5-8
深夜一時。花火の騒がしさなどすっかり静まり返ってしまった時間。
ライブを十分に楽しんだらしい我が妹は布団を僕のスペースを考慮せずに一人で占領し、いびきをかいている。妹は寝袋を持ってきたらしいが体に馴染まず、初日で挫折。家主の意見を無視して僕の布団に潜り込むようになっていた。
「僕も寝袋は苦手なんだけど」
ちゃぶ台に頬杖を付きながら嘆息。
今日は非常に疲れた。朝の段階では面倒な練習スケジュールとばかり思っていたのに、その後に絵を描くことになるとは。その後は青春よろしく花火を背景にダッシュである。これで疲れないわけがない。
疲労感が睡魔を呼び、うつらうつらとし始める。頬杖から頭部が外れちゃぶ台に顔面を打ち付けるのと、田舎出身特有の防犯意識の薄い我が家の鍵なし扉が開くのは同時だった。
額をさすりながら誰だと振り返ると、いきなり胸ぐらを掴まれ、そのまま押し倒された。後ろには当然ちゃぶ台があり、今度は後頭部を強打。台の上にあった物が震える。
「……っつう」
痛みから声にならない。首、そして上半身を起こすと、胸の辺りに誰かの頭があった。あぐらの上に乗っているらしく、無理に股関節が伸ばされ今度は痛みの範囲が広がる。
鈍痛で目が覚めたが、目の前の状況が整理できない。なぜ僕はのしかかられているんだ?
「哀川か……?」
やっと頭が回り始め、その正体に気づく。呼ぶと、正解だと言わんばかりに、その綺麗な顔が上がる。
「……打ち上げとか、なかったのか」
お疲れ様だとか言えばよかったのに、口から出きたのはそんな見当違いの言葉だった。
「学生をこんな夜中に連れ回す大人はロクな大人じゃない」
「こんな時間に押しかけるのもロクな奴じゃないと思うんだか」
「知らないわよ」
「……なんか、怒ってる?」
「別に」
その声は尖っていた。でも気の強さはどこにもない。弱々しささえ感じる、不貞腐れた声色だった。
「ライブ終わって片付けして反省して明日の打合せしないで帰ってきた」
「サボっちゃいけないだろ……」
お前が言うなと目で訴えていた。ごもっともである。
「なんで来なかったの」
「いや、そのだな……」
「聞きたくない」
「お前が聞いてきたんだろうが……。だいたい行ったぞ、僕」
「間に合ってない。指定席いなかった」
「まあ、そうなんだけど」
こいつ、ステージから僕を探してたのか。何万人と収容する大舞台の中で、こんな僕なんかが来るのを待っていた。
その事実に嬉しいような、呆れたような、なんとも言えない気持ちになる。
「何してたの」
疑問というよりは強制。逃げられない彼女のジトっとした非難の目に拷問耐性のない僕の口はあっさりと白状する。別に隠していたわけでもないし。
「絵を、描いてた」
「なんの?」
「舞台の」
「あんたが?」
「……そうだよ」
「………………………………。それ、有姫と?」
「有姫? ……ああ、音無か。よく分かったな」
あれ。哀川って、音無のことなんて呼んでたかな。そんなことに意識が取られる。
すると再び哀川は僕の胸に顔を押し付け、その表情を隠してしまう。
「…………。そう。……あたしじゃ、なかったんだ…………」
もぞもぞ動く彼女の熱い吐息。そしてじっとりとシャツが湿っていくのが肌で感じる。
「………………。……お前、泣いてる?」
「泣いてない」
「いやだって、」
「泣いてないって言ってんでしょ!」
「ぐえ」
彼女の頭が顎にヒット。若干舌を噛む。涙目になりながら庭を見ると再び胸に顔を埋め、今度は彼女の掌が僕の顎を押さえつける。
「こっち見るな。……今更、見ないでよ……」
「………………」
ああそうか。
こいつは、僕に見て欲しかったのか。
そんな当たり前のことに今更気づく。
どんなにプロ意識があっても、認められていても、見て欲しい人に見てもらえないのは寂しい。誰かに見てもらいたいから何かをする、というのはあまり記憶にない僕ではあったけれど、妹が褒めて欲しがりの典型だったので理解できる。僕にチケットを渡したのは義理の類だと思っていたけれど。どうやら違うらしい。
張り切っていたのは僕のため、と思うのは自意識過剰だろうか。
もし僕の想像空想妄想が正しいとすれば彼女の怒りももっともだろう。
まあ、全部勘違いなんだけど。
「――――――――」
我ながら下手くそな鼻歌だった。たどたどしくても、うる覚えでも、音がいくら外れていようとも。哀川が反応するまで口ずさむ。これはこれである種の嫌がらせに近い。
その歌は偶然にも以前に音無が歌っていたものと同じもので、追先ほどのライブで題名を思い出した。
サビになってやっと僕の鼻歌が伝わったらしく、哀川はその顔を上げる。丸くした目は赤かった。
「最後の曲は知ってたぞ。あれってカバー曲だろ?」
「……え?」
「だから行ったって言ってるだろうが……。途中入場だったから指定席まで行けなかったけど。チケット見せたら関係者席の方に案内してくれたんだ」
やけにテンション高めの人がちょうど関係者出口から出てくるのに遭遇した。「あなたもしかして……霧隠彩葉くん?」そうだと答えると、その人は哀川のマネージャーだと答えた。
マネージャーにどんな説明をしていたのか分からなかったが、
「あいつ、何も言わなかったのに……」
哀川はブツブツ愚痴をこぼす。あのマネージャーが何を意図したのか分からないが、伝えてくれなかったのは向こうのミスだろう。……あれ? 僕殴られ損? いや、でも遅刻した事実は揺るがない。
哀川が「まあ、来て当然よね」と態度を一変させる。だけど、哀川は目と鼻の先の距離を離れない。僕を逃がさないようにしているかのようだ。
「それで? どうだった?」
それは褒められるのを待つ子供のような眼差し……ではなかった。
期待はしている、のだろう。だけど、きっと彼女のは自尊心を持たすためじゃない。
あんな好きなことに一生懸命に取り組んでいる姿を見たら少しは自分を見返す。
それは――僕だって例外ではない。
僕は上半身だけ捻り、ちゃぶ台の上に乗っていたそれに手を伸ばす。
「まだ、描いてる途中なんだが」
「……え?」
音無に励まされ。哀川に励まされ。
なんだか照れくさくなってぶっきらぼうに言う。
「こんな感じだった」
――好きじゃないと、想いはのせられない。
この、言葉にすることは難しい自身でさえ曖昧な僕の気持ちは、これに込められているのだろうか。
哀川は、それを受け取る。
「これって……」
それは、絵。
哀川の――「輝夜姫月」のステージ風景だった。
なれない人物画。相変わらずの立体感のなさ。まだラフで荒く、技術的な面では昔よりもずっと劣っていた。だが。
「ねえ。これもらっていい?」
「……ああ」
哀川はそれを胸に抱き止め、微笑んだ。
「嬉しい」
目の端には少しだけ涙が滲んでいたけれど。
それでもその笑顔は見とれてしまうほどに綺麗だった。
不覚にも心拍数を上げてしまった僕は、「今日はもう休め」と目を泳がせて言う。動揺しすぎだろう、僕。
「というか、いつまで乗ってる気だ早く降りろ」
「いつまでセクハラしてんのよあんたは」
「お前から乗ったんだろうが!」
「訴えたら私が勝てるわよ、たぶん」
「なんて奴だ……」
軽口を言い合いながらも、哀川は距離を取り、ペタンと座り込む。そして、ぐううと大きめの腹の虫が鳴った。哀川はその音の大きさに少し恥ずかしそうにお腹を押さえる。
「お腹減った」
「太るぞ。こんな時間に食ったら」
「あたしが太ってるように見える?」
冗談めかしてポーズをとって見せる。彼女なりのお色気ポーズなのだろうが、照れが入っており、無理しているのが目に見えて分かる。豊満な胸。引き締まったくびれ。モデルでも十分にやっていけそうなスタイル。完璧なプロポーションだった。
「スケベ」
哀川は小馬鹿にするような口調で言う。雑誌の巻頭グラビアの類もやっていた気がするが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだろうか。いや、この場合は僕が馬鹿にされているだけか。
そういえば久々に飯食いに来たなと思いながら、僕は重い腰を上げる。
「簡単なものしか用意できないぞ」
「いいわ。あんたが用意してくれたものなら」
「そうかい」
何が残ってたかな、と冷蔵庫へ向かう。今更だが、これだけ騒がしくしておいてうちの妹はよく起きないな。
寝つきがいいといえばそれまでだし、今日のライブを数日前から楽しみにしていたからその反動で疲れたのだろう。しかし。
もし起きてたら。この様子を見ていたなら。……いや、やめておこう。
もし見られていたのなら僕が妹に弄られるのは必至なのだから。
だから、もぞもぞと布団の山が動いたのも、気のせいだ。
「ねえ、聞いていい?」
「なんだ?」
僕は冷蔵庫に顔を突っ込みながら、哀川に返事をする。
「絵を描くのは楽しかった?」
少し考える。答えは決まってる。しかし、素直に言うのは憚れた。僕は妹ほどありのままに自分を表すのは得意ではないのだ。
「まあまあ」
そう、と哀川は満足そうに頷き、僕の描いた自分の絵を見た。
さて。何を作ろうかね。
翌日。
僕たちのクラスを除く二年生クラス全てのセットが、壊されていた。




