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以前に投稿し、一旦は小説応募の際、削除した作品です。
落選した作品ですが、自分で反省も兼ねて再投稿。
感想、意見、批判、批評などなどよろしくお願いします。
「届かないな」
僕には全てが偽物に見えた。
学校の屋上のコンクリートの冷たさを背中で感じながら、僕は晴れ渡った天へ手を伸ばす。指の隙間から広がるのは空の青と雲の白。それは単色ではなく、様々な青や白が重ねられ、その存在感に深みを与えている。……気がした。
快晴だろうと曇天だろうと虹があろうとそれは決して届かない。幼い頃は太陽に手が届くのではないかと漠然と考えていたがいつまで経っても僕は掴めない。掴めないのなら何億光年先にあろうと僕の幻覚であろうとどちらでもいい気がしてくる。それがどんなに立体感や重量感を持ったものであっても、僕にとっては一枚の絵に過ぎない。
「うっすい」
本物とはほど遠い。写真と同値できる立体感がない世界。
高校二年の僕が世界だとか社会だとかそんな大きなことを語ることはおこがましいどころかその資格さえないと思うところではあるけれど、それでも僕の周りの全てが胡散臭く思えた。
僕は、本物を知っていたはずなのに。
「あー、暑い……」
どこまでも薄く、嘘くさい景色。
僕の見る景色はいつからこんなにも嘘臭くなってしまったのだろう。昨日か? 高校に入ってから? 三年前? それとも生まれつきか。考えるが、分からない。
「昔は、輝いて見えたんだけどな」
最もその輝きで本物と錯覚していただけかもしれないけど。偽物であるほどメッキを塗りたくり、光り輝くものであろうから。
七月も半ばになり、一週間前までの梅雨を引きずるかのようなジメジメとした暑い日がここ数日続いていた。蒸し風呂に放り出された気分である。
今日は教師陣が学生の心身向上と日々の休息という恩着せがましさから生まれた球技大会その日であった。
どれだけ学業が嫌いだろうとそれは義務であり、また夏休みという権利を勝ち取るためには課題がある。有り体に言えば、期末テスト。四日間にも及ぶ忌々しい暗記ゲーも昨日でおさらばした。今はその結果待ちの期間。
教師どもの本音を高らかに代弁すれば「採点するからお前ら邪魔するな」という理由で生まれたのが球技大会だった。こんな催し物をするぐらいなら休日にでもしてくれ。
というわけで、参加する気のさらさらない僕は学校に来てそうそう屋上へと逃げ込んだ。担任も朝のホームルームを済ませるなり学生にその主導権を任せてしまったので、僕のような生徒がいても黙認しているのだろう。
屋上というのは大抵の場合、事故が懸念されることからその出入りが禁じられている。しかしその鍵が馬鹿になっていることをここ最近発見した僕は悠々と陽が照りつける中、大の字になっていた。その額からは大粒の汗が流れ顔を伝う。うむ、非常に気持ち悪い。
鍵云々でなくともこの時期にこの炎天下で過ごそうと考える生徒はいない。しかし学校は公共の場という性質上、一人になれる場所というのはほとんどないのだ。孤立しているのと、一人になるのでは意味合いがだいぶ違う。
遠くの体育館で歓声が聞こえた。確か種目はバスケだったか。
それさえも曖昧な僕は目を細めて見ていた陽光に耐え切れなくなり、瞼を閉じその上に右腕を載せる。鍛えていないだらしがない肉の感触。ついでに緩慢な動きで汗と熱によって蒸れた右目を覆い隠した眼帯の位置を整える。
「厨二病も真っ青な装備だな、本当」
眼帯。それはもうかれこれ三年つけていたが、未だに違和感が拭えない。不快感からすぐにでも外したいが、僕の手はそのことを禁じるように抑えた。
別にそれを外したところで周りに害をなすわけではない。未来視であるとか封印されし古の龍の刻印が浮かび上がるだとか左右で色が違うなどという、そんなファンタジーかつエキセントリックで使いどころのない能力の持ち主というわけではない。断じてない。あって欲しいとも思わない。
しかし利益をもたらすわけでもないそれを、僕は外さなかった。不快以上にただ純粋に外すことが嫌だ、という理由なだけで。案外、封印という意味では正しいのかもしれない。
風が吹く。六階建て校舎の屋上に生ぬるい空気の対流が生まれる。都会に位置するうちの学校からは少し離れたところにはビル群が見え、この学校もビル群に負けぬよう学校としては高めに建築されていた。東にはすっかり開発され尽くされた地域だというのに未だに抗議活動を行っているという商店街があり、西を向けばそのビル群へ向かい発展した大きな通りがある。その先にあるのはこの街で有数の巨大な駅。老若男女関係なしに入り乱れる混沌とした駅だった。
東から西へ。まるで巨大な何かが駅へと赴くかのように風が流れる。眼球の湿り気が一気に失われ、強く目を瞑る。
「――――――――――」
すると、小さな音が聞こえた。
その音は鼓膜を揺さぶり、全身を揺さぶり、心を揺さぶる。
全身の鳥肌が総立ちし、内蔵が浮き上がったような感覚に陥る。吐き気のような、しかしいつまで聞いていたような、叫びに似た感情の込められた音。その音が人の声だと気づくまでに数秒要した。
「誰かいるのか?」
上半身を起こし、辺りを見渡すが誰もいない。遠くからうるさい歓声やら都会の雑多とした生活音が聞こえるが、その声はもっと近くだ。いるとすれば、と視線をさらに上へと向ける。それは入口の上。僅かではあるが人がのれる場所はあるが、奥行きがあるらしくそこに人の影は確認できない。起き上がり、近づいてみると側面に梯子があるのが見えた。
僕は梯子を掴んで、一度掴むのを失敗してから、その強度を確かめる。老朽化はしていないようだ。左手で掴み、反動をつけ勢いよく登る。右手は添えるだけっと。
頭だけ出して上の様子を伺うべく覗き込んだ。
そこにいたのは一人の少女。
女の子が天に向かって、世界に向かって、叫ぶかのように感情を歌に込めている。
一瞬誰だか分からなかったが、しばらく注視している内にそれが誰であるかに気づく。学校というだけあって全校生徒の名前を知り尽くしているどころか、自己紹介された次の日にはすっかり忘れているような僕だが、その少女のことは知っていた。貴重な例である。
「……音無?」
クラスメイトの名前がこぼれる。しかし彼女の歌声に呟きは掻き消える。消え入りそうなのに何物も近寄らせない力強さを持ったその歌声にしばらく圧倒されていた。はて、こんな奴だったか。いつも教室の隅で読書しているイメージだったけど。
こんな綺麗な声してたのか、こいつ。
音無はなぜがこんなにも暑いのに長袖できっちり袖口まで伸ばしていた。その前髪は目元が隠れてしまうほどに長く、襟足は肩より少し長いくらいのところで切りそろえている。頭髪規定が緩いため染める人間も多いが、彼女は炭でもかぶったかのように深い黒。日中だというのに、彼女の周りだけ光が吸い込まれてしまっているかのような闇。それでいてその肌はどこまでも白く、今度は光を乱反射させている。その強すぎるコントラストに幻想的なものさえ感じた。
彼女は正座を崩し、首元にその華奢な体に似合わないほどゴツゴツとしたヘッドホンをかけてその膝の上にやたらと分厚い本を広げていた。そして空を仰ぎ、誰の目も気にしていないかのように歌う。
そうして歌の区切りがつくと音無は疲れたのか、深く息を吸った。そして偶然にも彼女と目が合い、音無は固まった。僕は「ハロー」と特に笑いもせず右手で力なく振る。と彼女はレスポンスに頬を引きつらせた。そんなに僕の社交辞令が気に食わないか。
「音無がここにいるのは意外だったな。案外不良なのか?」
肩をすくめ大袈裟に言うと、音無は顔を赤らめ勢いよく首を振った。長い前髪からぱっちりとした目が覗いた。思いの外はっきりした顔立ちなんだな、と内心地味子ちゃんから隠れ美少女に呼称を改め、梯子を登りきった。
近寄ろうとすると何かを怖がるように音無が身を引く。膝の上にのっていた音を立てて、本が落ちた。本をそのままに数メートルさらに後ろに飛びずさる。何もしねえよ。
怖がる小動物でも相手にするように警戒心丸出しの音無を落ち着けようと本を拾う。
「本読んでたのか」
読書中いきなり歌い出すなんてミュージカル役者にでもなるのだろうか。その本のタイトルに見やると、どこか身に覚えのある名前だと思った。物覚えの悪い僕が覚えていることならそれなりに回数聞いているもののはずだ。…………。ああこれあれか。ミュージカルへ思考が向いていたからすぐに思い至る。
「そういえば、葵祭もう少しだな。これ、去年出てた演目の一つだよな」
葵祭、という言葉に音無はもじもじと俯かせていた顔を上げた。音無は葵祭の話になり訴えたいことがあったのか、はたまたこんなところで歌っていた言い訳を言おうとしているのか、口を金魚のようにパクパクさせる。
「あ、あの……っ……、」
その先はない。別に返答や会話を期待しているわけではない。ここにいることを咎めるつもりはないし、そもそも僕だって同罪なのだ。
ただ、もう少しあの歌を聞いていたいなとは思ったけれど。
僕はその場に座り込み、音無もつられるように腰を下ろした。近づきはしない数メートルの距離。彼女は口をもごもごさせながら指を絡ませ俯いてしまっている。彼女との間には手を伸ばしても届かないだけの距離があった。それをあえて縮めようとも思わない。クラスメイトとはいえ彼女とは親しいわけではない。それでもその場を立ち去らなかったのは、ただ単に面倒だったからである。不快でないなら十分だ。
僕は無言の中、気まずさよりもなぜか奇妙な心地良さを感じながら、額の汗を拭う。
「夏だなあ」
音無は終始何か言いたそうにしていたが、それから何十分我がクラスの準決勝敗退の知らせが放送に流れても彼女の綺麗な声を聞くことはできなかった。
無言のまま僕たちはバラバラに教室に戻り、ハリボテのような喧騒の中へと戻った。
二人きりの時でさえ話さなかったのだから球技大会で熱を帯びているクラスの中で僕たちが言葉を交わすことも、目を合わせることもなかった。
気の迷いに似た、もう来ることはないだろう時間。そのことに別段寂しさももったいなさも感じることなく、まあこんな日もあるさ程度に受け止めていた僕は球技大会の応援駆けつけなかったことを周りに咎められていた。
クラスが、学校全体が、浮かれていた。
それは期末テストという忌々しい鎖から解き放たれたからでもあり、球技大会による刹那的な団結力に酔いしれているからでもあり、これから夏期休暇という学生各々が充実する時間が訪れようとしているからであり、そして何よりも――葵祭が控えていた。
夏が、始まろうとしていた。
怠惰な僕にとっては楽しくも辛くもない、ただ無為に過ごすだけの夏。
どれだけ暑くなろうと構わないが一つだけ祈ろう。
「面倒なのは勘弁だな」
そればかりは嘘でも信じたい。