3-6
右目が見えなくなった。だから絵をやめた。ただそれだけだった。
視力を失ってから三年が経とうとしている。見えなくなった当初は田舎の新聞に取り上げられるくらいには話題になったものだ。
当時、絵を描くこと以外に何も考えなくてよかった幸せでおめでたい僕は周囲に天才扱いを受けていた。別に絵描きでもなかった両親は素直に喜んでくれ、妹にはいつも描いてくれとせがまれていた。僕はまだ上手くなれると思っていたし、事実そうなるはずだった。
とんだ交通事故に遭うまでは。
視力を失い、加えて右腕の握力もすっかり衰えてしまった。その貧弱さと言ったら長時間ペンを握っていることも困難なほどである。
立体感覚を失い、筆も握れなくなった僕の絵が以前同様に認められるはずがなかった。神童と呼ばれていた僕はその日以降普通の子となったのである。
――いや、普通の子供なら人殺しなんて呼ばれない、か。
勝手に期待され。勝手に幻滅され。そんな当たり前の理不尽に巻き込まれただけだった。
僕は引きこもりがちになったが、それ以上に両親が周囲から軽蔑の目で見られていることに耐えられなかった。
だから僕は家を出た。いなくなったことで僕の痕跡は消えないけれど。
それでも彼らの視界に入るよりはよっぽどいいと思ったのだ。
「回想終了っと」
僕は屋上にいた。
教室では設計担当が大道具を集めて材料の仕入れについて話していたり、実行委員兼脚本の音無が役者希望を集めて役を割り振っていた。準備も準備の段階。しかし利き腕の握力のない僕は重いものが木材を運ぶなんて不可能だし、声に感情を込めるのが苦手な以上役が当てられることもない。
実行委員としても実際にクラスが動くとなれば仕事がごっそりと減ってしまうものであり、要は暇にしていた。昨日の件があって積極的に仕事に取り組めなかったというのもある。というわけで教室に居場所を失った僕は屋上へと足を運んだ。いつだったか音無が歌っていたのを目撃した時のように寝転がっていた。じっとりとした熱が眼帯を蒸らし、掻きむしりたい気持ちを抑える。外すのは簡単だが、その視界の暗さは変わらないのだから。
今更、その暗さを突きつけられたくはない。
半ば逃げるように目を閉じ、彼女が歌っていたのはどんな歌だったかと、うろ覚えのリズムと歌詞を口の中で転がす。
「下手くそじゃな」
高い声だった。女の子であることは分かるけど、妙に舌足らずで高い音だった。子供のような声だと思いつつ、熱と眩しさで億劫気味に瞼を持ち上げる。
「青春か? 少年」
「………………誰?」
「神様じゃ」
「はあ?」
「冗談じゃよ」
そこいたのは本当に子供だった。寝転がった僕を見下ろすのは、やたらと髪の長い少女。自分に合っていない袖のあまり切った制服を来て無邪気に笑っている。ただ気になるのは学年カラーを示すリボンの色が真っ白だということだった。
大変に可愛らしい少女。しかし小学校高学年に成り立てのくらいの容姿でこの学校生徒には到底思えなかった。
「……迷子か」
「儂は迷ってなどおらぬ。迷い人はお主の方ではないか」
袖の余った制服をぶらつかせ、僕の方へと腕を伸ばす。兄弟のものだろうか。この学校に親族がいるというのなら彼女が単なる部外者ということで理解できる。
「……なに言ってんだ、お前」
「かっかっか。儂をお前呼ばわりか。いいのう。威勢がいいのは嫌いではない」
「ここは関係以外立ち入り禁止だぞ」
「分かっておる。だからここにいるのだろうが」
本当は生徒も屋上は立ち入り禁止なので人に言えた義理ではなかったのだが、小さい子に悪い手本は見せられない。心にも思っていないことを考えつつ、僕は少女を見上げる。
地元の子供からしたら公園も高校も似たようなものなのだろう。きっと彼女たちからしたらどこでも遊び場だ。
「……まあいい。なんか用か?」
「ああ、用じゃ。探していたといってもいい」
はてこんな知り合いがいただろうか。生憎と僕は子供ウケが悪い。読み聞かせをしていた音無辺りにコツでも聞けばいいのだろうが、別段好かれたいわけでもないので話題にも上がらない。他に接点があるとすればバイト先。しかしまあ、僕の対人記憶能力を侮ってもらっては困る。常連の顔さえをほとんど覚えていないのだから。
やたらと小難しい言い回しをだが漫画だかアニメの影響だろうと勝手に推測する。僕も小さい頃は語尾に「ござる」をつけたものだ。三日でやめたけど。
「少年、祭りは好きか」
「祭り……葵祭のことか?」
「他に何がある」
他の方が多い気がするが。しかし、この辺で葵祭以外の祭り事があるとは聞いたことがない。祭りに参加したければ隣街にでも行けばいいが、それは野暮というものなのだろう。
「別に。好きか嫌いかで言われたら、どちらでもない」
「かっかっか。面白いのう。そうだ、少年。一つ問いかけをしよう」
喉を鳴らすように奇妙に笑う少女は腕を組み、僕を覗き込む。
「……そんな気分じゃないんだが」
「まあ、そう言うな。暇なのだろう?」
「暇は暇で価値があるだろう」
「儂、暇は苦手なのじゃ。何分随分と退屈していてのう」
「僕とのおしゃべりが有意義とは思わないけど」
「お主は人との関わりを有意義かどうかで決めておるのか?」
「………………」
「儂はお主と話したい。……ダメかえ?」
……なんだこの幼女。目を潤ませてこちらを見る少女。将来悪女になることを他人ながらに案じ、これば僕が教育しなければと謎の使命感に駆られ了承する。「よしよし。それでいよいのじゃ」となぜか偉そうに喜ばれる。
「お主、葵祭の由来は知っているか?」
「最近知ったな。博識な同僚がいるもんで」
「ほうほう。結構結構。では、昔ここが神社だったことも分かってるわけじゃな。葵祭――はどうしてこの学校が主体となって動いていると思う?」
「あ? ……暇だから? 学生だし。……いや、神楽殿があったとかなんとか」
「そうじゃな。そうなっておる。しかし、じゃな。舞であったそれが、話を持つようになったのはなぜか知ってるか?」
「みんなでできるからじゃないか? 舞も神様楽しませるもんだろ? そういうもんなら何でも良かったんじゃないか? 歌でもダンスでも。強いて言えば創立者の趣味だった、とかか?」
「面白いからじゃ」
「…………」
「なんじゃ、その反応」
「いや、なんというか」
随分と俗物じゃないか。神様。まあ神話とか読んでみると人間よりもよっぽど欲にまみれていることが多い気がするけど。
少女は両手を広げ、青空をバックに少女は満面の笑みを浮かべる。
「人の子が紡ぎ出す物語は実に面白い。ただ何年も同じ舞を見せられるよりは毎年違う話を見せられる方がいいとは思うじゃろ?」
「いや、同意を求められても……。本当は正式なものにしたかったんじゃないか? 神社の跡地なんだろ、この辺一体」
「儂はそうしろと言った覚えはないんじゃが」
「はあ?」
「あーいや、何でもないぞよ。ここの主とて、別に崇められることに執着はしてないんじゃないかと思っての」
しかめ面をすると、慌てて長い袖を振り誤魔化した。何を誤魔化そうとしているかは分からなかったが。
「いや? やっぱり信仰はされてたんじゃないか? 疫病神なんじゃないかってあったしなあ」
「なんじゃと」
「ん? なぜ怒る」
「……こほん。いや、自由人だったんじゃないかのう。うむ」
自由人ねえ。神様の気分屋をそう評するのは少々気が引ける。神通力の類を持っていなかったとは言え、この辺一体に影響を及ぼした存在だ。架空であれそうでなかれ、少なくとも聖人君主として後世に伝えるべきではなかっただろうか。
「しかし、神様は毎年似たような演劇を見て楽しいのかね。プロでもないのに」
「楽しいに決まっておろうが」
なぜか少女はどこか呆れたように断定した。
「同じような話はいくつもある。しかしだ、お主、それを演じるのは全員違うぞえ? 同じ歌でも奏者が違えば何もかも違う。そんなことも分からぬのか」
「そうかも、しれないけどな」
納得しきれずに、僕は曖昧に言葉を濁す。
「それで、お主は何をそんなに欝になっておる」
「……そう見えるか?」
「鏡は今の時代でも手に入らないほど高級品なのかえ?」
「他人の顔色も伺わないのに自分のなんて見るかよ。別によくあることだ。お前だっていずれ悩むよ」
「図々しいのに憂鬱になるか。随分図太く生きているわりに脆いのだな。言っておくがお主の何千倍も悩んでおるぞ、儂は。さっきも菓子を何食うかで悩んだところでのう」
「楽しそうだなあ」
人生謳歌している類の人間だ、これは。
「何かをやめるということは、何かを始めることよりも案外難しいものぞえ?」
お気楽思考かと思えば唐突に見透かしたことを口走る。その意図が分からず、言葉通りに受け取る。
「なに言ってんだ。例えば……こうして話すことはすぐにやめられるぞ?」
「どうやってじゃ?」
「……………………………………………………………………」
「無言は放棄であって、終わりではないぞ? お主もそういう意味ではないと分かっておるのじゃろう? まあ始めることすら最近の若人は渋るみたいじゃがのう」
「まあ僕なら話しかけないし」
「断定かえ? 今時の人間はつまらないほどに他人に無関心だからのう。だからといって自分に惚れ込んでいるわけでもない。つまらない人間が多すぎるのじゃ。お主は……違うと思うんじゃがのう」
「何でそう思う。僕は見ての通り無気力な人間だぞ」
「勘じゃ」
「勘かよ」
「理屈なんぞ人間が己を納得させるためだけに作った代物ではないか。勘を信頼することと理屈を信頼することも同じじゃろうに」
「他人は納得しないぞ」
「他人なんぞどうでも良い。儂は儂が納得できればよいのじゃ。大体、他人を納得させるなどというのは押し付けがましいとは思わんのかえ?」
自分を正当化する自由人。我が儘に道理を通す厄介な手合い。身近な傍若無人というと哀川を思い浮かべてしまうが、こいつはどこか違う。達観している、とでもいうのだろうか。己の道こそが真実だと言わんばかり堂々振りと説得力を秘めている。言葉一つ一つが思わせぶりで、掴みどころがない。
「まあ、悩むが良い。儂はあくまで観客。物語を観はしても作りはしないのじゃ」
僕も観客のつもりなのだが。
「お主、名前は?」
「……霧隠彩葉」
「彩葉か。覚えておこう」
「……そっちは?」
「儂か? 儂は……そうじゃな――」
少女は顎に指を当て、考えるような仕草をする。思わせぶりな笑みを浮かべながら、鈴が鳴るような声で言った。
「いなり、と名乗っておこうか」
あからさまな偽名だった。




