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「ヨウジさんという方を探しています」
「そんな名前は聞かないなあ……。それより君。何かい、君は郵便配達人というわけかい?」
「ええ。まあ、そうでしょうね」
何とも歯切れの悪い回答であったが、タキを興奮させるには十分である。
「そいつは素晴らしいよ、君。ここに郵便配達人が来たのは初めてだ。どうだいひとつ、わたしの為に働いてくれないかね?」
タキはどきどきしながら、イタチの返答を待った。もう長らく野辺に囚われているが、こんなにも劇的な展開は初めてである。ああ、母さまに連絡がとれれば。わたしはここから出ていけるのではないだろうか。タキは希望の宿った瞳で鼬面を凝視した。
「それは……手紙の配達でしょうか?」
イタチはやけに冷静な声だ。それがタキとしては少々癪にさわる。さわるが、ここでイタチの機嫌を損ねるのは本意ではない。
「ああ、そうだとも。だって君は郵便配達人なのだろう?」
タキの問いかけに、イタチはしばらく空など眺めていたが、やおら頷くとこう云った。
「分かりました。では、交換条件といきませんか?」
「交換条件?」
「ええ、そうです。僕は鞄のなかに手紙も筆も持っております。それをあなたにお貸ししましょう。あなたはそれで手紙を書いて、僕に預ける。代わりにあなたは」
そう云うと、イタチは先ほどの手紙を胸元でひらひらと振りながら、「この手紙をヨウジさんに渡してくれさえすれば良い。ね?交換条件ですよ」
「それは……そうだが。君、それはちっと難しいかもしれないよ」
タキはそう呟くと、囚われた己の足を軽く左右に振ってみせた。
「見たまえ。これでは君の代わりは、無理なのだ」
「ああ、それは難儀ですね。しかしお気になさる必要はないのです」
「どういう意味かね?」
「だってヨウジさんは必ずこちらの野辺にいらっしゃいますから。あなたはその方が来ましたら、この手紙を渡してくだされば良いのです」
「ふーむ。そういうものなのかね」
「ええ。そうなのです」
「よしそれならば、わたしにもできるだろう。さ、紙と筆を貸してくれたまえ」
タキはイタチが差し出した紙に、一通り手紙をしたためた。代わりに見ず知らずの者の手紙を受け取る。
ヨウジ殿。
毛筆ではなく、それは太いマジックでぐいぐいと書かれている。封筒もお粗末なものである。どうにも学のある人物ではなさそうだ。
「君、きみ。これは預かっておくが、わたしの手紙は人に預けたりしないでくれたまえ。君が責任をもって、母さまに渡してくれなきゃ困るのだからね」
「承知しておりますとも」
そう云うと、イタチはタキの手紙をさも大事そうに鞄にしまいこんだ。
「僕はこれでおいとまします。まだ仕事がありますので」
来た時同様、頭をひとつ下げると、イタチは立葵の向こう側に姿を消した。小柄な背中は白と桃色の花に隠れ、すぐにも見えなくなってしまった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ナナカマドの葉が色づく秋。
蔦総合病院の院長室に足を踏み入れた源田太一は、室内を物珍しそうに見渡した。
部屋全体はシックな茶系統でまとめられ、壁には裸婦が描かれたエッチング画が等間隔に飾られている。革張りの硬めのソファーは実に心地よい座り心地ではあるが、二時間以上待たされていると、尻ではなく背中がきしきしと痛みだす。
おまけに喉が渇いていた。
目の前のテーブルには、白地に青で繊細な草花が描かれたティーカップが置かれている。香りたかい紅茶は蔦氏の秘書とおぼしき女性が先ほど置いて行ったものだ。
彼女は若干の好奇心と、気の毒そうな視線を長いつけまつげの下に包みこみながら太一を一瞥していった。
太一は常日頃紅茶を愛飲しているが、こんな値のはるカップなど怖くて使えるものではない。それでもおっかなびっくり持ち上げ、口元へ運んだ拍子に扉が勢いよく開いた。
「おや」
入ってきたのは恰幅の良い壮年の男だ。
似合っているとは言い難い口ひげをはやし、白衣をまとっている。蔦氏であろう。
太一は勢いよくカップをソーサーへと戻し、立ち上がった。
蔦氏は、北に位置するここ加我見市では知らぬものがいない大病院の医長だ。人当たりは良いが、抜け目ないという噂を太一は耳にしている。医師よりも経営者として優れていると揶揄されることも多い。
よくも自分のような社会的立場が高いとは言い難い者と会ってくれたものだ。最もそれだって三度目の訪問の成果なのだが。
太一は深く腰をおって一礼をする。
「源田です。本日はお時間を頂戴致しまして恐縮です」
「ああ。君かねアポイントもなしにやって来たという不届き者は」
太一の挨拶など聞く素振りも見せないどころか、五月蝿そうに手をふると窓を背にした院長椅子へどっかりと座りこむ。そうして机の引き出しを開け、子供の食べるような菓子を取り出すと、やおら封をきる。
「わたしのように忙しい者のところにいきなりふらっと訪れるなんて、どういった了見だい。家族のことでなければ目通りも叶わないところだ」
そう言って氏が口にしているのは、チョコレートバーだ。
それを二個三個と口にする。
だがその食べ方はどうにも汚らしい。まるで幼子のような喰い散らかしようだ。そしながら不躾に太一の様子をじろじろと見つめる。
太一は蔦氏の視線をなるだけ目にしないように、視線をそっと自分の脚先に落とした。乾いた泥染みのついたスニーカーは毛足の長い絨毯のうえで、とんでもなく場違いに映る。
一方蔦氏の方は太一など気にもとめずに食べるだけ食べると、今度は煙草に火をつけ紫煙をあげる。
医者の不養生ここに至り。
太一は腹のなかでこっそりと呟いた。
「それでなんだね。義弟のことだって?」
煙草を途中で灰皿に押し付けると、おもむろに聞いてきた。
氏は院長椅子にふんぞりかえったままだ。太一の元へ行き、話しを聞く気などないといった態度である。
「ええ。梶尾タキエさんの件で、二、三お聞きしたいことがありまして。お忙しいとは思いましたが、こちらへお伺いさせて頂いた次第です」
「義弟の件って言ったって、君。もう何十年も前なんだけどね」
梶尾タキエは蔦夫人のすぐ下の弟にあたる。
この貧相な青年が、数十年前に失踪騒ぎを起こした義弟に今更なんの興味があるというのだろう。太一の思惑が想像もつかず蔦氏は眉間に皺をよせた。
蔦氏は改めて太一の細く肉付きの悪い躯を品定めするかのように眺めた。
一見すると温和で真面目そうな顔だちをしているが、なに分かったものではない。人間一皮剝いてみなければ、信頼などできようもない。
だらしなく伸ばした髪を見たまえ。結わえているといっても、とてもまともな社会人とは言い難い。着ているものだって安物だ。
大方梶尾家の醜聞をほじくり返し、何か仕掛けるたくらみでもあるのだろう。
「なにを聞きたいか知らないが、鬼籍にはいった者を調べてどうするつもりかね」
きつい眼差しでめねつける。
蔦氏が太一に会った理由はただひとつ。
この胡散臭い青年が自分以外の一族ーーお嬢様育ちの妻や、世間知らずの梶尾家に乗り込むのを阻む為であった。
太一は立ち上がると、蔦氏の前へと進みでた。
「これを見ていただけるでしょうか」
そう言って卓上に一枚の写真を乗せる。
「なんだね、これは」
蔦氏が胡散臭いものを見る目つきで写真を一瞥する。手にとる素振りはない。
「澤という少年です。これは彼が十七才の時の写真です。澤くんとタキエさんとはこの頃極親しい友人でした。彼に見覚えはありませんか?」
「この子がかね……?」
友人の一言で蔦氏は再度写真に視線を移すものの、すぐさま顔をあげた。
「いや、知らない」と、断言する。
「よくご覧になっていただけないでしょうか」
「ご覧もなにも、君」
蔦氏は大仰に両手を天にむかって広げる。
「アレに友人がいたという話しなんて聞いたこともない。しかもなんだね、この感じでは高校の同級生というわけでもなさそうではないか」
写っている少年は祖末な格好をしている。
「ええ。澤くんは地元の喫茶店で給仕をしていました。タキエさんのご学友ではありません」
「アレがそんな少年と付き合うだろうかね。私には想像もつかない」
「と、申しますと?」
「アレは幼い頃からプライドばかり高い高慢ちきだと聞いている。あの可愛らしい顔だちに良い家柄。学業優秀ときているんだ。そりゃあ高慢にもなろう。しかも醜いものが好かんときている。間違いない。このタイプの子には鼻もひっかけんよ、君。その間違った情報の為に、わたしは昼飯にもありついていないのだが」
「……そうですか」
太一は写真を摘まみ上げる。
写真には薮睨みの。蔦氏いわく、醜い少年が映っている。
彼は一人で公園のお堀の柵にもたれている。
首の伸びたセエタアに、膝のでたずぼん姿は裕福とは言い難い。しかし彼は嬉しそうに目を細め、似合わないポーズをとっている。
彼の背後では一面の桜並木がふっくらとした花をつけている。
のんびりとした、幸福感にあふれるその写真を太一は手にしていた手帳に挟んだ。
「お忙しいところ貴重なお時間を割いていただいて申し訳ありませんでした」
太一が一礼し踵をかえすと、蔦氏は腰を浮かした。
「君、きみ。話しはこれだけかい」
「はい」
「そりゃなかろう」
肉厚の掌でばんと机を叩く。
「ぼかあね、冗談混じりの戯れ言に付き合っている暇などないんだ。どこの誰とも分からん小僧の写真確認で時間をとらされ、あげくのはてにもう結構でございと言われても納得できかねん」
口角泡を飛ばすいきおいで、まくしたてる。
「はい。ですからとても感謝致しております」
「君。そんな上辺だけの謝辞なんざ欲しくて言ってるんじゃない」
「はあ……では何を?」
太一の口調は最初の丁寧さを失い、ぞんざいになりつつある。躯などもう出て行かんばかりに半身をよじって、顔だけ蔦氏にようよう向けている状態だ。
この身の程知らずの若者は自分を馬鹿にしている。そう思うと蔦氏としては面白くない。
「可笑しいじゃないか。なんだってこんなに時間がたってからアレの事件をほじくりかえすんだ。ゴシップネタを拾い集める記者でもあるまいし。君はなんだね、我々一族になにかいちゃもんでもあって、つまらん昔の事件を突き回そうとしているんじゃないかい。わたしが知りたいのはそこのところなんだ」
「ああ、そういう事ですか」
やっと納得したと言わんばかりに頷くと、太一は帰る素振りを解いた。
「わたしの診ています患者が澤くんなんです」
「診ている?君、医者なのかね?」
とてもそうは見えない。第一医師にしては若すぎるし頼りない。二十代の半ばといったところだろう。蔦氏の目は雄弁にそう告げている。それに対して、太一は苦笑いを浮かべると、頭を振った。
「医者ではありません。福祉施設でお手伝いをしています」
太一の言葉使いが丁寧さを取り戻したことで氏は若干機嫌をとり戻し、会話を続けた。
「福祉ねえ……今時福祉施設なんざごまんとある。なんて名のところだ?」
「みなもと泉の里と言います」
「聞かないな」
「大手ではありませんから」
ひっそりと微笑むと、太一は話しを続けた。
「澤くんは泉の里でお世話をしている患者さんです。彼はかれこれ二十年近く眠り続けています」
「二十年もかい?」
驚いたように蔦氏が声をはりあげる。
「ええ。ご家族の意向もありまして、わたし共の施設で面倒をみさせてもらっているんです」
「まあ、普通昏睡状態の人間を、しかも長期間となると自宅では難しいだろう」
「はい」
「そこまでは分かるが、それと梶尾の家がどう絡むというんだ」
「コエです」
「……」
太一の一言に蔦氏の躯が僅かだが強張った。
ーーコエです。
ーー語りかけてくるコエがあるのです。
か細い告白の言葉が蔦氏の脳裏を一瞬横切った。
「眠っているはずの彼の側から声が聞こえてくるんです。無論彼が話しているわけではありません。声の出所はまったく別のものです。最初は何と言っているのかも分からない程のものでした。しかし慣れてきますと、ある一定の名を呼んでいるのが分かりました。声はタキ。タキと語りかけています」
「……それだけで、梶尾タキエだと言うのはちと決めつけでないかね?」
「無論すぐにもこちらのタキエさんだと思ったわけではありません。人名なのか。水の流れる滝なのか。それともまったく別なものなのか。ここしばらく調べ、澤くんが親交のあった人物としてタキエさんの名が上がりました」
「……」
「わたしが知りたいのはゴシップなどではありません。わたしはタキエさんが常人には聞こえないコエを聞いていたのではなかったかを確認したいだけなんです」
「……はっ」
蔦氏は細い目をカッと見開くと、短い息をもらした。臓腑からこみ上げてくるかのような吐息であった。
「これはまた。妙ちきりんなことを言う」
「そうでしょうか」
探るような蔦氏の視線をもろともせずに、太一は居住まいをただすと、その視線を真っ向から受け止めた。
そこにはつい先ほどまで氏が感じていた頼りない青年の影はない。蔦氏と同等。もしくは凌ぐほどの威圧感さえかもしだしている。
「患者のプライベートを貴方にお話できる範囲は限られております。けれど何もお伝えしなければ埒があきませんし、貴方は判断材料がなければ協力してくれる御仁とも思えません。ですからここまでお話ししました。澤くんは、」
そこで太一は一旦言葉をきると、再度蔦氏を真正面から見定めた。
「聞こえるはずのないコエを拾う人でした」
「聞く。のではなく。拾うのかね?」
前のめりになって蔦氏が尋ねる。
「ええ。そうです。幼少期から彼はのべつまくなく他人には聞こえないコエを拾い続けていました。その為にかなり誤解を受け辛い思いもしたそうです」
太一は手帳を開くと、もう一度白黒の写真を取り出した。
「……見せてもらえるかな」
「どうぞ」
蔦氏が写真を凝視する。その少年に何らかのメッセージが隠されていないかと、読み解こうといわんばかりに視線は行きつ戻りつする。
「残念だが。矢張り見覚えはない」
写真を卓上にそっと置くと蔦氏はそう呟いた。
その動作は先ほどまでとは一転、細やかであった。彼の優れた医師としての、繊細な指先の動きを連想させるものだった。
「……そうですか」
「彼の名は、なんだったかね?すまんがもう一度教えてくれ」
「澤羊司です。彼はタキエさんの自死のあと、自らも姿をけしました。発見された時は既に昏睡状態で、それ以降眠り続けているんです」