3-5
「不機嫌そうねえ」
当然のように我が家で飯を食いに来た哀川がちゃぶ台に頬杖をつき、テレビを眺めているとこちらを見もせず、唐突に決めつけた。
妹がどこか遠出をしているらしく、今ここにはいない。いつもぬいぐるみのように扱っているあいつがいないからなのか、手持ち無沙汰な哀川はどことなく不満そう。暇なのだろう。
「どこかの誰かが人の絵を持ち出したからな。おかげであれに決まっちまった」
僕は食器を片しながら適当に応えると、憮然とした哀川が僕をジト目で睨む。
「なによ、著作権でも主張するの?」
「そうじゃない」
「なら、何が問題なのよ。選ばれたんでしょ? 素直に喜んだら?」
蛇口を捻り、水流を生む。異様に冷たい。食器を洗うでもなく、しばらくその流れをぼんやりと眺める。連日の熱帯夜のせいか、頭から冷水を浴びたい衝動に駆られる。
「……納得できないものが使われてもな」
「贅沢な悩みなの分かってる?」
「贅沢、なのか」
「贅沢の極みね。だって認められるものにあんた自身が価値をもってるんだもの。自分自身が納得するのも大切よ。結果になればなお良し。でも大抵は自己満足で終わるのよ。妥協でしかない。なのに、あんたはその逆なのに、よくそんなこと言えるわね。こっちは仕事を選んでられない。セクハラまがいのくだらないバラエティーだってやってる」
「いつまで続けるつもりだ? そんな嫌なこと」
「自分が納得できるまで。目標のためなら嫌なことを受け入れるのは当たり前よ。もし仕事を投げるようなことがあるなら――」
一瞬だけこちらを見る。その視線から逃げるように食器を洗い始める。
「何だよ」
「……何でもないわ」
そう言って、哀川はまたテレビの視聴に戻る。そして退屈なのか、それとも暇なのかふわあ、と欠伸。確か今日はモデルの仕事か何かで練習には出なかった。仕事終わりで疲れているのだからさっさと帰って寝ればいいのに。
再び沈黙。洗い物を終えた僕は、タオルで手の湿り気を取りながら哀川の隣に並ぶ。
「あのさ、彩葉」
「なんだ。デザートならさっき食ったろ」
「そうじゃないわよ。そうじゃ、なくて……」
「はっきりしないのは嫌いじゃなかったのか」
「うっさいわね! 今言うわよ! えっと、その……」
怒鳴った後、珍しく俯いてしばらく黙り込む。そして腰を浮かせて、もぞもぞと懐から何かを取り出す。
「………………………………………………………これ」
油の切れたロボットの動きで僕の鼻先に突きつける。寄り目気味それを見ると、一枚のたて
「ん? なんだこれ」
「……チケット。あんたにはテスト勉強見てもらったし、一応ね。お礼よ、お礼。妹ちゃんと見に来なさい」
「A席って、詳しくは知らないけど、なんかそれなりに良さそうな席じゃないか?」
「そ、そうよ。貴重な席なんだから時間がなくても来なさい。そうするといいわ」
「まあ、サンキュな」
「………………………………………………………うん」
日時を見ると一週間後だった。葵祭で忙しくなりつつあるとは言え、ライブの数時間くらい好きに遊んでも怒られないだろう。当日は花火大会と重なっているようで、学校近くの競技場をライブ会場として使用した案外大規模なものらしい。そういや前に張り出されているとのを見たな。
「なにこれ」
不意に哀川は僕の鞄からはみ出した紙束をつまみ上げた。表紙には飾り気がなく、随分と薄い。学校の印刷室で作ったものなので紙不揃いで、ホチキスの芯が学生の手作り感を助長していた。
「台本」
「見たことないタイトルね。オリジナル?」
「うんまあそう」
哀川がペラペラとめくっていく。僕が音無の朗読の録音をクラスで流した時にはいなかったから概要さえも知らないはずだ。せいぜい、「自分にお姫様の役を望んでいるのだから、姫がいるだろう」くらいの情報しかないはずだ。
そんな少し期待しているようにも見えた彼女の表情は段々と薄くなっていき、最後まで読み終える頃にはその顔に感情が見当たらなかった。
「誰書いたのこれ」
台本を机に放り投げて第一声がそれだった。そして表紙にあった脚本の名前を見つけ、目つきが鋭いものになる。「音無……。またあの子……」怒気を孕んだ声に「お、おい」と思わずたどたどしく声をかけてしまう。
「……なんかお気に召さない様子だが」
「あんたは納得したの? これ。というかみんなこれを納得してるの?」
信じられないと言わんばかり盛大な溜息を付き、頭を抱える。
「ふざけてんの、これ。自分語り丸出しじゃない。人に見せるもんに自分投影して酔ってんじゃないわよ。演劇はエンターテイメントよ? 私すごいでしょっていうお遊戯会じゃないのよ?」
「それはお前がプロだからじゃ、」
「プロもアマチュアも真剣なら関係ないでしょ。なに、あんたらお遊びなの?」
大した美学も哲学も執念も家訓も座右の銘もない僕の言葉は彼女にとっては火に油どころか、気化物質を放り込むようで彼女の盛大な舌打ちを誘発した。
「あたしは違うわよ。本気でアイドルやってる。あんた、あたしが楽してアイドルやってると思ってんの? みんなにはやし立てられてやってると思ってるの? 舐めないで。好きだから、全力でアイドルやるんでしょうが。猫かぶるんでしょうが。アイドルって、可愛がられることじゃないのよ? 夢を与えることなのよ?」
「…………。僕は別にお前を批判してるわけじゃ、」
「中途半端に逃げ出した奴がよく言うわね。流石は才能あるものは違うってところかしらね。――神童サマ?」
「っ?!」
予想だにしていなかった角度からの反撃に僕は面を食らう。頭の中が真っ白になり、顔面が麻痺してしまったように動かない。無表情。感情と表情が一致せず、その動揺が声帯の震わせることを忘れてしまった。何も言い返せない。
「なによその顔。そんなんだから挫折すんのよ。腑抜けになるのよ。ずっと気に食わなかった。諦めきれないくせに何も関心がないような振りして。そう振舞うなら完全に演じきりなさいよ」
哀川は早口でまくし立てると、そのまま家を出て行ってしまった。数秒後に隣から勢いよく扉が閉まる音が聞こえ、静寂が訪れる。僕はしばらく呆け、ぼんやりと台本を眺めていた。
「……まいったな」
やっと出た言葉は吐息混じりのなんとも頼りないものだった。
「お兄ちゃん、どうしたの? 今恋歌さんがすごい剣幕で出て行ったけど……。喧嘩した?」
すれ違いで帰ってきたらしい妹が座り込んでしまっていた僕を覗き込む。哀川のただならぬ剣幕を目の当たりにしたらしい彼女は不安げな表情をしていた。
「一方的に殴られたって感じだな」
喧嘩というものは対等に渡り歩く人間同士がやるものなのだから。
「お前、哀川に言ったか」
何を、とは言わなかった。しかし妹はすぐに察したようで「……言ってない」力なく否定の仕草をした。
「まあ、調べれば分かるか。このご時世」
僕は後頭部に手をまわし、その場に転がり込む。妹の顔は明かりが眩しくて見えない。
「本気でやるねえ」
そんな気持ちはとうの昔に忘れた。
アイドルとして一生懸命に取り組む哀川その姿。あのキレ具合。僕が思うのは哀川への言い訳でも謝罪の言葉でもなかった。
「やっぱり、あいつも葵祭本気なのかねえ」
そんなどこか他人事で、懸命になれない呟きだった。




