だとすれば道明寺側の人間が情報を流したのか。ありえなくはない。表面上は従順に従っていても内心不満を貯めている奴はいくらでもいるだろう。しかし、それは自分の首を絞めることに他ならない。
これだけの記事は書くためには僕と同じことをした人間がいる。
実を言えば仕掛けた監視カメラは全部で六つ。他クラスのビデオカメラを勝手に拝借した。だとするとカメラは自前か。いやしかし、カメラをセットする時にはカメラの位置が分からないように選んだのだ。その際には何にも見つけられなかった。
まるで誰にも察せられない幽霊のような存在。
新聞部って何者なんだ?
「何やったかは知らないけど、上出来よ」
「僕はなんもしてないさ」
本当に。ただサンドバックになっただけだ。喧嘩に勝てたのもほとんど滝本のおかげだし。
「あれだけの啖呵切ってて本当に何もしてないなら結構問題だと思うんだけど?」
「いい部下を持った」
「なに言ってんのよ、あんたの方が下よ」
冗談めかして、哀川の頭を撫で、彼女の功績を称える。彼女のコネクションがなければ例え信頼回復しても、葵祭参加は不可能だった。
哀川は僕の手をすぐにでも払い捩じ上げると思いきや、意外にも素直にそれを受ける。ただ慣れていないのか、そっぽは向いているのだが。僕としても予想外だったので、やめ時を見失う。
「ふ、ふんっ、こんなんであたしに感謝した気にならないでよ。そうね……メロンパン食べたいわ」
「……コンビニでいいか?」
「いーや。パン屋さんのがいいわ」
「…………。移動販売今日は来てるかねえ」
あれをパン屋に含めるかはいささか疑問だが。
哀川は哀川で従業員に挨拶をしたり、話を聞かなければいけないらしく、一旦別れた。学校代表としての責任と対応を忘れてはいない。そんな彼女に自分で行けと返すのはなんだか気が引けたので、大人しく学校近くの公園へと足を向ける。
あまり買い食いをすることはないので詳しくはなのだが、学校の敷地よりよっぽど広いその公園では様々な移動販売が頻繁にやってきて、ちょっとして縁日状態だと聞く。
特に夏は葵祭の準備で街全体が活発になるから頻繁に売りに来るとのこと。全ては以前に音無が話していたスイーツ談義の一部を抜粋したものであり、僕としてもその真偽や味の評価はしかねる。
「……あれ、音無」
公園は学校の目の間に伸びている大通りの向かい側の先にある。最寄り駅から学校へはその大通りを通ってくるため、道を挟んで向こうから見慣れた姿を発見した。
別に大きな声で呼ぶわけもない。どうせすれ違うから挨拶ぐらいしておくかと考える。一ヶ月の僕なら挨拶どころか無視を決め込んでいただろう。自分から挨拶なんてほとんどしたことがなかったのに、実行委員になってから随分と変わった。
前向きな変化なのだろう。決して暗い自分が好き、というわけではなかったけど、以前の自分からの乖離を感じるはどこか寂しさに近いものを感じる。戻りたいとは、思わないのだけど。
「――――――え」
僕は目撃し、絶句。
こちらに歩いてくるヘッドホンをした彼女を。
赤信号だというのに、横断歩道を渡る姿を。
気づいて、ない……?
交通ルール違反だとかそんなことを声高らかに謳う気はない。しかし、彼女に様子は心配にならざるを得なかった。
まるで、抜け殻のようなフラフラとした歩み。
思考に夢中で世界が目に入っていない、その姿。
「おい、音無――」
呼び止めようとして、気づく。
その。トラック。が勢いよく。突っ込んで来て。まだ気づかない音無。フラッシュバック。推定。予想。数秒後の未来。鋼鉄。肉。叩く音。赤い。液体。悲鳴。呻き。音無。死。
全身の毛穴が開き、汗が吹き出る。眼球は瞬きを忘れ、一気に湿り気を失う。焦点が合わなくなる。見たくない。でも、目を離せない。どうにかしなければ。叫ぶ。声が出ない。一歩前に出ようとする。足が動かない。駄目だ。いや、動け。動け。
助けないと。音無が。
――『人殺し』
もう、誰にも呼ばせない。
ぜったいに……っ。
僕は走る。手を伸ばす。呼ぶ。叫ぶ。気づけ。いや。届け。この手。速く。一歩でも速く。
「――――音無ッ」
掴んだ。
彼女の手を引き、僕の胸に抱きとめる。
僕は抱きしめたまま、後方に倒れ込む。アスファルトが僕の背中を強く打ち、肺の酸素が一気に吐き出される。
刹那、巨大な質量が生む疾走による一陣の風が僕たちをなびいた。
間一髪。
「平気か、音無!」
僕は痛みを忘れ、彼女の安否を確かめる。腕。脚。胴。頬。順に掴み、どこにも血が流れ出ていないことに安堵する。そのセクハラ一歩前の安否確認を自嘲できないほどに僕の動機は、思考は激しく乱されていた。
そして、音無と目が合う。彼女は何が起きたのか分からないらしく、「えっ、えっ」と僕の胸の中で、あたふたとしている。
「よかった……」
彼女に怪我はない。何よりもそれに安心し、他に車が通らないうちに脇に捌けようと音無を立ち上がらせようとする。そして僕は早口で、
「音無もヘッドホンして歩いてたら危ねえだろ!」
僕は、見つける。
音無のヘッドホン。耳あて部分から伸びたケーブル。それは地面に向かって伸びていた。――しかし。
その先には何もなかった。
音楽プレーヤーも何も。
「どこかで落としたのか?」
びくりと、音無の肩が跳ねる。嫌な、予感がする。
「お前、僕の話聞いてるか?」
いいや、そうじゃない。
音無はずっと震えていた。それは交通事故に巻き込まれそうになったからだと勝手に思っていた。
彼女と一度も目が合っていないことに気づくまでは。
その視線はずっと僕の口元に向いている。
まるで、何かを読み取ろうとしているかのように。
声も発せず、彼女の唇は動く。
やめて、と。
それでも僕は問う。確かめなければならなかった。
そうしなければ今までの彼女の言葉が、虚偽になるような気がして。
「お前……。僕の声聞こえてるのか?」
「――――――――――――――――――――――」
言い終えるよりも先に、音無は背を向けた。
逃げた。
僕から、事実から、現実から、耳を塞ぐように。
その背中が答えを物語っていた。
「……くそ」
苛立ちが漏れる。
ずっと、真摯に僕に訴えていた音無。
僕に向けられていた言葉は、実のところ彼女自身には全く聞こえていなかったのだ。
何よりも、その苛立ちは、彼女には音がないことを知らずに、彼女の世界を描いた気でいた自分に対するものだった。
僕は、何も分かっちゃいなかったのだ。