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揺れる

 人の一生を短く的確にまとめあげるのは、容易ではない。

 社会的に優れ、成功をおさめていると称される人物の家庭環境や人間関係が破綻している場合もある。

 逆もしかりである。一見不遇の人生を歩んでいながらも、本人にしか計り得ない充足感に浸り、満足している者もいる。

 澤ヨウジの場合はどうであったろうか。

 太一は彼の母に何度か会ったことがある。

 母親の言葉をかりれば、彼は幼い頃より「壷おとこ」という何とも奇態(きたい)な渾名を有する少年であったそうだ。


「壷おとこ?そりゃまた気味の悪い渾名だ。いじめじゃないのかね?」

 蔦氏は太一へ席をすすめたばかりか、秘書を呼び出すと紅茶のおかわりを持って来させた。太一の発したコエの一言が彼の態度を軟化させたのは明白である。

 蔦氏は己も院長椅子から退くと、太一の真向かいに座す。そうして身をのりだして聞いてくる。

 呆れるほどの変わり身の速さである。

 太一はその変化に多少へどもどしたものの、どうせ話しを聞いてもらうのならば、友好的な方が互いに良かろうとわりきった。

 但し。この男の性根は単純とは言い難く、あくまで自分に利があるか否かで、その対応は百八十度変わるという事を忘れぬようにと、肝に銘じた。

「いえ。語感だけでしたら、そう受け取れますが、ヨウジくん自身が自分は壷おとこだと明言していたらしいです」

「ふうむ。そりゃあまたタキエ同様変わり者だ」

「壷おとこ。この壷というのは、彼が幼い頃より持ち歩いている物でした。但しお母さんの話しでは家族が買い与えたものではない。拾ったのか、貰い受けたのか。とにかく四歳くらいから彼は件の壷を小脇に抱え、どこに行くのも離そうとはしなかったようです」

「その壷というのはどんなものなのかね?」

「大きさは、そうですね。このくらいでーー」

 そう言って太一は両手で形をつくる。

「素焼きの素朴なものです。高台には印が刻まれていたようですが、劣化が激しくて今では判別がつきません」

「残念だ。印が分かれば、そこから辿れるものもあるのだが」

 惜しそうに蔦氏が呟いた。

「始終壷を持ち歩くだけでも、かなり変わった子供です。加えてヨウジくんは壷からコエが聞こえると言っていました。壷が拾いあつめたコエをためているんだというのが、彼の主張です。更に付け加えるのならば、わたしが彼の病室で聞いたタキと呼ぶ声も、壷から聞こえてきたと思われます」

「なんと。それでは君はその……同じなのかね?澤という少年と」

「どうでしょうか」

 太一は首を傾げると、しばし考えを巡らせてから口を開いた。

「わたしは違うと思います。まずヨウジくんの場合は壷のなかから色々な人のコエが聞こえてきます。次に彼はそれを選別しては壷にため込んでいたという。

 実はここのところが母親にもわたしにも、どうにも理解できないくだりなのですが、とにかく聞くだけではない。壷に対して何らかのアプローチがあるわけです。

 ですがわたしの場合は違います。そうですね……壷が発する声をたまたま耳にした。そんなところです」

「ふむふむ」

 蔦氏は顎をひとしきり弄り回すと、「それは面白い」と目を輝かせる。

「面白いですか?」

「ああ。ここまできたらわたしも認めるべきだな。君の言う通りタキエは聞こえないコエを聞いていた。少なくとも本人はそう主張していた。タキエは頭の内側からいつも決まったコエが聞こえてくるそうだ。

 ふむ。あの少年がタキエの友人だったとすれば、二人は極めて似通った秘密をもっていた事になる。しかも片方が失踪し、残る片割れは長期昏睡状態とは。医者の立場でこのような発言はまずかろうが、実に面白い。運命的なものを感ずる」

 ひとしきり感心すると、蔦氏は太一に向かってにやりと笑ってみせた。

 それはどう見ても品の良い笑みとは言いかねる類いのものであったのだが、逆にそれが腹を割って話しているという気持ちの現れに思えるのであった。

「これはわたしの推測なのですが」

 そう前置きをすると、太一は言った。

「彼等は互いに共鳴していたのではないでしょうか」

「共鳴?」

「ええ。そうです。ヨウジくんはタキエさんと会って以来彼のコエのみを聞いていたらしいのです。それまでの彼は日々騒音のような支離滅裂なコエを無差別に聞いていました。それがある日からタキエさんのみに耳をすませるようになったふしがあるのです。

 それでなくとも常人には理解し難い状況にあった子供たちです。互いに近しいと感じたならば、その距離は一気に縮まるのではないでしょうか。

 いわば二人は壷を中心に互いになくてはならない者となったというわけです。しかしタキエさんは理由は分かりませんが、若くして自死を選んでしまいました。その後ヨウジくんは彼の不在に耐えられず、随分と不安定な精神状態だったそうです」

 太一は目を臥せると、手にしていた手帳の表紙をなでた。そこに収まっている写真の、屈託ない笑顔が数ヶ月後には曇ってしまった理由を考えるのは辛かった。

「澤くんは母親に頼んで、タキエさんのお葬式に行ったそうです」

「葬式にかい?」

 驚いたように蔦氏が聞き返す。

「いや、君。それはなかろう。タキエの死が分かった時には既に失踪から何年もたっていた。どこにも知らせず身内だけでひっそりとすませたはずだ」

「ヨウジくんは知っていました。何故かは分かりません。彼はタキが還ってきた。会いに行かなければならないと、激しく主張しタキエさんの実家まで母親と共に行ったそうです」

「……」

「それからです。ヨウジくんの奇行は日に日に酷くなっていったそうです。彼は自分がタキエさんであるかの様に振る舞いだしたそうです」

 太一はヨウジの母親の言葉を思いだす。

 彼女は辛そうに、細いというにはいささか骨ばった躯を曲げながら、当時の話しを太一へ吐露した。

ーーあの子は坊ちゃん(タキエの事をしばしば彼女はそう呼んでいた)からお下がりでもらったセエタアだのシャツだのを着ては家出を繰り返すようになったんです。

 家に帰らなきゃ。お母様たちが心配なさっている。って。何がお母様ですか。笑っちまうでしょう、先生。でもあの子は至極真面目にそう言うんです。

 坊ちゃんがいなくなってからも、変でしたのが、お葬式から帰ってからはますます可笑しくなっちまって。帰る、帰るってぐるぐる外を徘徊しては警察に保護されて。こっちはもう、恥ずかしいやら、苦しいやら。

 そういえば、あの頃からです。あれだけ執着していた壷を忘れちまうようになったんです。なんででしょうかねえ。けどねえ、あの子を狂わしたのは壷なんだ。あたしは今でもそう思っていますよ、先生。

 壊してしまおうと何回も思いました。けれどいつも寸でのところでできないんです。大事にしていましたからねえ。やっぱりできないんです。

 彼女の声が脳裏をよぎる。

 太一はがばと立ち上がると、蔦氏へ頭を下げた。

「澤くんは生きています。今後目覚める確率は低いかもしれません。しかし彼を目覚めさせる鍵があるとしたら、タキエさんだと思うんです。だからわたしはここへ来ました。タキエさんという人を教えて欲しいのです」

 蔦氏はしばし太一の姿を推し量るように見つめていた。

 沈黙が流れ、太一は再度、「お願いします」声を張り上げた。

「……いいだろう」

 蔦氏は頭をあげるように太一へ伝えると、

「わたしもあの子の全てを知っているわけではない。タキエは用心深いうえに、人を信じる質ではなかった。しかしわたしとタキエはある時期共犯的な関係にあった。良かろう。君に知っていることを話してみよう」そう言った。



 タキエは不思議な子供であった。

 幼い頃より聡いというか、子供らしさのあまり感じられない子供であった。

 病弱な子供にありがちな、家に引きこもって本ばかり読む。そういう性質であったのは間違いない。

 男の子のする遊びなどには、ほとんど興味を示さず、もっぱら読書と家族が彼の世界の中心であった。素封家である梶尾の家の跡取り息子であるのだから、優秀なのは何よりも有り難い。しかし、ただ単に優秀なだけではなかった。

 彼はほとんど言葉を発しない子供だったのだ。

 男の子で言葉が遅い、というのはまれに聞く話しではある。特にタキエの周りは女ばかりで、過剰に世話を焼かれていた。彼が話す必要もないうちに、全ての用件が足りてしまう。そんな状況だからだろう。初めはみながそう考えていた。

 しかしさすがに三歳を過ぎても、片言しか口にしない。しかもかなり切羽詰まった時だけというのは、普通ではない。心配した両親は町の大きな病院を受診した。

 舌の動きに問題はない。口中も自然だ。耳も聞こえている。知能は高いくらいだ。

 しかし話しはしない。結局理由は分からないまま、タキエは幼児期を過ごし、学校にあがった。

 タキエの学校での成績は抜群であった。目から鼻に抜けるというのは、彼の為にある言葉であった。素直でいたずらはおろか、教師を初めとした大人達の手を焼かせるような事は決してしない。おまけに可愛らしい顔立ちをしている。タキエは大人達から、無条件に可愛がられる存在であった。

 反面同じ年の友人は少なかった。

 なにせ話さない。それだけならば世話を焼きたがる女子も多かったのだが、タキエは学校では常に無表情を通していた。我関せず。それよりもたちの悪い事に、彼はどこか高飛車で、人を見くびった態度を醸し出していた。

 彼の住む大滝村で梶尾の家は裕福であった。着ているものも、みなとは違う。

 いつも糊のきいた白いシャツに真っ白い靴下を履いている。村では珍しい皮靴は、サイズをはかって作られていると噂されていた。また事実そうであった。

 味噌も醤油も家でたんと作る。食べ物で苦労したことはない。

 梶尾の主人はそれが富める者の義務とばかりに、毎年決まって女中や苦学生をやとって世話をしているので、人望も厚い。その女中や学生たちが学校まで送り迎えをする。

 タキエを気にくわないと腹のなかでは思っている悪童達も、手出しはできない。逆に取り巻きになりたがる子は多いのだが、それさえもタキエは無視していた。

「だが、それで家族が困る事はなかったようだ。どちらかといえば、自慢の子息で、妻などはタキエほど可愛らしく、賢い子はいない。常にそう言っていた。ただ、妻も……これは女たちなのだが、ちと、この子を恐れていた節もあった」

 恐れていた。

 蔦氏は、それをまずい物を無理矢理口にした表情で告げた。

 タキエが大きくなるにつれ、彼の一風変わった性癖があらわになってきたのだ。

 まず気がついたのは、彼の母親であった。

 彼女は蔦氏の義母にあたる。それ相応に年を召した女性であるが、昔日の美しい面影は十分に残している。子を四人もなしているとは思えない程、ほっそりとなおやかな腰つきをしており、蔦氏など、「あの母上を見て見合いをすぐさま決めたんだ。娘は母親に似るというではないか。年をとってぶくぶくと豚のように肥えられたんじゃ、何を養っているのか分からない。それじゃあ、たまらないからな」

 それもまた勝手な言い分だと、太一は胸のなかで呟いた。

 そんな事を言うのならば、まずはご自分を鏡でご覧あれ。女性にばかり見かけの美しさを希望するのは、世の男性の悪癖である。そう思うものの、口には出さない。なにせこちらは細君はおろか、恋人さえいない独り者なのだ。

 とにかく、話しを戻そう。

 きっかけは夫婦の寝所であった。

 母君が床にはいると、タキエの気配を感じるというのだ。幼いタキエは自室を持っていたものの、躯が弱くよく熱をだしたりする子なので、寝所だけは夫婦の隣の和室をつかっていた。

 普段はいるかいないか分からない程、気配の薄い子供である。寝ていても夫の鼾の方が五月蝿いくらいだ。だが夫の腕に抱かれる。

 すると途端に、隣の部屋で寝ているはずのタキエの息づかいを感じる。無論気の迷いだと思った。

 しかしそれは一、二回で終わるものではなかった。

 この時タキエは三歳。

 男女の営みに興味を持つ年ではない。お前があまりにもタキエを可愛がるものだから、余計に気になるだけだ。夫はそう言って取り合わない。

「気のせいだ。気のせいなのだ。そう思ってやり過ごしていたそうだ。いやはや、しかし女性はその、そういう点に関しては敏感だ」

 蔦氏は話しながらも興奮してきたのか、血色の良い頬を、さらに紅く染めながらしきりに頷いている。

 しかし太一としては不思議であった。いくらなんでも寝やの件を婿殿に話す姑がいるであろうか。その点を聞くと、

「いやなに、これは直接母君に聞いたことではない。妻が聞いたものだ」

 それというのも、蔦氏がめでたく婚儀を終えた夜。

 いわゆる初床の際に、やはり細君がどこからか観られている気がすると言いだした。

 まだ十七の生娘で、恥ずかしがっての事だろうと蔦氏はかまわず新妻を押し倒した。しかしその最中にやはり蔦氏もどこぞから、じっと自分達に注がれる気配を感じた。明かりを落とした、十畳の部屋にいるのは新婚の我らだけだ。

「それが何度かあった。それが又全て拙宅に弟君のいる日でな」

 蔦氏は面白そうに口ひげをこねくりまわしながら、くつくつと笑った。

 この男、見かけ以上に酔狂だ。まるで面白がっている。太一は半ば呆れながら蔦氏の告白に耳を傾けた。

 何度かそんなことが繰り返され、実は。と妻から打ち明けられたのが先ほどの姑の話しであったのだ。

 だが妻は弟の名誉の為に、それは違うと言いはった。

 あの大人しい子が。あれだけ可愛らしく、聡明な子が。そんな卑劣なことをするはずがない。これはきっと気の迷いなのだと。あくまで弟を守る口ぶりである。

 そう言うものの、この頃ではタキエのいるいないを別にしても、躯を重ねるのを厭うようになっている。これには蔦氏が辟易した。

 とうとう蔦氏は朝餉の席で、妻の目を盗んでそっとタキエに、「昨夜は面白かったかね?」と尋ねた。

 この病弱な弟は姉君が恋しいといっては、週末になればちょくちょく泊まりがけで遊びに来る。

 蔦氏の家は大きい。食費にケチをつける程しみったれてもいない。当時タキエは六年生の夏休みで、かれこれ三日は逗留していた。

 氏は次男坊で両親は長男夫婦と同居している。家は通いの女中を覗けば夫婦二人きりだ。まだ娘気分の抜けない妻にとって、弟は格好の慰めになっている。

 さて、氏としては口にしてみたものの、返事を期待はしていなかった。

 婚儀からこっち、タキエが氏に口を聞いたためしはない。まったくに唖というわけではなく、話す時には何の不自由もなく話すとは、細君からも聞かされている。ただ余程親しい者でなければ、口を開く事はないらしい。

 さて件のタキエであるが、この時はどういう風の吹き回しか、「何でございましょう?」

 口を聞いたのだ。

 氏がタキエのしっかりとした声を聞いたのは初めてかもしれない。少なくとも会話は初めてであった。

 当のタキエは可愛らしく小首を傾げて、空っとぼけた表情をしている。

 蔦氏は自分の容貌が優れない者にありがちではあるが、美しい顔立ちがことのほか好きである。タキエなども、男にしておくのが惜しい程の容貌だ。しかしこの義弟が、小鳥のごとく可憐な姿からは想像もできぬ内側を持っているであろうことを、蔦氏は看破していた。

「何って君、ナニだよ」

 トーストにバタを塗りながら、蔦氏はタキエの方は見ずに話しを続けた。

「君、ああいうのが趣味なの?それとも姉上だけなのかな?君の興味があるのは」

 あまりにもあけすけな蔦氏の口吻(こうふん)に、一瞬タキエは鼻白んだ様子を見せたが、

「そうですねえ……」

 これ又蔦氏の方など見ようともせずに、「兄上はお医者様ですから、ぼくの疑問をはらして下さるかもしれませんね」

 半熟卵の黄身を匙ですくいながら、鷹揚に笑うのだった。

「アレは人間の生殖と赤子の誕生に興味があると言い出した。いいかね?生殖という言葉は、アレがそのまま言った通りだ。はれんちな側面からではなく、人間の営みを知りたいと言ったのだ」

 蔦氏はこの件を妻には内緒にした。それが義弟に頼まれた約束であり、それとひきかえに、自分達夫婦の寝やは覗かないという言質をとった。

 変わりに蔦氏が提供したのは、いささか変わった授業であった。


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