3-7
そこはバスの中だった。
気づくと、一番後ろの座席で座っていた。
僕は右目を擦ろうとして――ふと何かがないような違和感に駆られる。
眼鏡はかけないので、顔に触れるものなどないはずなのだが。
バスなんて滅多に乗らないのに、なぜか覚えのある内装。誰もいない座席。ただ一人で運転手のいないバスに居た。
それがどこまでも続くかと思えば、次の瞬間僕は這いつくばっていた。
加えて、腹の辺りにガラスがあるのが見え、そこでバスが横転していることに気づく。自分は今割れた窓の上にいるのだ。
もぞもぞと動き、僕は立ち上がる。高校生の身体。その体のどこにも傷のようなものはない。痛みどころか、自分の感覚さえも曖昧だった。
窓の上に立つ。奇怪な表現ではあるけど、バスの左が地面に、右が天に向かっていた。
踏みしめる割れたガラスの向こうは、クレヨンで塗りつぶされた黒。
闇と単純に呼ぶには濃淡があり、まるで生き物でも潜んでいるかのよう。
窓から覗くバスの外はどこも一面の不均等な黒。乱れたバスのだけがその世界の全てだった。
身に覚えがある。だけど、決定的に何か足りない。そう思った。
不意に足元に気配がした。犬が擦り寄ってくるように、しかし暖かさはない気配だけの存在。冷気と不安の塊であるかのようにそれは僕にまとわりつく。
感覚が鈍くなっているせいで緩慢になった動きでそれを見ると、視線の先にはこれまた黒いか上げがあった。
外の黒とは違う、形と動きを持った黒。
始めは曖昧だった輪郭は徐々に一つに形状へと変わっていく。
それは、人の形。
この空間に足りない、もの。
何かと重なる、それ。
そして、影は僕を見た。
ぽっかりと空いた、眼球のない影のようなその眼窩が。
人の。手が。視線が。悲鳴が。僕を掴み。離さない。
刹那、外の黒は煉獄の炎に変わる。
炎が鉄を焼き、影を焼き、闇を侵食する。
フラッシュバックする光景――炎に包まれたバス。
どこで、それを見た?
僕の喉の奥で叫びが鳴る。言葉にはならない恐怖が僕を襲う。足を振り、引き離そうとするが離れない。腕で剥がそうとすると、影が粘性をもって溶け出し、手にまとわりつく。柔らかいのに、振り払うことができない。
その人だったモノは、僕にすがり、嘆き、そして呪う。
ドウシテ。
ドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ。
ドウシテ、オマエハ生キテイル。
一人だった人型はいつの間にか増え、もう一方の足を掴む。そして右腕を。左腕を。背後から覆いかぶさる。
幾重もの影が重なり、溶け、人が人でない、しかし人としか呼びようのない形状になる。
どちらの目かも分からない目が睨み、誰の口かも分からない口が呪詛を唱える。
黒い影が、僕を呑み込んでいく。黒くドロドロとしたそれが右腕を伝い、右半身を覆う。右目を影が覆い、見えていた視界はいとも容易く奪われる。
影の水たまりは突然に泥のようにぬかるみ、底なし沼のように僕を引きずり込む。
それを嫌悪し、抵抗していたはずの僕は無力に黒い海に沈んでいく。
逃げたいのに。這い上がりたいのに。生きたいのに。
影は僕を逃さない。
僕を包む冷たい闇が、だんだんと温かくなる。それは冷気の中の僕自身の体温。
自分の温かさえ消えてしまいそうで、恐怖する。
同時に、これでいいのかもしれないと目を閉じ、その身を任せる。
質量のない絶望の海の中、抗うこともなく僕の意識は沈んでいく。
呼気の泡が天に向かい、僕はその先をぼんやりと見る。
あの泡には、僕の一部が詰まっている。
それがどんどん抜け出していく、虚無感。
まるで海に溶け出しているかのような感覚。
このまま沈んだら、僕はどうなるだろうか。
海に溶け自我を失うだろうか。それとも溶けることもできず塵のように積もっていくのだろうか。
――ああ、くだらない。
恐怖も繰り返せば、絶望から倦怠へと成り下がる。
何度も見ている――三年前から毎日のように見ている、その夢に今更どんな感想を抱けというのか。
夢を夢だと理解した瞬間、僕は海の底で遠く先に、異物を見つける。
光。深海だというのに、見つけた小さい小さい光。
今までの夢にはなかったモノ。
僕はそれを追いかけ手を伸ばし――――
それに、触れた。
なぜか柔らかい感触。
「御早う、彩葉」
声に誘われ瞼を開くと、目と鼻の先にいたのは、いなりと名乗った少女だった。人間離れした綺麗な顔が目と鼻の先にある。寝転がる僕に四つん這いで覆いかぶさっているようだ。長い髪が僕の胴体にかかる。
「……僕、寝てたのか」
「よくもまあ、こんな暑い所で寝れるものじゃのう。……のう、主」
「なんだ」
「顔色一つ変えずにおなごの胸に触れるのは流石の儂でも説教ぞえ?」
笑顔の彼女の視線に釣られて見下ろすと、僕の手が少女の胴体に触れていた。寝起きで頭に血が流れていないのか、現状把握がおぼつかない。そして数秒見つめてから、理解。
「――――げ」
「どうして儂の方が嫌な顔をされる立場にされるのかのう」
慌てて手を離し、距離を取ろうとする。が、そもそも彼女の方がこちらに迫っているため逃げようがなかった。代わりに視線を逸らす。
「……すまん」
少女は僕の胴にまたがったまま起き上がり腕を組み、僕を見下ろした。
「では感想でも聞こうかのう」
「あと数年経ってから胸と言え」
「ていっ」
少女の拳が僕の鳩尾に突き刺さる。小柄な割に重い一撃。まあ、僕としても不本意ながらセクハラしたのは申し訳ないとは思うが。
女の子に触れた、というよりも触れてはならない美術品に触ってしまったような、奇妙な罪悪感。いや、正当化するわけではないのだけど。
「全く、素直に感想を述べる奴がおるか。儂の方が恥ずかしくなる。全く……。それで、儂の胸で目覚めた主は良く眠れたかえ?」
「最悪だな」
「主は人の胸を言うことを欠いて厄扱いかっ。……それで、悪夢か。まあ、良い夢だと目が覚めたくないと思ってしまうぞえ?」
「……そう、かもな」
もし、夢を追いかけることさえも何かに囚われることだというのなら。
なら、とぼんやり考える。
夢なんて、ない方がいい。




