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眠る


 何もない季節は唐突に始まる。

 長い夜の季節となり、野辺には一輪の花もない。何もない黒い大地にタキはいる。

 凍てつく夜が幾晩も続くと、やがて藍色の空から雪が降り出す。

 大地も空気もカラカラに乾く。やはり寒くはない。いや、もしかして躯は凍えているのに、それを感じないだけかもしれない。今だってこの何もない大地に独りでいると、自分が何者であったかさえ分からなくなる。

「タキ、タキ」と呼ぶ小鬼もいない。

 花さえない。

 あるのは黒い大地を覆い尽くすように降り積もる雪だけだ。

 女鬼のまるは死んでしまった。

 子を産むこともなく。

 大きな腹をしたまま、冷たい躯で横たわっている。

 腹を押してみると、そこにはみっちりと何かが詰まっている。しかしそれらはもう熱などなく、指先にびりびりとした冷たさを伝えるだけだ。

 タキはしばらくの間、まるの死体を近くに置いていた。

 まるは腐るでもなく、長い間そこにおり、タキの憂さを晴らしてくれた。こんなにも、醜い女鬼に慈愛を感じたことはない。それは生きて走り回っていたまるには、到底感じないものであった。

 動かなくなったまるは、動かなくなったことで初めてタキに受け入れられたのだ。

 最もそれをまるが誇りに思うわけはない。まるにしろ、小鬼等にしろ、タキはただそこにいるだけの木偶の坊に等しいからだ。

 ああ。そうだとも。

 わたしという人間は、まったく役にたった試しなどない。タキはそっと溜め息をついた。

 雪がまるの躯を隠す。

 タキの肩にも頭にも、ずんずん積もる。

 タキはもう半ば雪に埋もれている。まるは影も形も見当たらない。そうして人型の雪山ができる頃、イタチがやって来たのだ。


   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※


 太一は蔦氏との会見を終え、泉の里に戻っていた。

 朝出かける時は晴れ渡っていた空は既に暮れなずみ、小糠雨が太一の躯を濡らしていた。

 太一は澤ヨウジの眠る部屋の扉をうすく開けると、そっと躯を滑り込ませた。

 電気はつけない。意識はないのだから、点けても問題はないのだろうが、何となく太一は彼を意識のある患者と同等に扱つかっていた。

 部屋は雨の夕刻独特のうす暗さにつつまれている。

 微かな黴くささとは別に、どこぞから漂ってくる潮の香りに太一は鼻に皺をよせた。

 壷が「タキ、タキ」と鳴き始めてから、澤の病室は潮の匂いが漂うのだ。

「君の親友のお兄さんに会ってきた」

 椅子を彼の枕元に寄せると、太一はだらしなく足を広げて座り、そっと小声で語りかける。

「正直嫌な感じの男だと思った。しかし話していくと段々と憎めなくなる。タキエくんはどうだったのだろう。嫌われていたと言っていたが、わたしはそうは思わない。でなければコエのことを彼に話すとは思えない。そうだろ?」

 無論返事はない。

「タキエくんを通して、君が。君たちのことが少しは分かった気がするし。ますますわけが分からなくなってきた気もするんだ。けれど蔦氏と話して、これだけは確信した。君とタキエくんは互いがなくてはならぬ者だったのだろう」

 太一の視線の先で、澤ヨウジはこんこんと眠り続けている。

 太一は布団をめくると、男の躯の向きを変える。

 ここへ来たばかりの頃。男の足には床ずれができていた。今だその跡は黒く醜く残っている。

 眠っているのは、なかみをどこかに置き忘れてきた空っぽの抜け側だ。しかし太一は側にいると感じる。

 ヨウジの気配はすぐそこにある。

 目を閉じて。

 耳をすませば、気配は驚くほど近く。濃く。漂ってくる。

 気のせいなどではない。ヨウジの母親もまたそう感じていた。だからこそ彼女は耐えきれずに、ここへ息子を託したのだ。

「夜中に音がするんです」

 初めて会った時、そう言うと彼女は自嘲気味に笑った。

 笑いながらも彼女は決して太一の顔を見ようとはしなかった。目を合わせば呪いを受けると狂信している者のように、じっと地面を。己の影だけを見つめながら、神経質そうに両の掌をこねくりあわせていた。

「あんなに好きでしたから、眠っているあの子の部屋に壷を置いていたんです。すると夜中に音がするんです。ごおごおと。激しい水音で、あたしは最初雨が降っていると思いました。でも違うんです。外は星空でした。水音はあの子の空っぽの壷のなかから聞こえてくるんです。先生。こんなことってあるんでしょうか」

「疲れているんですよ。ゆっくり休めばきっと大丈夫」

 太一はそう言って、彼女を慰めたのだった。

 彼女はまた笑った。卑屈な笑みであった。

 無論気休めで言ったのだ。ここへやって来る患者の家族はみな疲労困憊の末に来る。彼女もその一人であると思ったからだ。そしてその思いは彼女に伝わっていたのだろう。だからこそ彼女は笑ったのだ。

 その事を太一はしばらくして知るはめになった。

 太一にも聞こえてきたのだ。

 夜な夜な。

 壷の内側から、おーんおーんと不穏な音が響いてくる。

 悲鳴なのか。怒号なのか。

 太一には水音ではなく、人の声に聞こえてならなかった。ずっと聞いていると頭が可笑しくなりそうであった。

 澤ヨウジは。彼の母親はこれを聞いていたのか。

 この時初めて太一はまともであった頃の澤を想像してみた。

 彼の家は決して裕福ではなかった。学もない。毎日壷を持ち歩き、友人たちからは「壷おとこ」と揶揄され、本人が認めているといっても馬鹿にされて育った。

 そんな幼少期を過ごし、澤はタキエと巡り会った。

 今回蔦氏には告げなかったが、澤とタキエ少年が出会ったのはどうもラク婆の家付近であったらしい。奇しくも澤一家が住んでいたのが同じ長屋であったのだ。

 いわば蔦氏がいたずら心をださなければ、育ちも環境も違う二人は出会いはしなかったかもしれない。

 それとも。

 太一は椅子から立ち上がると、眠るヨウジの枕元から壷を手にとった。

 それとも、いくら離れていたとしても彼等は互いを見つけ出したのだろうか。

 母親の話しでは、タキエが長屋に通いだした頃。ヨウジは始終落ち着かなく表をほっつき歩いていたそうだ。そしてとうとうある日。興奮に頬を赤くして、「ついにみつけた!みつけたんだ!」と、その友達のことを早口にまくしたてたそうだ。

 太一は胸に抱いた壷の口にそっと指先を這わした。壷のくちはひやりと冷たい。

 不気味なほどの冷たさが、太一の指を刺した。


   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※


 イタチは面の下で薄く嗤っていた。

 男は頭からすっぽりと雪をかぶっている。躯は凍えているだろうに、それを感じることもない。

 虚ろな目だ。もう何も映していないのだろ。しかしそれでは困るのだ。男の思考が止まる前に。次の世界に行ってしまう前に、イタチは行動しなければならない。

 イタチは男の足下を掘った。

 ここの雪は湿り気の少ないさくさくした感触だ。目的のものは、だからすぐにも出て来た。

 ソレは堅く小さく凍っている。

 イタチは丁寧に雪をはらうと、ソレを両手で抱いた。見かけよりも、ずっしりとした重みが伝わってくる。

 イタチがソレを持ち上げた時、横にいた男の肩が動いた。積もった雪が、男の頭から、肩から、ほろほろと落ちる。

 男の開いている目の玉が微かに動く。

 薄い色素の瞳が、イタチの姿を捕らえている。男の唇がそっと動いた。

「ああ、あなた」

 男の口から白い息が漏れる。それがイタチにはちょっと奇妙に思えた。男の体内が外気温より高いのが不異議であった。もう躯中凍えていると思っていたのだ。

 イタチは短く舌打ちをする。

 男がイタチのシャツの裾をひいた。

「ね、手紙はどうなりました?わたしはずっと待っていたのです」

 そう言って男はにこりと微笑むのだ。

 イタチはつかまれているシャツの裾を、乱暴に引きはがした。そこで初めて男はイタチから醸し出される胡乱な気配を感じ取った。

 己の躯の雪を払い、萎えた足で男は立ち上がる。

 膝から下がまるで蒟蒻(こんにゃく)のようだ。自分はこんなにも弱ってしまっている。一体どれだけの長い間ここに、こうして座っていたのだろう。男はよろけて、思わずイタチの肩に手をおいた。するとイタチが抱えているものが見えたのだ。

 それは死体だった。

 死んだまるの躯であった。

 イタチはそれをさも大事そうに(かいな)に抱いている。

 まるの腹は男の記憶のままに膨らんでいる。しかしそれはとうに命を失った腹だ。腹の内側は温度を無くしている。そんなものを、イタチはどうするというのだろう。

「それは、女鬼です」

 男の口から弱々しい呟きがもれる。

 男は人差し指でまるの死体を差す。イタチに話しかけるというよりも、自分自身に確認しているかのような仕草であった。

「それは、既に死んでいます。外も内も死んでいます」

 まるの瞼は閉じられている。

 黄色く染まった閉じた瞼。

 かつては猛々しい光で輝いていた眼球が動くことはもうないのだ。

 大地を蹴って走るまるの強靭な筋肉の動き。大きな口から発する臭い息。彼女の淫らな欲望。

 男はそれらの記憶を掘り起こす。それはひどく億劫な作業に思えた。

 濃紺の空が広がる夜の時間に、どうして自分はここでこうしているのだろう。今は眠りの時間のはずなのに。

「そうですとも」

 訳知り顔でイタチが頷く。最もその表情は面に隠れて、ちっとも見えないのだが。

「あなたが起きている時間はとうに終わっています。眠るのです」

「……しかし」

 男はふらつく躯で、ようようイタチにしがみついた。この子供のどこにそんな力があるのだろう。イタチは成人の自分を片手で抱き寄せながら、しっかりと雪の上に立っている。

 まるで立派なものではないか。それにひきかえ自分は立っているのもやっとだ。今にも雪原に膝をついてしまいそうだ。

「あなたは野辺の向こう側へ行ったことがありますか?」

 イタチが男へ尋ねる。口調は男の知っている穏やかなものに変わっている。そのことに安堵し、男は「いいえ」と首を横に振った。

「本当ですか?よくよく考えてみて下さい。僕は先日行ってきました。向こうの、ほら。ぼやぼやとした木立があるでしょう。あの森のなかには幾つもの泉があるんです。気持ちの良い季節でしたら、そりゃあ鏡みたいに奇麗です。

 あなたは知っているはずです。だって壷もちの子は、そこから来ていますからね」

「あの子供かい」

 男は思い浮かべる。

 小菊の季節に会って以来、あの子供はここへは来ていない。雪が深くて来られないのかもしれない。懐かしく思えたが、それ以上に男には確かめなければならないことがあった。

「ね。手紙。手紙を下さいな」

「子供の名を知っていますか?」

 イタチは男の質問には応えない。やけに横柄な態度だ。男は気分を害されながらも、「知らない」と、呟いた。

「ヨウジです」

 イタチは胸をそらして云った。

 酷薄そうな口調が凍えた空中で響く。

「僕は言いましたよね?手紙の受け取り人は野辺に来ると」

「あ。……あ、ああそうか」

 男は慌てて袂をあさった。大事にしまっていたはずの。手紙はしかしどこにも無い。

 あのみっともない子供が本人だったとは。これではまったく酷いヘマではないか。渡さないどころか、男は盗み読みまでしている。きっとイタチは知っているのだろう。

 だからイタチは怒って、意地の悪い態度をとっているのだ、と男は思った。

「いいのですよ」

 慌てる男の手を、イタチが小さな掌で止めた。

「あの手紙の件は忘れてくれたっていいのです。ところで、あなたのお名前は?分かりますか?」

 すぐにも男は名を口にしようとした。しかし開けた口から解答は紡ぎだされない。奇麗さっぱり男の頭からは、己の名が抜け落ちている。

「眠る季節ですからね。しかしあなたが本当の名を思いだせましたら。そうしたら、あなたは手紙の」

 そう言って、イタチは失くしたはずの手紙を鞄から取り出してみせた。

「手紙の意味が分かりますから。それまではゆっくり休んで下さいな」

 慈しむような声である。イタチがゆっくりと男の躯を横たえていく。もう瞼があがらない。

 自分が。

 まるが。

 眠りにつく。

 冷たさも感じないまま。男の躯は雪原へと倒れていく。

 イタチは眠りについた男の背へ。

 頭へ。

 足へ。

 鞄を逆さまにして、どっさりと詰まった手紙を降らせていく。

 手紙はどれも真っ白だ。

 雪原に。文字のない手紙が舞い散っていく。

 白い手紙に包まれて眠る男を残して、イタチは雪原を歩き出す。空っぽになった鞄に、腹のふくれた女鬼の死体をいれて。

 野の際まで来た時だ。

 イタチを激しい目つきで見つめる少年に気がついた。少年は堅く拳を握りしめ、唇を噛んでいる。

 イタチはおどけた調子で彼に一礼すると、にやりと嗤った。

「春になったら、また会いましょう!!」


   ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※


 いつもならば山の稜線がくっきりと見えるはずの、病室の窓は雨でけぶって白く濁っている。

 太一は立ち上がると、窓を外側に向けて開け放った。

 先ほどから壷が五月蝿いくらいに鳴ってかなわない。

 まるで潮騒のように、寄せては還し。

 還っては寄せてくる。

 タキとは呼ばず、今日の壷はひたすら鳴きわめく。

 おーんおーんと高くわめくかと思えば、ぎゃおぎゃおと海鳥のような鳴き声をたてる。

 遠く。高く鳴くコエは、しかし次第に海鳥のものではく、大勢の赤子達が一斉に泣いているように聞こえてくる。

 太一は鳥肌がたつ思いで、壷からはなれた。

 その時だ。

 窓際をさっとよぎる影があった。

 なんだと、太一は窓枠から身を乗り出し目を凝らす。

 影は小糠雨のなかを山へと続く森に向かって走っていく一匹の獣であった。

 獣は細くながい胴体をして、立派な尾を持っている。一度遠くで立ち止まり、短い足で立ち上がると、ぐるりとこちらに振り返った。太一のいる窓を窺うようにじっと見つめてから、草影のなかへと入り込み姿を消した。

 雨に混じって、どこからともなく季節はずれの花の匂いが濃く漂ってくる。

 壷はおーんおーんと鳴き続ける。

 無心に。母親を求める赤子のように。


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