始まる
化野
地名。もしくはひとの世の儚さの象徴
男はそこにいた。
もうせんから、そこにいたのだ。
着物を身にまとった若い男だ。
男は自分の名がなんといったのかもさえ、定かでない。
春になると現れる小鬼等が「タキ、タキ」と男を呼ぶ。
そうすると。
ああ。
おれはタキだったのかと。ぼんやりと思う。
男の周りには美しい野辺の花々が咲き誇る。
男は花に囲まれて座っている。ここからは出て行けない。
両の足首には鎖が巻き付き、男の自由を奪っている。
男はもうずっとこうして、ここに居る。
鎖をずらすと、白い骨がある。ああ。肉が腐って落ちたのだな、と思う。
痛みは感じない。
煩わしさもない。
何もない。
ただ、ここから逃れられないという不自由さは感じている。
それだけだ。
何も変わりはしない。
この野辺にも、季節はめぐってくる。
男は自分が野辺のどの辺りにいるのか分からない。
辺りを見回しても、はるかに広がる草原ばかりだ。微かに遠く、木立のようなぼやぼやとした青黒い固まりがあるのは知っている。そこからたまに出て来る影がある。影は人なのか。動物なのか。はっきりとしない。しかし男は影を見つけると決まって叫ぶ。
「おーい、おーい」と叫ぶのだが、影が答えたためしはない。
三色菫の咲く春に、この年一匹目の小鬼をみつけた。
小鬼はたいそう醜い。
飛び出さんばかりのぎょろ目で、胸も足も毛だらけだ。
小鬼はタキの右足から産まれてくる。
親指と人差し指の股の間から、醜悪な顔がひねり出てくる。その様をタキは身じろぎもせずに見つめていた。産まれるのは苦しいのか、小鬼は唸りながら誕生する。
不思議なことに。小鬼は現れた時から、既に成人した躯をもっている。
あるいは鬼の仲間というのは、そういうものなのかもしれない。それとも人間の足指の股から産まれるからだろうか。どちらにしても、タキにはあまり興味がない。
「いち」
一匹目なので、そう呼びかけた。
いちは、「タキ、タキ。囚われ人よ、おお哀れ」歌うように云うと、菫の葉陰にさっと走り去って行った。
一匹産まれると、後は早い。
二、三、四、五、六。
そこまで数えて止めた。
小鬼はどれもこれも似通っている。
みながタキの足指の股から、ぽろぽろと生まれ落ちる。左足の時もある。そんな時は、大きな乳房をつけた女鬼だと決まっている。女鬼は、男の小鬼よりもやや大きい。肩も足も厳つくて、立派な体格だ。
今年の女鬼にタキは「まる」と名付けた。
あ。
うん。
そえ。
まる。
いつき。
女鬼の名は毎年この順番でつけている。今年は「まる」だ。なぜか女鬼は春毎に一匹しか産まれない。まるが生まれ落ちると、小鬼等はこぞって逃げ惑う。そうしながらも、立ち止まり。菫の葉陰からまるを盗み見ていたりする。
まるはタキに向かって短い毛の生えた尻を突き出すと、やおら屁をかけた。
くさい。くさい。
こやつの内蔵は腐っているのではないかと思うほど臭い。タキは顔をしかめて、片手で鼻と口を覆った。
「ほっほっほーー」
高らかに嗤い、まるは走り去る。狩りをする為だ。同じような光景をタキの脳髄は反芻する。これを知っている。見たおぼえがある。見慣れたものへの安堵感を、しばしタキは噛み締める。
この世界の寄るべもない身にとって。覚えのある記憶はそれだけで安心できる。
まるは今までの女鬼のなかでも、ことのほか不細工だ。
ここで美しいものは、花々と自分だけだ。
タキは美しいものが好きだ。タキの家族は美しい女ばかりであった。祖母も母も姉も妹たちも。みな一様に美しく、タキを愛し、甘やかした。タキは美しい家族にかしずかれて育った。
父はタキの思い出のなかで、その形をほとんどなしていない。留守がちの忙しい男であった。
幼いタキが目覚めると、父はもういない。朝餉を共にした記憶もうすい。
夜半に厠に起きる。暗い玄関の隅に幾分くたびれた革靴がそろえて置かれている。それで初めて。ああ、父がいるのだなと分かるくらいだ。タキにとって、父は重要な人物ではない。祖母と母と姉と妹たちがいれば。彼には十分なのだった。
奇妙な者がやって来たのは、まるが誕生してから七日後であった。
その頃タキの周りは始終やかましかった。
小鬼等は血相を変えて、そこら中を、それはもう弾丸のように走り回るのだ。
なかにはちゃっかりした者がいる。奴らはタキの着物の袂に隠れたりする。それをまるが血眼になって探しまわる。
まるは大層鼻が利く。不格好な獅子鼻をふごふごと動かしながら、タキの周辺を嗅ぎまわる。
その度に湿った臭い息がかかる。
ぬらりとした鼻水をつけられる。
タキにとっては非常に迷惑な話しである。袂を振り、小鬼等を振り落としてやると、やっとまるが離れていく。
キーキーと喚き、抗議する小鬼等など知るものか。
手慰みに、やおら逃げ惑う小鬼等の邪魔をしてやると、それはもう気狂いのように怒る。その様が可笑しくて、タキは笑う。
その時だった。
彼がやって来た。
野辺に客人がやって来たためしは無い。通行人さえない。遠く影が横切るばかりだった。
タキは彼を前にして、肝が冷えるくらいに驚いた。
奇妙な者は子供であった。元々は白だったのだろうが、灰色に変色したランニングシャツを着た薄汚れた子供だ。
子供はいがぐり頭で、やぶにらみだ。その瞳をまっすぐにタキに向けて立っている。
相手はたかが子供ではないか。タキは動揺した自分に腹がたった。相手の強い視線も気に喰わない。
半ズボンから伸びる足はがに股で、実にみっともない。どうしてここには、こうも醜い者ばかりが集まるのだろうか。タキは溜め息をもらした。
「タキ、タキ。声はひびいてくるかい?」
子供は揶揄するような調子で、いきなりタキの名を呼んだ。
「声?」
子供の声なら聞こえている。当然だ。それより、この子供は自分を知っているのだろうか。タキは小首を傾げた。見覚えなどない。村の悪童の一人であろうか。しかし声とは。奇妙なことを云うではないか。
「わたしはお前を知らないが、何の用事かね?」
すると子供は口の端を、いやな感じで歪めて嗤った。
「ふん。知らないとは云わせない。声が聞こえていないとすれば、お前はまだできあがっていないだけだ」
子供は陶製の壷を抱えている。子供が持てるくらいだ。さほど大きいわけではない。
壷には何やら液体がはいっているようで、子供が躯を揺らす度に、水音がする。
「タキ、タキ。役立たずの穀潰しめっ」
そう云うと、子供はやおら壷の中身を野辺にぶちまけた。
あんな小さな壷に、よくもこれだけ入っているものだと感心するくらいの水が流れ出る。タキは慌てて立ち上がろうとして、足をもつれさせた。
鎖でつながれている足は、萎えてしまっているのか、立つのもおぼつかない。鎖の先は野辺の土のなかに埋まっており、重たい音を響かせた。
ああ、そういえば自分の足首は骨だけになっているのだった。タキは足をさすりながら、子供を見上げた。着物は壷の中身を浴びて、ぐっしょりと濡れている。
「お前は何だって、こんな酷いことをするのだね?」
しかし子供は答えるつもりはないらしい。
口の端は歪んでいたが、何やら物悲しい目つきでタキを見下ろしている。
そうしていると、やっぱり自分はこの子供を知っているらしい。そんな心持ちになってきた。
名前を教えてくれたら、きっと思い出せるだろう。タキは口を開こうとしたが、子供は踵を返し、タキの行けない野辺の向こう側へと歩いて行く。
貧相な背中が、青黒い木立の方へ消えていくのを、タキはぼんやりしながら見送った。
運悪く水のかかった小鬼等は、キーキーと喚きながら溶けていく。
タキは着物の裾をつまんで、臭いをかいでみた。
海水であった。
花も小鬼も。
壷の水がかかったところは、どろどろに溶けていく。
タキは己も寒気を感じて、ごろりと花の上に横たわった。
子供が投げ捨てていった壷が、そこにある。タキは壷に背を向けて、そのまま眠りについた。
目が覚めると、着物はすっかり乾いている。寒気もどこぞに、ふっとんだらしい。
壷がある。
では、あれは夢ではなかったらしい。
小鬼等が壷の上やら中やらを、せわしなく出入りしている。
日は高い。
三色菫の野辺に、夜はあまりこない。
タキは鎖をじゃらじゃらいわせ、壷まで手を伸ばしてみた。届く。
今までも何度かこうして鎖をつけたまま、這ってみた。久しぶりである。
壷の中を覗くと、なかに四匹の小鬼がいる。急に動かされて驚いたのだろう。タキに向かって抗議の声をあげている。壷からは、微かに潮の香りがする。
タキは鼻をうごめかした。
壷から漂う海の臭いを嗅ぐ。
今となっては、あの子供ともっと話しをしてみれば良かったと、後悔の念さえ浮かんでくる。子供は確かに礼儀知らずであった。あったがしかし、ここへ人がやって来たためしなどない。惜しい事をしてしまった。
自分はこうして小鬼め等に囲まれて、惚けたようにただ一日座ったままだ。きっと段々馬鹿になってきているのかもしれぬ。
その考えは、タキをせつなくした。
もっと幼い。それこそあの子供くらいの時分は、大層教師から目をかけられていた。算術などはことのほか得意で、いつも黒板の問題を解くのはタキであった。
将来の夢は、教師か牧師であった。
故郷は海辺の集落であった。松林の裏手に教会がある。タキはそこのステンドグラスと、牧師の奏でるパイプオルガンを愛していた。
おお、そうとも!日光が差し込むと、教会の床におちる赤やら黄色やら水色の美しいかたち。家でもこのようにできないかと、廊下の菱形の窓に、色セロファンを貼りつけたものだ。
ーーそれをわたしは、庭先からじっと見つめていたのだった。
おさげとおかっぱ頭の双子の妹が、タキの手に次々にセロファンを渡していく。廊下に散らばった、使い残しの赤いセロファンの破片。
ーーそれをわたしはそっと拾うと、ずぼんのポケットに滑り込ませたものだ。
久しぶりに思いだした幼い日の情景。
故郷の。生家の光景と共に脳裏をよぎる声がある。
あれはわたしの思い出の……
「痛いっ」
タキははっとして壷を落とした。
厚みのある壷は、割れることなく野辺を転がっていく。
タキの指には、小鬼が噛み付いている。
美しい思い出を邪魔されて、腹がたった。
タキは小鬼を力任せに振り払うと、地面に叩きつけた。そのまま右足で踏みつける。小鬼は口から泡をふいて、逃れようと躯をよじるが、いかんせんタキに敵うわけもない。
タキは二度、三度と足で踏みにじる。小鬼はやがて小さく動かなくなった。足の裏には、べっとりとした藍色の染みがついている。小鬼の汁だ。
タキはそれを辺一面の、菫だのすかんぽの葉だのに、拭った。壷はどこに転がっていったのか、見当たらない。潮の香りも消えてしまった。
同胞が、潰された死体を覗き込む。
非難の目が、一斉にタキに向けられる。なに。こんな連中かまうものか。
タキは小鬼等からなるだけ離れて座った。
立葵が咲く頃になると、ますます昼ばかりになる。夜は滅多に訪れず、ぐんぐん伸びる立葵に、タキも隠れてしまうほどだ。
そうなると、女鬼まるの狩りは本格的になってくる。
まるに狙いをつけられた小鬼は、それはもう逃げる、逃げる、にげる。血相を変えて、逃げ惑う。しかし最後には決まって、まるに捕われる。
まるに捕まると、小鬼は「おーん、おーん」と高く泣く。手足をばたつかせ、まるで赤子のように泣きわめく。まるは頓着もせずに、己のねぐらに連れ帰る。
まるのねぐらは、立葵の根元に掘った穴蔵だ。そこで一日かけて小鬼を犯す。
ねぐらからは、泣きわめく小鬼の声が漏れ聞こえる。しかしそれも終いには、苦しいのか悦んでいるのか分からぬ響きになる。
まるのねぐらに他の小鬼がそっと忍び寄り、交わりを覗こうとしている。
まるは時々酔狂をおこすと、タキの目の前で小鬼を犯す。
小鬼の上に跨がり、毛の生えた尻をさかんに動かしながら、タキを見る。どうだ、どうだとタキを見る。そういう時のまるの瞳は残忍で、恐ろしい。
つりあがった口の端でまるは嗤う。
一日かけて精を搾り取られた小鬼は、最後にはまるに喰われる。実に惨めな最後である。夏の間中小鬼を犯しては食べる為、まるはどんどん大きく逞しくなる。
もはや生き残った小鬼等は震え上がるばかりである。
タキは立葵の陰から、まると小鬼等との恋の季節を見ては不快になる。これも恋と呼べるのかと実にまったく不快に思う。恋と呼べる美しさは、どこにもない。
タキは自分の美しい家族を思い出す。
祖母も母も姉も妹たちも、みな美しい。特に母の凛とした美しさは格別であった。
着物の上に白いエプロンをしている姿が多かった。タキが学校から帰ると、母はカステイラなどをよくきってくれた。白いお皿にのって、白い手で運ばれてくるカステイラは、タキにとって特別なものに映った。牛乳のたんとはいった紅茶と共に、それをいただくのだ。ああ、カステイラを食べてみたい。
そう願った時である。
立葵が風に揺れた。
太く長くおがった幹が左右に揺れて、そこから獣の面がぬっと突き出された。
面は丸い顔に丸い耳をはやしている。目の周りが黒く、愛嬌のある造作にもかかわらず、どこか凶悪な面構えである。
面の主は背丈からいって子供のようである。咄嗟にタキは、菫の時期にやって来た子供なのかと思った。しかし今度の子供は、足はずっと奇麗にまっすぐに伸びている。
子供はアイロンこそあてられていないが、洗濯された襟付きシャツを着ている。
顔は分からぬ。
獣の口元はにやりといった感じで上を向いている。
面の子供はまずタキを見つめ、次にタキの足下のまるに視線を移した。まるは丁度小鬼を捕らえたところだ。毛だらけの足をむんずと捕まえ、引きずっている。
その様子に子供から鼻白んだ気配が伝わってきた。
「あれは何ですか?」
「あれは、鬼だよ。ここいら辺にはたんといる。間違って踏みつぶすと、いやな汁をだす」
そこでタキは子供の足下をちらりと見た。
ズック靴を履いている。男の子の靴らしく汚れている。靴ひもが、右側だけ縦結びになっている。
途端にタキは、言いようのない気持ちがわき上がるのに戸惑った。
タキは裸足だ。裸足にぞろりとした着物を着ている。
ここで靴など必要になったことなどない。欲しいと望んだこともない。
しかし今この瞬間、タキは恐ろしい程の妄執にかられた。じっと彼の視線は靴に注がれる。子供はそんなタキには頓着せずに、ずんずん歩いて行くまるを、恐ろしそうに見送っている。
「随分と怖い顔をした鬼ですね」
まるの姿が花影に見えなくなると、そっと呟いた。
「それにあれは女鬼でしょうか。やけに体格がいいですね」
「…うむ。あれはもうすぐ子を孕む」
まるは毎日熱心に、小鬼等を犯している。
子種が欲しいのだ。女鬼はいつだってそうだ。それしか考えていないのかもしれぬ。鬼の頭では、それも仕方なかろうと、タキは常々思っている。
「ところで、君は誰なのだろう?」
懸命にズック靴から視線を外し、タキは子供に問うてみた。
以前の子供よりずっと感じが良い。おまけにあの時の後悔があるものだから、少しばかり積極的になっている。
「僕は、イタチです」
面の子供は鼬と名乗ると、頭をひとつ下げた。
子供の頭のてっぺんの髪の毛が、ふわふわと風にそよぐ。
なるほど。云われてみれば面の獣は鼬である。
子供は顔を上げると、真っ黒い肩掛け鞄から、一通の手紙を取り出した。