9-1
「その顔どうしたの?」
「転んだ」
自宅に帰ってきたはずなのに、なぜか哀川に出迎えられた。もはや彼女がうちにいるのは日常茶飯事なので深くは突っ込まない。というか、そんな体力は僕にはなかった。
敷居を跨ぐと同時にフローリングに僕は倒れ込んだ。急に倒れた僕に受け止めることなく、軽快に一歩引いて避けた哀川。僕は床に寝転がり、哀川をぼんやり見上げる。
哀川は仁王立ちになり、こちらを見下ろしながら呆れる。
「子供か、あんたは。まあいいわ。お腹空いたの、四人前ね」
問答無用の要求に僕は思わず溜息を漏らす。こちらは全身のあちらこちらが痛いのだ。さらに言えば口の中も切れて血の味がするし、そのせいで喋りづらい。
「……お前、怪我人に……ん? 四人前?」
思考力が低下しているために聞き逃すところだった。しかし、我が家にいると思われるカウントはどう考えても三人のはずなのだ。目だけで玄関に並べられた靴を見ると、三足。……僕が今履いているのを除いて三足だった。哀川が友人でも呼んだのだろうか、それとも座敷わらしでもいるのか。
哀川は「みっともないから早く起きなさい」と怪我人を咎めてから、居間から順に指を動かしていく。
「ええ。あんたと、妹ちゃんとあたしと、あとパパ」
「そうかい。…………。……はい?」
「悪いのは頭? 耳? それだけ殴られて治らないなら重症ね」
「転んだって言ってるだろ。それより、なんだって?」
「だから、パパよ」
そう言って、哀川が指さした先には、
「…………………………………………………………………………」
「…………え」
なんか、無言で圧をかけた巨漢が哀川の隣にいた。
女の子とはいえ、長身の哀川が小柄に見えてしまうほどに身長。半袖のシャツは小さくないのだろうか、はち切れんばかりに隆々の筋肉が押し上げている。その顔はむつりと一文字を結んでおり、髪はきっちりとした角刈りだった。
何より特徴的なのはその目つきで、野獣の如き眼光は視線だけで弱者を殺しかねないものだった。
「……パパって……」
「マイファーザーよ」
引きつった表情の僕にさも当たり前のように紹介する哀川。さすがの僕も全身の痛みを忘れて跳ね起きる。
「何でお前のパパンがいるんだよっ」
「あたしが呼んだの。理由は明日になれば分かるわ。なにママンも呼んで欲しかった?」
「いやだから何でうちに呼ぶ?!」
「あたしも明日来ると思ったんだけどねえ。なんかさっき連絡あって娘の生活が見たいって」
「さっき言ってた待ち合わせって……」
「パパのことよ」
「自分の部屋行け」
「だって、あたし大半ご飯食べてるのここだし。あんた紹介するって言ったし」
「なぜ言った」
「おおおおおおお兄様ッ!」
僕の声を聞きつけたのか、今の方からぎこちない足取りで僕の方に駆け寄り、がくがくと肩を揺らす。握る手が強いせいで骨に響く。
「お兄様これは一体どう言うことなのでしょうご挨拶という奴ですかまさか結婚とかそういう奴ですか?!」
「落ち着け。僕以上にテンパるな」
といっても僕も落ち着いていられるわけもない。理由を求めてこの返答だ、哀川に何かを期待するだけ無駄というものだろう。しかし、と横目で脂汗を流しながら哀川パパを見る。
この流れはあらぬ誤解を掛けられてお前に娘はやらんぞちゃぶ台返しの流れなのではないかとしばし警戒していると、のっそりと哀川パパは近づいた。
僕よりもタッパも幅もあり、絶賛負傷中の僕にトドメをさすことなど造作もないだろう。いやどうして終わらせること前提なんだ。
「ん」
哀川パパは、僕の顔など片手で掴めてしまいそうなほどに大きな掌を差し出してきた。
意図が分からず、しばらく呆然としていると、ずいと手をさらにこちらに差し出す。
「あ、握手?」
「ああ、パパ口下手だから」
口下手だとかそういう次元ではない気がするのだが。日常生活に支障はないのだろうか。
娘に「ねー」と言われると、ぎこちなく頷く。「ふふっ」と哀川に抱き着かれると、照れたように顔を赤らめた。結構な親バカのようだ。
僕もできる限り冷静を装いながら、恐る恐る手を伸ばす。
「霧隠です。娘さんには仲良くさせてもらってま――」
それは一瞬だった。
「へ」
握手に向かっていた僕の手は見事に空振り。その手首を掴まれた。反射的に身を引こうとするが離れない。それどころか強引に引っ張られ、まるでボロ雑巾でも扱うように床に組み伏せられた。哀川パパさんは何を考えているのか、手を極限まで引っ張り、僕の骨をぎちぎちと鳴らす。
殺られる。そう確信した。
僕は逆手でタップ。白旗を即座にあげる。
「いでででででっ! 何するんですか?!」
「大人しくしなさいよ、せっかくパパが手当してくれてるのに」
「……手当て?」
どう考えても関節決まってるんですが?
僕の怪訝な表情を察したのか、哀川はしゃがみ、僕の額に指を当てる。その力は徐々に強まっていく。怪我した人間が文句を言うなと言う態度である。僕に人権はないのか。
「安心なさい、整体師の資格も持ってるし、治療ならその辺の町医者よりも慣れてるわよ。あ、パパ。はい、救急箱」
「ん」
治療に慣れているということは怪我をするのが多い仕事なわけで。この物騒な見た目からはあまりいい職業が想像できないのですがどこかの組の方なのでしょうか。
思ってはいても、口には出せない。出せるわけがない。
僕の内心が不穏になっている間も“手当て”は行われ、全身に消毒液やら包帯やらが当てられ、体中の筋肉と関節は悲鳴をあげた。死体に鞭打つとはこのことだろう。
ゴキリ。
「――――ッ」
あかん。今、あかん音鳴った。
「うわっ、お兄ちゃん、大怪我じゃん。病院行った方がいいんじゃないの?」
「パパ、その必要ある?」
哀川の問いに首を振ったのか、背中に乗った哀川パパの体が揺れる。その後、哀川と何やら視線のやり取りをしているのかしばらくの無言の後、「そう」と哀川がどこか安心する。
「骨も折れてないって。よかったじゃない、派手なのは見た目だけだそうよ」
「あの、一応怪我人なので優しく、」
「転んだんだから自業自得よ。――まあ、転びに行ったかどうかは知らないけど?」
「………………」
僕の無言に哀川は溜息をつく。こちらに言う気がないことを察したのだろう。
そう、僕は転んで怪我をした。
――それで、数日後にはうちのクラスの信用も戻ってる。
そこに因果関係は何も、ない。ない方がいい。
「ん」
唸りとともに背中の圧力がなくなる。大男が背中を押すのをやめたのだ。どうやら哀川パパの治療が終わったらしいが、あれだけ暴力的な関節技を決められたんだから悪化するはずだ……って、あれ。
「……本当に痛くない」
「だから言ったじゃない。そこら辺の町医者よりはよっぽど優秀だって」
腕を回し、足をさする。全身包帯がいたる所に巻かれているそこに痛みはない。意外にも包帯の巻き方も丁寧で、少し動かしたぐらいでズレるようなことはなかった。どうやら本当に治療に自信があるらしい。
どこか幼く、甘えたような声で「パパすごいもんねー」と言う娘に熊のような大男は照れたように頭を掻く。人は見掛けに拠らないというけれど。
僕は自らの非礼を恥じて、相手の様子を伺いながら頭を下げた。
「あ、あの、ありがとうございます」
「ん」
「どういたしましてだ、って」
哀川の返答に僕は安堵の息をつく。
どれも返答は「ん」だけだし、表情も変わらず強面だからかどうしても探り探りの対応になってしまう。
これからどうしたものかと考えていると、ぐうううと地の底から響き渡るような魔獣の唸り声の如き音がその場に響いた。
その音の大きさに何事かと思うと、哀川パパが腹の辺りを摩っていた。
「仕事終わりにすぐ来てもらったからご飯食べてないらしいのよ」
娘が父の腹の虫を代弁する。空腹であんな音初めて聞いた。
「えっと、……あの、オムライスとチャーハン、どっちがいいですか?」
「…………。オムライス」
僕と妹、哀川にそのパパという奇妙な食卓を囲うことになった。
それは一見すると家族で食事をしているかのようで。
そういえばしばらく実家で飯を食べていないなと気づく。
哀川パパがやってきた理由は翌日明らかになった。