7-3
「何様だあいつッ!」
生徒会室を後にし、教室に向かう途中のこと。滝本は堪えきれなくなったのか、唐突に叫んだ。廊下に彼の声が響き、向こう側に小さく見える生徒の注目を集めてしまった。
ビビって何も言わなかったのに調子のいい奴だ。僕は呆れるが、その意見に全員概ね同じ、哀川に喜多山、そしてなんとあのクラス委員も頷いていた。
「……ふあっ」
気の抜けた声とともに、音無は腰を抜かす。どもりが少ないなと思ったが、どうやら今まで息を止めていたらしく、ぜーぜー呼吸を荒げていた。隣にいた喜多山が背中をさする。緊張の糸が切れたようだ。
「こ、怖かった……」
「よしよし、偉かったねー」
喜多山は音無の頭を撫で、宥める。
「すげえよな、音無。あの会長と張ったんだし」
「音無さん、あんなに話せたんですね」
滝本とクラス委員の各々の感想に「へへ……」と音無は困ったように頭を掻く。照れと恥ずかしさが混在したはにかみ。さきほどの会長に噛み付いていた時とは大違い。
僕は何もできなかった。だけど、彼女にはできた。
そのことが嬉しいようで、少し悔しい。だけど、それ以上の思いを胸の左手を差し伸べる。
「ありがとうな、音無」
「……うん」
音無は僕の手を受け取る。力のほぼ入らない自分の腕に掴まる彼女を僕は体の反動を使って彼女を引っ張り上げる。音無自身の力も手伝って無事に成功した。
人を引っ張り上げるほどの握力はないかもしれない。でも、一人で引っ張り上げる必要もないのだ。
立ち上がった音無は僕が数秒握った手を見ていると、「どうしたの?」と不思議そうに首を傾げた。「よっ、ご両人っ」という喜多山のはやし立てで音無は「ち、ちち違うっ」と顔を真っ赤にする。
でも、自分からは手を離そうとはしなかった。テンパっていたのだろう。
僕と音無の手は「ちょっと、しっつれーい」と哀川の割り込みよって断ち切られた。
彼女は僕と音無の間を抜け、その先にある昇降口へと向かった。その手には携帯電話が握られていた。
「みんな、先行ってて。少し電話してくるわ」
「恋歌っち、お仕事?」
「うーん、そうね。ビジネスって言えばビジネスかも知れないわ」
「わー、あくどい顔」
「安心していいわよ。私たちには悪いようにならないから」
そういって哀川はどこかへ行ってしまった。いつぞやの時のように追いかけようかという気にもならない。あれが大丈夫だと言っているときは大丈夫なのだろう。楽しげだったのが少々不安であるが。
……大体、楽しそうなのに僕の足を誰にも分からないように踏んでいくとはどういう了見だ。僕が何かしたというのか。いや、哀川が暴力を振るう理由の大半はよく分からないのだけど。
「おやおや、誰かと思えば犯罪者一行様じゃないか」
哀川に全員の意識が向いているところへ、粘着質でどこか他人を馬鹿にしているような声色が投げられた。知りたくもない見知った声。僕たちが振り返ると、やはりいたのは道明寺……とその取り巻き。僕と対して身長が変わらないはずの彼は僕を見下す。
「……犯罪者?」
オウム返しする僕に道明寺はお大げさに手を上げる。僕たちを計るように周りを練り歩き、取り巻きに向かって同意を求め、指示を集めるためだけに声高らかにあることないことを並べ立てる。
「そうだろう? 二年のクラス全てに舞台を壊して回って、さらには経済効果のある葵祭そのものの存亡を危ぶませる君たちが犯罪者以外のなんだって言うんだい? さすが一級犯罪者のいるクラスというわけか」
そう言って、「なあ?」と取り巻きに同意を求める。「そうっすよ!」「犯罪者!」「さっすが、道明寺さん!」連中は道明寺を担ぎ、信仰する。
「葵祭に出られなくなって当然だよな――――」
……ああ、こいつか。
意外に尻尾出すの、早かったな。
僕はぐるぐると腹の中で感情と思考が渦巻き、体温が上昇していく。
「――どうして知っている?」
「……なんだって?」
「僕たちは今生徒会長直々に聞いてきたところだ。委員会も開いていないはずなんだ。知ってるわけがないんだが」
「………………。そんなの考えれば簡単に予想が付くさ。揚げ足でも取ったつもりかい? 君が放課後最後に残っていたのは厳然たる事実だろう? 君がやったんじゃないのか? ああ? 花火に紛れてさあ! 犯罪者が何か言ってそれが正しいなんてあるはずがないんだよ?!」
犯罪者だから、正しくない。
ロジックとして、最底辺の偏見でしかないそれ。
レッテルを貼られ続けた僕としたは、身に染みていること。
誰からも信じられず、認められず。人のトラウマをえぐるには最適だ。道明寺もそう思ってあえて「犯罪者」なんて言葉を使ったのだろう。……でも。
こっちはそんなの慣れっこなんだ。
お前は、詰めが甘い。
逃げ道はいくらでもあったのに、わざわざ自分で塞ぎに行くんだから。
僕は「へえ」と大げさに驚き、周囲の注目を集める。
「僕たちが残っていたことを知ってるんだな。記録に残ってるのは”クラスだけ”のはずなんだが。しかも花火が上がってる時間帯ってことまで分かるんだな。もしかしてお前も残ってたのか?」
「………………」
無言。ボロを出さないという意味であれば一番正しく、僕たちを陥れるというのなら間違っている。沈黙はある事実を確定させるだけだ。それは僕が予想した通りの事実。
道明寺の無言に取り巻きも、うちのクラスの連中も気まずい空気を漂わせている。誰も声を発しない。誰もが自分の出る幕ではないと理解しているのだ。
それはそうだろう。所詮これは道明寺の僕に対するあてつけなのだから。
恨めしそうにこちらを睨む道明寺の横を僕は通る。
「……雑だな。策も――絵も」
そう、言葉を残して。
彼の歯ぎしりが聞こえた気がしたが、僕は気にせずクラスの方へ足を向ける。それを皮切りに凍りついた空気が動き出す。動き出したところで決していい空気にはならない。
僕の後をクラスの連中がぞろぞろと葬式の後のようについてくる。
「あ、あいつなんだったんだ?」
「さあ?」
僕は肩をすくめる。滝本は僕が話す気がないと察したのか、それ以上のことは聞かなかった。滝本は両手を頭の後ろに手を組み、僕の横に並ぶ。
「しっかし、信頼を取り戻すねえ。ボランティアでもすっか?」
「神経逆撫でるだけだろうさ。やっぱり、手っ取り早いのは犯人を見つけることになりそうだな。あまり気分のいいものじゃないけど」
決して褒められたことじゃない。けれど、他に選択肢がないのも事実だった。
……ミステリ小説は読む方ではないのだが。
「探偵ごっこ、か」
容疑を晴らすには、他の容疑者を晒すしかないのだ。
「でも、それは正しいことなんでしょうか?」
「委員長は、真実でない方を守るのか。らしくないな。正直者が馬鹿を見るんだぞ?」
「いいえ。正直者は馬鹿にされるだけです。正直でいることに罪はありませんよ。少なくとも、私は私たちのクラスに罪はないと信じています」
「それだけじゃ、解決しないこともあるだろう」
「でも、信じないと始まりもしません」
「…………。生きにくくないか? お前」
「ヒネクレ者のふりするよりは楽だと思いますよ?」
「……別に犯人を晒し上げるわけじゃない。見つけて、それで何か解決策があるようならそうするさ」
もっとも、そんなものはないのだけど。
僕たちが参加資格を取り戻すためには、何かを犠牲にしなくてはいけない。
その”何か”を選ぶ余裕は、僕たちにはない。
「しかし、まずの問題は」
「どう説明するか、ですね」
教室の前に到着し、自然と僕たちの足は止まる。誰もドアを開けようとはしない。
無条件に参加が決められていたものが突然に条件付きになったのだ。マゾか主犯でもない限り現状を喜ぶものはそういない。ただ話したところで反感を買うのは必至だ。
当然それは実行委員である僕と音無の方へ向けられるだろう。不満をぶつけられるのはいい。しかし、クラスがそれでまとまるならともかく、内部分裂を誘発するのは目に見えてる。疑心暗鬼に陥る集団ほど取り返しのつかないものもない。
「でも、嘘をつくわけににも、いかないよね」
「そうだな」
音無の言うことは正しい。隠せば学校どころか、クラスの中でも信用を失う。バレると嘘は付くだけ自分を追い詰めるだけだ。
「まあ、一番冷静そうな彩葉が話せば少しは落ち着くんじゃねえの?」
「ロハっちは落ち着いているよりは無感動な気もするけどねー」
滝本と喜多山の評価を適当に流しつつ、どう話すかまとめていると、
「あんたたち、こんなところに突っ立て何やってるの?」
棒立ちになっている所へ用を済ませたらしい哀川が合流。自分のクラスに入るのを躊躇っているのだ、不思議にも思うだろう。僕はがしがしと頭を掻く。
「戻りたくないんだよ、厄介なのは目に見えてるから」
「止まっても変わらないわよ。大体あたしたち以外にも盗み聞きしてた奴いるから自粛の話ぐらいは知ってるんじゃない?」
それもそうなんだが。どうやら刹那的な逃避も彼女は許してはくれないらしい。迷うくらいなら進めと言わんばかり。カリスマ性はあるが、リーダーとしては駄目なタイプだ。確実に自爆する。
あれやこれと悩んでいると、「ええい、女々しい」と哀川が率先して引き戸を開いた。クラス中の視線が集まる。その中を哀川は堂々と風を切り、僕らはその後に続く。実行委員である僕と音無にほとんどの注目が向いていた。
僕は教卓の前に立ち、クラスを見据える。練習途中の者や道具作りに勤しんでいた者たちは一斉にその手を止める。学年中からかけられた嫌疑に、生徒会の呼び出し。気にならないほうがおかしい。
「みんなに伝えることがある」
僕はそう切り出し、条件をこなさなければ葵祭は自粛になる旨を伝えた。
言い終わるなり、「なんだよそれ!」「勝手じゃない!」「なにあんたたちが勝手に決めてるの?!」各々の声が教室を飛び交う。その声のどれもが尖っていた。その刺の先にあるのが僕たちなのは目に見えて明らかだった。
犯人は僕たちではないのに。
音無はクラスの動揺を払おうと、僕の隣に立ち、声を上げる。
「絶対、できるようになるようにするから」
「そんなのできるわけないだろっ!」「学年からハブにされているのよ?!」「どうしてくれんだ! お前らのせいだぞ!」
自分たちではどうしようもないとすでに諦めている連中の怒りとも嘆きともつかない心ない音無への罵声が投げられた。
「あんたは実行委員の言うことを信じないの?」
その暴言を庇うように音無の前に立ったのは、哀川だった。抗議の声は怯まない。
「はン、信用はすでに底辺だってことが分ってないの?」
「分かってないのはあんたの方よ。あんたたちは信用していないの? ――あたしたちが負けると思ってるの?」
かつて彼女は本気じゃない。アマチュアだといった。しかし本気へと変えてきた。意地がある。……相当、腹が立っているようだ。キレて手を出さないといいが。
「だからイラついてんでしょうが! なに?! アイドル様は庶民の気持ちも分からないほど偉いわけ?!」
「あたしの職業は関係ないでしょうが。私は、哀川恋歌よ」
「違わないじゃない! なに、言葉遊びして楽しい?! そんなに人を見下すのがいいの?!」
哀川が出てきた途端にやたらと噛み付く一人の女子生徒。名前はなんだったか。山田あたりだった気がするが、今はどうでもいい。
山田(仮)の反応はヒステリックではあるものの、一般的なものだ。
アイドルという異分子。偶像でしかないそれが実態をもってそこにあることは滝本のように興奮を生むこともあるが、彼女のように不安を煽ることにもなる。
人間は、創造物を突きつけられると受け入れられない。一言で言えば、嫉妬。
しかし、哀川は偶像物としてではなく、一人の生徒としてここにいる。
同等に、見てもらえていない。それが哀川をイラつかせているのだろう。
一人が極度に騒げば他はある程度落ち着くようで、抗議をしていた他生徒の声が一瞬だが止む。その様子をじっと見ていた僕。その視線が気に食わなかったのだろうか、山田(仮)はこちらをきっと睨んだ。
「なによ、元はといえばあんたが放課後残ってたのが悪いんじゃない! 何で自分は関係ないような顔してるわけ?! そんな涼しい顔していられるわけ?! 私たちの……私の葵祭返してよッ!」
僕は襟首を掴まれ、そのまま黒板に押し付けられる。その力は非力なものだ。哀川はそれを冷めた目で見て、意外なことに音無も似たような表情をしていた。他のクラスメイトがその行動に慌て出し、こちらにやってくる。
僕は、目の前の少女の哀川を静かに見る。
「だから?」
その声は、自分でもぞっとするくらいに落ち着いていた。僕の一言に、ざわついていたクラスが一瞬で静寂に変わる。
「だからって……っ!」
「お前、何か勘違いしてないか?」
僕は掴まれた襟首を外す。抵抗できるはずのそいつは、まるで蛇に睨まれたかのように素直に離し、逆に距離を取る。
「な――なに言ってんの?」
「はっきり言うぞ。僕は葵祭なんてどうでもいい」
「――――な」
絶句する山田(仮)。僕は彼女ではなく、クラス全体に向かって声を投げる。
「どうでもいいから、分からない。お前らはどうしてそんなにも葵祭に執着するんだ? 想いを託そうとするんだ? 別に死ぬわけでもない、ただのイベントだぞ。体育祭じゃ駄目なのか。球技大会じゃ駄目なのか。そんなに強いもんなら、僕の責任を押し付けて終われるものなのか?」
僕の問いに、風のない水面のように静けさが広がる。誰もが呼吸を忘れたように息を潜めていた。まるで言葉を禁じられているかのように。脆い静寂こそが憩いであるかのように。
――その場に石を投擲し、波紋が生まれる。
「私は……葵祭が好き。好きだから、託したい」
……音無の意思によって。
何を、とは言わなかった。己の想いを言葉にしたって薄っぺらくなることを彼女は分かっているのだ。どんなに理知的であっても、感情的であっても。それはたぶん、物語を書くような彼女だからこそ、言葉に対して思い入れがあり、必要以上に敏感になる。
言葉と一緒だ。
自分がどんな思い入れを持っていても、他人には関係ない。あるのは解釈と、納得。
そして、歩み寄る理由。
相互理解は無理。本音のぶつけ合いも混乱をきたす。
なら歩み寄るしかない。それは、いわゆる妥協と呼ばれるものだけど。
不器用で、効率が悪くとも。できなければ、そこで終わりだ。
僕は静かに、そしてゆっくりと息を吐く。まずは学校ではなく、目の前の連中に喧嘩を吹っかける。
「考える時間が欲しいだろ、みんな。敵に回すのは学校全体だ。僕たち以外全てを疑ってかかり、犯人を見つける。もし見つけることができても責任を押し付けることができない。なのに学校中のセットを僕たちで手配しないといけない。――そこまでして葵祭を成功させたいか」
教卓に腕をつき、僕はクラスに挑みかける。
この半年、まともに見もしなかったクラスメイトたちをはっきりと見た。
らしくない。それでも高ぶった感情はそう簡単に沈められない。
絵に向かっている時とも違う、妙な浮遊感。頭日が昇っているのか、視界がぐらつく。しかし、それを上回る強い感情が僕を奮い立たせた。
自分が自分でなくなる感覚。――いや、自分になっていくかのようだった。
何が一番冷静だ。一番腹が立っているのは他ならない、僕だった。
「どうしてお前らはそんなにも青春を捧げられるんだ?」
抵抗できるんだ。そんなに頑張れるんだ。
否定されるかもしれないのに。
何で、怖くないんだ。
それから一時間のシンキングタイムを取ることとなった。僕は席を外し、屋上へ。教室で何が行われているのかは分からない。説得か。愚痴か。はたまた本音か。
僕は他人がどう思っているかは知りたかったけど、そんな喧騒には興味はなかった。
だから、待つ。僕と彼らの意思が固まるまで。
「随分熱かったのう」
「……お前か」
不思議と彼女が居ることに疑問は持たなかった。しかしまあ、あれだけの大声を出したのだ、他クラスの人間に聞かれていても不思議ではない。
もっとも。彼女の場合はどこにいても全てお見通しなのだろう。そんなありえないことを可能にしてしまいそうな雰囲気を漂わせている。
「お主はこれからどうする?」
啖呵を切った以上僕が責任を取らなければならないことがある。
そうなければ、気が進まなかった。
「僕は、見たいんだ」
「それは我にも見せてくれるのかえ?」
「当然」
そして一時間後。
教室に戻ると、全員が席についていた。誰一人欠けることもなく、そこにいた。
彼らの意思は固まっていない。決して一つなんかではない。でも、向いている方向は同じ。
「ったく、どうしてこうなるやら」
面倒だ。実に面倒だ。
葵祭なんてどうでもいい。どうでもいいが、責任放棄するほど落ちぶれても、いない。
期待に、失望に押しつぶされて、僕はずっと逃げていた。今でもそれに立ち向かうのはなかなかに面倒だし、正しい答えに辿り着くわけでもない。それでも。
もう薄っぺらい世界なんか飽き飽きしてるんだ。
なら、変わるしかない。変えるしかない。
そう、彼女たちに教わったから。
音無や哀川に負けるのは、嫌だった。
僕は言う。
「絶対に葵祭を成功させるぞ」
そのための橋を僕が描いてやる。