全ての子供達よ健やかなれ
人間に残された最後の依り代。対象は神であったり、仏であったり、先祖であったり。各人バラバラだが、人間を超越した運命を司るものへの祈りは、主に自分以外の者に対するものほど強く切実なものになる。
そんな意味で私は祈る。
〝全ての子供達よ健やかなれ〟 と……
『血が重い』
開腹手術に伴う血を浴び、私の顔面からは逆に血の気が引いて行く。
両手に絡みつく血は素早い施術中にもドンドン固まり、脂と混ざり合って手を縛る。この妊婦は最前の注意にも関わらず体重を増やし、皮下脂肪の厚みが帝王切開の難易度を上げてしまった。
『全く、だからあれほど注意したのに』
そんな文句を言いたい相手は全身麻酔によって完全に麻痺しており、効きすぎた薬のせいで小刻みに震えている。この哀れな、か弱くそれでいて強い女に、
『頑張れ! お母ちゃん、頑張れ!』
私は痛む頭を振り絞って、速やかな処置を断行した。頭の片隅に浴びた血潮、生命への恐怖を感じながら。
*****
「お疲れ様でした」
疲れ切って椅子に仰け反ったまま動けないでいる私を、心配そうな顔の夜勤ナースが覗き込んでいる。
私が末期のガンであることは病棟全ての職員には伝えてある。一部の患者や家族にも伝えてあるから心配するのも無理は無いが、少ししんどそうにしているだけで大仰に心配されるのだ。その度に、
『あゝ、言わなきゃ良かった……』
と少し憂鬱になりながら、
「お疲れさん」
微笑を浮かべて彼女を送り出す。
夜勤の交代時間はとうに過ぎている。それでも母子を気遣う彼女は最後まで残ってくれた。妊娠中毒症を起こした件の手術をなんとか母子共に安全なレベルに導く事が出来たのも彼女の働きが大きい。
ベテランナースの後姿に、彼女を待つ家族を見て、その生命力を心の中で讃える。
『全ての子供達よ健やかなれ!』
“おかげさま”と思うからこそ、願わずにいられない。
*****
頼む頼む頼む!
一心に祈りを捧げる男は、しかし、絶望的な状況に焦燥感を募らせていた。
無理は承知だが、もうこの状況では祈るより他は無い。恥も外聞もなく冷たい床に跪く男は全身の脂汗に構わず、血の気が失せるほど手を組んで、一心不乱に祈りを捧げていた。
〝ポーン!〟
病室のナースコールが鳴った。
「田中さん、手術が終わりました。奥様が部屋に戻られます」
急遽取った部屋にストレッチャーが運び込まれてくる。妻の歯は痙攣にガチガチと震え、釣られた点滴がせわしなく揺れていた。
弛緩した筋肉が妻から表情を奪っている。
「大丈夫ですか!」
俺が聞いても、怖い顔をしたナース達は取り合わず、
「田中さん! そっちの端を持って!」
命令と共にシーツの端を掴まされると〝一、二、さんっ!〟と部屋のベッドに移乗させられた。
「奥さんは無事です、お子さんも無事ですよ。後でお呼びしますから、お部屋にいてあげて下さい」
一転、母親の様に優しく告げるナースに、
「はいっ!」
思わず全力で答えた。
その様が滑稽に映ったのか、ニッコリと笑顔を残してナースは去って行った。
*****
椅子に座ったまま少し寝てしまったらしい。気が付いて時計を見ると、昼を過ぎてしまっていた。どうやら外来は杉田先生がピンチヒッターで来てくれているらしく、昼休みを迎えた隣の部屋から彼の落ち着いた声が耳に心地よく聞こえてくる。
誰かが掛けてくれたブランケットを横に置くと、机に置かれたリモコンのスイッチを押した。ちょうどお昼の番組を終えた隙間に、フラッシュニュースが流れた。
田舎町で起きた幼い子供の殺人事件、軍事大国が住宅街に向けて爆撃の一報、更に先進国の都市部で起きたテロ事件ーーそのすぐ後に、明るい音楽のアップテンポなCMが流れて、頭痛を覚えた私はテレビを消した。
弱者を叩くのはかつての弱者。負の連鎖、教育のもたらす恐怖、そんなどん詰まりの連想が体内を蝕み、私の中の癌細胞を活気づけたのだろうか? 胸の奥が冷たく痛んで、負の拍動が全身に転移した。
自分の中の生と死、指の届く範囲の生と死、そしてテレビで眺める生と死、全てが混じり合って、疲れた頭をグルグル駆け巡る。
こんな時、私は一つの事だけを念じ続ける。
『全ての子供達よ健やかなれ』
かつての子供等よ、全ての者よ健やかなれ! 健やかに分け合え。
我が身の病巣よ、母体たる大地を与えよう。全ての物を分かち合おう。それは夢想家の戯言ではない。現実主義者こそが、現実という夢想に縋る弱い子供だ。
だからお前も抱きかかえてあげる。
だから、全ての子供達よ健やかなれ!
一身に祈る。その思念がいずれ集まり形を成す様にとの願いをこめて。