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青春画廊のお姫様!  作者: えつを。
12/59

3-1

 半ば騙した形で音無の脚本が演目となり、夏休みに突入した。

 題目が決まった当初音無はぶーたれることが多かったが、五日も経過し他クラスの演目との擦り合せで正式に学校側に登録される頃には彼女も受け入れるようになった。毎日にように決まったものは仕方がないと暗示をかけていたのが効いたのかもしれない。

「今やってる勉強なんてどれだけ役に立つのかしらねえ」

「やってなかったら無駄かどうかも分からないぞ。大体、与えられた仕事こなせない人間に用なんてないだろ」

「ドライねえ……。でも数学できるアイドルっていうのも格好いいかもね」

「そう思ってるから苦手科目になってるんだろうよ」

 僕は無駄口叩いてないで早くやれと指定した問題を指差す。追試を控えた今、確認が大切になる。というわけで僕が期末から類推した予想問題を哀川が我が家でカリカリ絶賛解いている最中だった。歴史上の人間の顔を教科書を斜め読みしただけで覚える彼女は、数学は壊滅的にできないらしく問題に取り組ませる度に与太話で逃げようとしていた。話をしても問題は解けていないというのに。

「あたし、ご飯食べてからずっと数学なんだけど?」

「それ以外大丈夫そうだしな」

 明日から行われる追試は二日間。一日目は理数科目、二日目は文系科目だそうだ。理系科目も覚えればいい化学はほぼ完璧なので心配はない。物理はこの前やっと取れたという休日をまるまる一日付き合わされた結果、まともになった。しかし、数学は一向に良くならない。

「あー、もう、こいつらぐるぐる同じところ回って飽きないのっ?!」

「動点にキレるな」

 問題文に頭を抱え、掻き毟る国民的アイドル。夏だからなのか、妙に露出の多い部屋着でテレビさえなければ、ただの数学と格闘する女の子だ。

 さっきは微分に「そんなに細かくわけの分からないものになって何が楽しいのッ?!」と叫んでいた。逆に楽しそうに見えるのかと問いたい。

「お腹減った」

「……さっき食っただろうが」

「おやつ。カステラがいいわ」

 どうして高校生をあやさなければならないのか。僕は部屋の中央に鎮座しているちゃぶ台から重い腰を上げ、買い置きしていたスナック菓子を取り出す。この問題解けたら食っていい、と言うと哀川が喜々として問題に取り組み始めた。「だからカステラって……」などとブツブツ文句を言っていた気がしたが無視した。

 哀川が問題に取り組んでいるのを傍目に頬杖を付き、勉強している人間を嘲笑うかのように机の下から足を伸ばしこちらに向け、ゴロゴロしているのは我が妹。彼女から来てからすでに一週間。すっかりここに居着いてしまい、家事はするどころかエンゲル係数の急上昇に大きく貢献するばかりで家計を一切助けようとしない彼女は、懸命に床に向かって何か作業をしていた。聞こえてくる鼻歌から夏休みの宿題の類ではないだろうなと判断。そもそもこいつは夏休みの宿題を初めにやる最後にやると聞けば、僕にやらせると平気で答える人間だ。それでいて学校では成績がいいの世の中は不公平だ。

 ちゃぶ台に隠れその手元は見えない。しかし暇ではあったので、妹の足の裏を指先でそっとなぞった。「ひゃんっ」丘に打ち上げられた魚のように跳ね、ちゃぶ台が揺れた。勉強に集中していた哀川の動きが止まる。

そんな憧れのアイドルの険悪な雰囲気を感じ取ったらしい妹はいつもなら僕に即効講義しおやつを何らかしらねだるというのに今は息を殺し、再び作業に戻った。足ではなく、その健気さをもっと兄にも向けて欲しいものだ。

「ねえ」

 哀川はこちらの監視を気にしているのか鉛筆の手を止めずに声を発した。僕は再び隣には見えないように頬杖を付き、体全体で隠しながら我が妹の土踏まず辺りから太ももへと指を這わせる。ぴくりと暴れだしそうになったが、なんとかと堪えた。ぷるぷると子鹿のように震えている。

「最近葵祭の準備は進んでる?」

「いいや。演目が確定したの昨日でな、なかなか準備スタートできなかったんだ」

「ふうん……。じゃあ、役者は?」

「まだ。役者とか大道具とかは希望調査出したぐらい」

「はあ?! まだ決まってないの?!」

「そう慌てんな。葵祭は焦ってもできないだろ。それにな、お前にやってほしいって思ってる奴が結構いてな。まとまらないんだよ」

「ふ、ふうん。ま……まあ、あたしに期待する気持ちも分かるけど?」

 動揺した哀川を横目で眺めながら、今度は妹の逆の足の裏に攻撃を仕掛ける。触れる度に過剰に反応するのが意外と面白い。

「照れるなよ。お前、女優じゃないだろ」

「うっさいわね、今に見てなさい。女優業にも手出してやるんだから」

「何でもかんでも手をつけるのはいいが、うちの飯にまで手を付けるなよ」

「嫌。マズイのよ、楽屋の弁当とか」

「そうかい、ありがたいことだな」

 運動は苦手ではなかったはずだが、男の自分に比べたら十分に柔らかな足の裏。それを時折足つぼでもあるかのように強く押し「ああっ」、時に撫でるようにもみほぐす「ふわあ……」押し殺した声が消える度に隣のシャーペンを走らせるスピードが止まる。妹とのスキンシップなんてなんてぶりかなあ、と記憶に穴が空きまくってアルバム見ても同級生の顔も名前も滅多に思い出すことのない脳みそを稼働させ回顧を試ていると、「できたわー」と哀川が伸びをし、終了を告げた。

僕はスナック菓子の袋を開けてやり差し出す。哀川は意気揚々としてジャンクフードに手を伸ばす。「アイドルがポテチなんていいのか?」と今更のように釘を刺してみるが本当に今更のようでそのまま口に放り込んだ。「この罪悪感がたまらないっ」食べ物はそういう風に楽しむものではないと思うのだが。

 彼女の回答を見るために、最後に強く土踏まずを押しマッサージも終了、「いやんっ」とうとう耐えかねたらしい妹が飛び跳ねた。

「お兄ちゃんっ!」

 立ち上がる際に何度もちゃぶ台に脚をぶつけながら立ち上がり、僕を睨みつける妹。気分が高揚しているのか顔を真っ赤にし、まるで全力で学校前近くの坂(経度三十度)を駆け上がったかのように肩で息をしている。

「妹にやっていいことと悪いことがあるよ! 超えちゃいけない一線ってものがあるの!」

「あんた、妹に手を出したの?」

「違うあらぬ誤解を食べ滓落としながらするな」

 妹の上気し常軌を逸した発言に呆れながら、僕もポテチを食べようと、哀川の持っている袋に手を伸ばし、見事にアイドル様に弾かれた。ケチなアイドルだ。

「そんなに嫌なら足引っ込めれば良かっただろ」

「……っ」

 妹はその指摘にバツが悪そうに目を逸らす。そんなに盲点だったのか「だって気持ち良かったんだもん……」小さく呟いた。

「お兄ちゃんのせいで全く進まないんだから、もう……」

「まあまあ、妹ちゃんお菓子でも食べて落ち着きなさい」

「あ、ありがとうございます……」

 差し出された薄切りの芋をつまみ、その場に座り込んだ。落ち着いてくれて何より。しかし僕にはくれなかったのはどういう了見なのだろう。冷蔵庫から作り置きの珈琲を取り出し、コップ三つと一緒に持っていく。「ポテチに珈琲?」「お兄ちゃん、私苦いのダメなんだって」後者の意見だけ聞き入れることにし、牛乳を取り出す。

 妹はガムシロップも要求したが、そんな貯蓄はない。しかし哀川がブラックのまま飲む姿に感化されたらしい妹はちびちびとミルクを入れずに飲み始めた。無理しなくていいのに。ふと、うへーっと苦い飲み物に拒絶反応を示していた妹の隣に画材が広がっているのを見つけた。

「進まなかったって……お前、何やってんだ? まさか宿題か」

「まっさっかー。宿題はお兄ちゃんのために残してあるから安心して」

「安心させるならさっさと自分でやれ」

「えっと。んー、お絵かき」

 僕の指摘を誤魔化し、「へへっ」と少し照れたように床に広げていたそれをこちらに向ける。スケッチブック。それに描かれているのは色鉛筆で描かれた川だった。川の周りには大きな橋やビルが見える。僕らの実家ではない。しかし近所でもない。ここから何駅か離れたところに大きな川が流れていることを不意に思い出す。「あんなところまで行ったのか」「うん、お散歩にはちょうど良かったよ」目的もなく数十キロ歩くとか前世は犬に違いない。そういえば、こいつは昼間街中を巡ってるんだったか。

「へえ、うまいもんね」

 哀川は素直に感心し、目を丸くする。妹は褒められたのが純粋に嬉しいらしく、ニコニコ上機嫌。他にも描いたんです、とスケッチブックをめくり、他の景色を見せる。散歩趣味のない僕にはほとんどんの景色は分からなかったが、哀川には馴染みある場所だったようで、あそこの夕日は綺麗だの小さい頃に遊びに行ったきりだのと会話を弾ませていた。

「えへへっ、でも馬鹿兄の方がうまいですよ。ねー、お兄ちゃん」

 悪意のない言葉。仲間はずれの兄を気遣ったわけでもなく、この妹のことだからただ自慢したくて、誇りたくて、知って欲しくて言った言葉なんだろうとは思う。でも。

「…………。そうだな」

 僕のその言葉に、感情はなかった。不機嫌というには抑揚がなく、無感動と言うには余りにも悲壮が滲んでいる。久々に自分のこんな声を聞いた。それは妹もだったようで妹の笑顔は曇り、バツが悪いように口をつぐんでしまった。目のやり場に困ったようにスケッチブックに視線を落とす。

「へえ、あんたにもそんな特技が。なんでやめたのよ。これより上手いとか、普通にすごいじゃない」

「忘れた」

「はぐらかすんじゃないわよ。ねえ、妹ちゃん?」

 素っ気ない態度が逆に彼女の好奇心を刺激したらしく、その矛先は妹へ。「は、ははは……。そーですね……」はぐらかすばかりだった。このまま追求され続ければ妹の胃に穴が開くか、胃の中身が口から出てきそうだったので、「それ食ったら今日はもう休んで明日に備えて寝ろ」と哀川に言った。「なによ」彼女は唐突に態度の変わった霧隠家の住人に戸惑いを隠せず苛立ちへと変換していたが、僕の様子をどう思ったのか渋々納得した。もうそれなりに遅い時間帯であるのは事実だったというのもある。

 哀川が隣の部屋に戻り、我が家も就寝の支度をするかと妹に言うと、彼女は眉をひそめ、伺おうようにしてこちらを見た。

「ねえねえ。仲良いけど、知らないの?」

「隠しているわけでもないけどな」

「露骨に話すの嫌がったじゃん」

「お前は知り合いにトラウマを風潮する癖でもあんのか」

「恋人じゃないの?」

「それはお前の願望だろ」

「まあそうかも。お兄ちゃんがアイドルの彼氏とか凄すぎだし。想像つかないけど」

 妹は頬に両手を当て、うっとりした様子で遠く見る。哀川が姉になったら小間使いに使われるだけだと思うが。しかし妹はすぐに妄想をやめ、眉を下げ自分のスケッチブックを閉じた。

「あのね、絵を描きたくないのも分かるけど……。もう、絵は描かないの?」

「……ああ」

 正しくは描かないのではないが、その意思もない以上同じことだろう。

「私、お兄ちゃんの絵好きだったのに」

 幼い頃、彼女の似顔絵を描いた時の笑顔が一瞬蘇る。輝いていたはずのそれは、どう思い返しても曇って濁ってくすんで再生される。ここ最近は毎日のように見ているはずのそれが、全く楽しそうに浮かび上がらない。

「お前が覚えてくれていただけでいい」

 妹の頭を撫で、お前が気にすることじゃないと諭す。彼女が心配したところで僕が筆を握ることはないし、決して以前のようなものは描けないだろう。

 それが僕の贖罪なのだから。

 彼女が気にすることではないのだ。

 僕が家を出た理由なんて。


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