5-6
「彩葉くん。絵を、描いて」
それは突然だった。
哀川が仕事という理由で朝からいない日だった。姫役はいないというのに、今日は王子がメインのシーンをやるということで、またしても僕は王子役として引っ張り出されていた。滝本は何をしているのか。というか王子が取り上げられる場面で王子がいないのはいかがなものだろうかと思う。
なんやかんやでその日も役者としての練習に参加していた。なぜか今日はいつもよりも早く帰宅するように当直の先生に促され、夕日も眩しい頃合に全校生徒は下校することになった。
そんな中、音無は僕を呼び止め、教室に引っ張り込んだ。
教師にまだ下校していないのを悟られないように電気を消して。そして意を決した彼女の第一声がそれだった。
ここ最近の彼女の視線が僕に対して異質なものであることには薄々感づいていた。別に僕が恋されているのだろうかだとか甘く痛い勘違いに至ったわけではない。
彼女の視線に宿っていたのは、憧れでも恋慕でもない。期待と意思、だった。
ずっと気づかないふりをしてきた。けれども逃れられない彼女の鋼の意思を宿した眼光が、簾のような前髪から僕を射抜く。決して鋭い目つきというわけではないのに、音無の可愛らしい丸い目からは想像もできないほどに威圧感がある。
「だから、僕は描くのが、」
「嘘だよ」
僕の呻くような声は、彼女にばっさり切り捨てられた。
「…………。嘘なんかじゃ、」
「嫌いだったら、あんな絵は描けない」
言い訳など受け付けない。そう言わんばかりの彼女の断言。おどおどした様子はどこにもない。
ついい一か月前までは内気だった彼女がいつの間にこんなに強くなったのだろう。
僕は葵祭から目を逸らしていた。その一方で彼女は懸命に取り組んでいた。
そのことが彼女を変えたのだろうか。
音無はこちらへと近づき、目と鼻の先に立つ。小柄な彼女はこちらを見上げ、言う。
「私は彩葉くんが描かない理由は知らない。悪いとは思ったけど、あの事故のことは私は知った。でもだから描かない理由にはならないと思う。嫌いだったら、あんなに想いを込められないよ。だってあれは――私の想いそのものだから」
それは勘違いだ。僕の反撃は胸の内で生まれ、そして消える。
僕たちに大した付き合いもない。加えて僕の方は協調性なし。理解できるわけがないのだ。
「好きじゃないものに、想いはのせられないよ」
「想いって……誰のだよ……」
言うべきではない。分かっているのに僕の言葉は止まらない。
「僕はただ描いただけだ。そこに誰かの感情を乗せることなんかできない。重ねることが出来るとすれば、せいぜい僕の気持ちぐらいだろ? 勝手に、僕の絵に――自己投影はしないでくれ」
「ねえ。投影は、いけないの?」
「……なんだって?」
僕の精一杯の反論さえも、脆く崩れる。
「彩葉くんは、人の気持ちって伝わると思う?」
「……いや」
「うん、私もそう思う。言葉で好きって言ったって、それは友達の好きかもしれないし、恋人の好きかもしれないし、憧れの好きかもしれないし……家族の好きも、あるのかもしれない」
音無はなぜか言い淀む様子を見せた。自嘲気味に彼女は言う。
「言葉なんて、空っぽ。人の気持ちなんて何も入ってないんだよ」
「……お前が言っちゃいけないだろう」
「ふふ、そうかな。私だからこそだと思うけど。人の想いは見えないんだから、言葉なんか単純な記号に落とし込めるわけないんだよ。でも言葉にしなかったら繋がりさえも持てない。だから私たちは言葉を勝手に解釈して、勝手に理解した気になる」
言われてみればその通りかも知れない。しかし、それを言ってしまったら元もこうもないのだ。言わなければ決して伝わらない。その言葉自体が虚構だと言われてしまったらどうしようもない。
「私は、彩葉くんの絵が好き。――私の想いがある気がしたから。私は絵も言葉と同じなんだと思う。言葉も絵もただあるだけ。あとは好き勝手にそれに意味付けするだけなんだよ、きっと」
その言い切った意見に、ふと僕の絵は一体何だったんだろうと考えてしまう。
中学校で半ば強制的に美術部に入部させられて、仕方なく描き始めたらそれが思いの外楽しくなってしまった。元々何かを始めると周りが見えなくなる性格だったらしい僕はその後のめり込み、ひたすら描くようになった。
それを評価してくれたのは誰だったか。幸せな記憶は忘れようとする。ええい、今はその言葉じゃない。僕はなぜか知らなくてはい聞けない気がして、記憶をこじ開ける。
――上手だね。ああそうだ。記憶にある限り、初めに褒めてくれたのは妹だ。その次に顧問の先生。それから両親だったと思う。その後何かのコンクールに応募するようになって、そしてあの事件で否定されるようになった。
絵を、見てもらえなくなった。
当時時の僕は、絵に何を抱いて描いていた?
その評価を求めるためだけに僕は描いていたのか?
そうじゃ、ないだろう。
評価なんて、周りが勝手にやってきただけなのに。
「自分のために描くのが、怖い?」
音無の言葉に我に返る。恐怖。僕はたかが絵を描くことに怖がっている?
馬鹿言うな。そう跳ね飛ばしたいのに、僕は言い返せない。
「言葉も絵も思うままに作るものだもん、自分のためのものだよ。それが彩葉くんは嫌なんじゃないのかな。絵は誰かを、自分を否定したものだから」
「勝手なこと、」
「私も、そうだから」
音無のカミングアウトに絶句する。お前にもそんなものが、と驚く反面、自分だけが特別だと自惚れるなと反省する。誰にだって悲劇はある。人の数だけ物語はあるのだから。
「でも、私は書いたよ。物語を。だって、好きだったから。ううん、好きだと思いたいから」
「……僕はそんな、強くない」
もう、駄目だ。僕は項垂れ、苦笑いをする。おどけてみせようとして、失敗する。見ようによっては泣きそうな顔に見えてしまったかもしれない。
「僕に、どうしろって言うんだよ」
音無は、俯き力なく立っている僕に、優しく語りかける。
「なら、私のために描いて」
「……え?」
聞き間違いかと持った。それはどこまでも傲慢な言葉だったからだ。
顔を上げると、柔らかく微笑んだ音無がいた。
「彩葉くんの想いじゃない。彩葉くんのための絵じゃない。――私の世界を描いて」
「………………」
ああ、そうか。
僕はどうして彼女の物語の絵なんてかいたのか。その答えは実に簡単なものだった。
楽しかったからだ。
物語を想像し、湧き上がるイメージを自分の手で形にしたくてしょうがなくて――描いている時も最高に気分が良かったのだ。
ただそれだけのことだったのだ。
自分を描けなくても。
誰かを描くことなら、できる気がする。
なんとも間抜けでだらしのない話ではあるけど。僕が進むにはそうするしかないだろうから。
だから、僕は手を伸ばした。
少し気障かなと思うも、気取ってでもしないとやってられないと割り切る。
「一緒に、描いてくれるか」
その言葉の音無の驚きと喜びの入り混じった表情は、きっと僕だけが見たことがあるんだろうと、どこか得した気分になった。




