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何かが違う。私はいつしかそう考えていた。
強烈な違和感。どこか噛み合わないみんなの意識。それがこの数日で色濃く見えた。
一見すると、葵祭へ向けてクラスは順調そのもの。まず初めに動かなければならない大道具は彩葉くんのデザインを基にして設計され、木材の確保の段階となっていた。
机や椅子は教室の廊下側に積み重ねられ、中央辺りに大きな作業スペースが設けられており、大道具は そこに額を突き合わせて話し込んでいた。
その邪魔をしないように役者グループは窓際の方で各々割り振られた役のセリフに目を通している。私もまた台本に目を落とす。執筆者であるから内容は完全に把握できている。しかし二日かけて各人に割り振った役が適切かどうか、今更のように不安になったのだ。
クラスメイトを信用していない。何様のつもりなんだ。そう思われるかもしれない。でもそう思われてでも懸念しなければならない事項があるのだ。
私は目線だけで教卓近くにいる哀川さんを捉えた。
彼女はむすっと不機嫌そうに台本を睨みつけていた。いつもは愛想よく振舞っているだけにクラスメイトからは心配されていたが、話しかければすぐににこやかになった。でも私と視線が合うと露骨にそっぽを向く。この間から分かっていたことだけれど、彼女は私のことが嫌いらしい。彼女と特別接点があるわけではないのでこちらとしてはどうしようもなかった。けれど、どうでもいいわけではないのだ。
クラスの強い要望もあって、劇のヒロインたるお姫様は哀川さんに決定した。しかも驚いたことにその決定打は彼女の立候補である。決まった以上は彼女と関わらないわけにはいかない。そうでなくとも仲良くはしたいのに。
どうしてこうなったのだろう。私は考える。
そしてすぐに思いつくのはつい先日のこと。
それは哀川さんが彩葉くんの絵を教室に持ってきた時のことである。
私は教室で予算の割り振りをしていた。確定ではないけれど、ある程度の割り振りは予想してやっておかないと後々面倒だからである。一人でその作業をしているところに彼女はやってきた。朝も早いというのにニコニコの笑顔だった。
私の顔を見るまでは。
まるで人をゴミでも見るかのような、あの蔑視を、私はきっと忘れないだろう。
私以外のクラスの人に振舞うかのように一瞬にして、“優等生”になった彼女は、一人で活動? と聞いてきた、首肯すると、そうとおしゃべりな彼女には珍しく沈黙が訪れた。
長い、長い今すぐその場から逃げ出したくなるような、嫌な静寂だった。遠くでカキーンと金属バットがボールを叩いた音が聞こえたのを今でも覚えている。私は特にその場を取り繕うような努力はしなかった。
まだ舞台案できてないんでしょこれどうかしら。
静寂の末に彼女が差し出してきたのは一枚の紙。鞄から取り出したのに、握り締めてきたかのようにしわくちゃだった。しかし、丁寧にしわが伸ばされている。言うまでもなく、それは彩葉くんの絵。
そんなことは一目で分かった。だから私は、あ、彩葉くんのだ、と呟いた。無意識だったし、そこにはなんの意図はなく、溜息と同種のものでしかなかった。
だけど、哀川さんにとっては違った。
彼女の表情は強ばった。笑顔を無理に作ろうとして、見事に失敗していた。少なくともテレビで見るアイドルとは程遠いまでに憎悪に染まった、般若のごとき顔。
そうよ。哀川さんは机の上に彩葉くんの絵を叩きつけながら言った。音というよりは彼女の豹変ぶり身を縮こまらせた。怒っている。そのことは分かったけれど、なぜかはさっぱり分からない。何か怒らせるようなことをしたか。尋ねようとすると、
ねえあなたはどうして実行委員になったの。
先手を取られた。質問を投げられた以上、こちらから質問はしづらい。少し考えてから無難に、好きだから、と返そうとすると、
どうして霧隠彩葉を選んだの。
哀川さんは言葉を重ねた。
その質問は予想外だった。どうして、と聞かれれば彼に興味があったから。しかしその回答があらぬ誤解を招くことは分かっていた。
あなたは何もしてないのに急に出てきて。
私の答えなんか聞きもせず癇癪でもお越したかのようにまくし立てる。彼女の言っている意味がさっぱり分からない。彼女の背景を知りもしないのに理解しろというのが無理な話なのだけど。そもそも理解しろなんて言われてもいないのだけど。
でも、それはあまりにも理不尽だ。
興奮状態の哀川さんは、しまったと顔をしかめ、ふうと深呼吸を一つした。もうとっくに彼女の仮面は剥がれていた。それでも常識はわきまえているようで、ごめんなさい、と何に対してでもなく、宙に向かって謝罪した。少なくとも私には私に向けられたものには思えなかった。
再び静寂。一秒、二秒……数秒。そして一分が経過。
あたし姫やるわ。
彼女は心の内でどんな落としどころを見つけたのだろうか。前後の脈絡が一切ない。だがその彼女の言葉は私にとっては大変にありがたいものであるのは事実だった。本当に? どもりながらも確認すると、哀川さんは据わった目で私を見た。
何よあたしは望まれてたんじゃないの。
大げさに肩を竦めた。私はぶんぶんと首を振る。哀川さんは、ふん、身を翻す。そしてもう顔も見たくないとばかりにずんずんと教室を出ていこうとする。そして最後に彼女は、とても。とても、とても友好的な言葉を残した。
よろしくね音無さん。
もちろん、握手なんてものはなかった。
回想、終わり。
別に回顧に浸ることもなかったかなあと前髪の隙間から哀川さんへと再び視線を向ける。
彼女は今、台本を開くこともなく腕を組み、その表紙を睨む。アイドルとしての仕事があるので数時間しかいないけれど、彼女は毎日時間を作って学校にやってくる。本人はレッスンの場所が近くだからといっていたけど、それでも毎日来るのは随分と律儀だ。
彼女も葵祭が好きなんだろうな、とぼんやりと思う。
始めは芸能活動に集中したいと言っていたのだ。しかしそれでも葵祭という、言い方は悪いけれど、単なる学園祭にも深く関わろうとしているのだから。
無理はしているのだろう。でもその無理を誰も労ろうとしない。それは冷たいからでなく、他のみんなもそれだけ葵祭への情熱を持っているからだと思う。
本人がやると言い出したきっかけはどうであれ。
でもその情熱も、私のものとどこか違う。
その違和感を持ち始めたのは彩葉くんの描いた絵が設計図になり、クラスメイトそれぞれに役が当てられ始めたぐらいのことだった。
彩葉くんが描いた世界が悪いんじゃない。大道具の動きがいけないわけでもない。役者がダイコンというわけでもない。なのに、何か違う。
それはきっと、私がこうしろと指示して消えるものではない。むしろみんなが積極的に動いたことでお話に躍動感が生まれたとさえ思っている。
でも、そこにはぽっかりと何かが欠けてしまっている。
道具でも技術的なものでも意気込みでもない。
そして、最近毎晩のように悩んでいるその悩みは、一つの問いへと帰結するのだ。
私は何でこのお話を書いたのだろうと。
どうしてこのお話でなければならなかったのだろうかと。
不毛にも近い、今更な思考は誰にも届かない。こんなモヤモヤとした時にこそ、思いっきり歌いたいが、教室でそんなことをすれば注目を集めてしまう。複数の人に見られるのは苦手だった。
彩葉くんがこんな時にいてくれたらいいのに、と思わず考えてしまう。彼なら私の歌を聞いてくれるだろう。けれども何も言わずに私の声を待ってくれるだろう。聞いて欲しくないのに、聞いてもらいたい。 そんな矛盾した欲求に思わず笑ってしまう。別に評価も慰めも背中を押す言葉もいらないのだけれど。
なぜか意図せず頭に浮かんでしまった、その彩葉くんは今ここにはいない。葵祭の準備が本格的に始まってからあまり顔を出さなくなった。
実行員としてそれは褒められたことではなかったけれど、私がそれを咎めることはできない。
だって、その理由はきっと私が彼の絵を採用してしまったから。
突然に背中に衝撃を受ける。次いで首に手が伸びる。その拍子に自分でもつけていることを忘れていたヘッドホンが耳から外れた。すると肩のあたりに顎を乗せてきた遙の顔にクッションの部分が当たる。顔面で受けた彼女は痛がる素振りを見せたが、唐突に抱きつく彼女も彼女だ。
何してるのー。私は台本を掲げ、チェックと唇を動かす。本当は全然別のことを考えていたのだけれど、それを言うのはなんだか憚られた。
本当にロハっちの絵は上手だねえ。台本と一緒に持っていた彩葉くんのイメージ図を見ての言葉。遙の言葉に頷く。
さっすが、神童。頷きが止まる。
神童。オウム返しをすると、遙は知らないのと大げさに驚いてみせた。彩葉くんにそんなあだ名はなかったと思うけど。
神童ってなんのこと。そう尋ねるよりも前に、遙は自分を呼ぶ声に反応した。
彼女に習って視線を向けると、遠くに役者のグループが手を振っている。衣装係の代表たる彼女に早めの採寸を頼みたいという旨を大声で言う。呼ばれた遙ははいはーいと勢いよく向かっていった。
神童について聞きたかったけれど、わざわざ呼び止めるわけにもいかない。また今度でいいかと割り切った。そして再び、絵に視線を落とす。
こんなにも上手に描けるのに。こんなにも生き生きしているのに。
彩葉くんはどうして絵を描くのを嫌がるんだろう。




