7.夕暮れゼリーはオレンジ味・下巻
「志賀さん、またそれ借りるのー?」
カウンターに頬杖をつきながら芹沢くんはそう言った。端正な顔立ちをしているその表情は少し不満げだ。自分と彼の分の貸し出し手続きをしつつ、私は「別にいいでしょ」と返す。
「何回読んでも面白いんだし、好きなんだもん」
「ふーん……それって、お兄ちゃんと妹が星を見に行く話だっけ」
そんなのどこが面白いのかなぁ、と珍しく芹沢くんは私と意見を対立させる。別に自分の好みを他人に押しつける趣味はないけれど、ここで食い下がってしまえば図書委員の名が廃るような気がした。
私は貸し出し手続きを終えた本を彼に差し出し、自分が借りる予定の本ーー「真夏の星」を開く。
「確かに、ストーリーに面白みはないかもしれないけど、これを読むと落ち着くっていうか。それに妹の名前、私と一緒だし」
「え?」
言うや否や、芹沢くんは私の手元から本をひったくり、ページを広げた。冒頭の台詞を黙読して、顔を上げる。
「……志賀、結衣?」
「そうだけど……私、芹沢くんに名前何回も言ってるよ」
機嫌を損ねたことをアピールするように私はそっぽを向く。案の定、芹沢くんが慌てる様子が空気から伝わってきて、ちょっと面白くなる。
そういえば、私は彼の下の名前を知らない。
向き直ってから口を開く。
「許してあげるから芹沢くんの下の名前、教えて」
「え、俺の?」
「他にどの芹沢くんがいるの」
ほら早く、と急かす。彼は慌てて近くにあったメモ用紙と鉛筆を手に取り、書き慣れた様子で文字を綴った。「えーっと」
「あんまり好きじゃないんだけど……」
そうして差し出された紙には、いかにも男子っぽい雑な字でこう書いてあった。
芹沢恵。
「めぐみ?」
「違う」
「めぐむ」
「違います」
うーむ……手強いな。文字に目を走らせながら唸る。本はたくさん読んできたつもりなので多少なりとも漢字には自信があったのだが、うまく当たらせることが出来ない。
お手上げですとばかりに芹沢くんを見る。彼は小さく溜め息を吐いてから呟いた。
「けい、だよ。恵」
「おぉ……なるほど」
「誰も一発で読めないんだよな。しかも女みたいな漢字だし」
だから好きじゃない、と芹沢くんは下を向いた。
改めて紙を見ながら考える。確かにこれをすぐに読める人はいないだろう。せめて「恵一」とかそういう類のものだったなら、話は別だが。
それでもこの漢字に込められた思いのようなものは、何となく想像出来た。
「私はいいと思うよ」
「……そう?」
「だって『恵』っていかにも縁起良さそうな漢字だよ。それを丸々独り占め出来る名前なんだから」
羨ましいな、って私が笑ったら芹沢くんも小さく笑った。少し照れ臭そうに私から目を逸らす。
「志賀さんがそう言うなら、俺は将来大金持ちだな」
「何それ」
「だって縁起良いんだろ? そしたらデッカイ家建てて……自分専用の図書館とか作ったりして」
「え!? ちょ、ズルイ!」
「じゃあ志賀さんも遊びに来ていいよー。あ、貢物忘れずに」
「それもう王様じゃない……」
「お、バレたか」
悪戯がバレた子供のように芹沢くんは笑う。つられて、私も吹き出してしまう。
本当は図書館に遊びに行くことより、あなたとずっと一緒にいたいよーーなんて、言えるはずもなかった。口にする勇気もなかったし、何より今の関係を壊してしまうのが怖かった。しかし、それを後悔したのは彼の具合が悪くなって、ある日フッと私の目の前から姿を消してしまったあとになってからで。
会えなくても、ずっとずっとあなただけを想っていました。
たとえそれがもう、届かない感情だとしても私は良かった。
でもある人がーー大切な友人が、それはダメだと私の目を覚まさせてくれました。
彼もまた、私のように生命のない何かに恋をする人だったのです。
そんな優しい彼のおかげで、今、私はーー。
□■□■□
「ちょっと遥、ちゃんと探してるの」
「探してるッつーの! お前こそちゃんと探せ!」
「なんで俺までこんなこと……」
「だって伊波、暇そうだったから」
僕がそう言うと伊波はガックリ肩を落とした。その横では遥が屈んだり、立ち上がったりという忙しない動作を繰り返している。
現在、図書室にある本の点検を行っているのだが、新しく購入した新刊が入る隙間を持つ本棚がないのだ。不思議なことに一冊だけ余ってしまい、僕はこうして二人をほぼ無理矢理招集したのち、その隙間を探してもらっている。
「んー……ないよ、ナツ」
「そんなはずないんだけど」
「つーか、無理に入れる必要なくないか? いざとなればカウンターにでも置いておけばいいじゃねぇか、一冊だけなんだし。何かこう『図書委員推薦』みたいな感じで」
「…………あ」
なるほど、その考えはなかった。こういうときに発揮される遥の能力には、たまに目を見張るものがある。
早速僕は伊波を引き連れてカウンターへと向かう。無駄な時間を費やしたとばかりに溜め息を吐いた遥も、あとに続こうとしたのだが、
「しかし、一冊だけ余るなんて変な話もあるもんだな。本当にうちの図書室にあった本なのか、その『真夏の星』ってやつは」
確かに独り言だったはずの言葉。しかし次の瞬間、微かに耳を通り過ぎた声は、
ーーオススメの本だよ
まるで、相槌のような返答で。
遥は一瞬固まったのち、ゆっくりと背後を振り返る。当然のごとくそこには誰もいない。それが嫌に現実味を帯びていた。
思わず笑顔が引きつる。油の切れたロボットのような動きでカウンターの方を見た。
「……な、なぁ颯介」
「なに」
「い、いい今何か言ったか」
「……別に何も言ってな」
「言ったよな!? 頼むから言ったと言ってくれ!!」
「いきなり何なの……」
僕が遥を見ると青ざめた表情で彼は「だって……今確かに、男と女みたいな声が重なって聞こえて……!!」と、ブツブツ言い始める。
それを聞いた瞬間、その男と女の正体に何となく想像がついた僕だが、あえて何も言わずにただ静かに笑った。当然のごとく遥は「な、何で笑うんだよ!」と顔を真っ赤にし、伊波は「楽しそうだね、何の話?」と会話に入ってくる。
喋る二人の向こうにある、後方の本棚を見る。
……悪戯も、ほどほどにしてよね。
僕は心の中でそう呟く。クスクスという笑い声と、灰色のカーディガンにブカブカのベージュセーターが一瞬だけ見えたが、すぐに消えてしまった。
「ありがとう、ばいばい」その一言だけを残して。
窓の外に広がる青空は澄み渡っていて、今日も綺麗な夕暮れが見えるだろう、と僕は思った。
「生命のない君に恋をした」読んでくださってありがとうございました、作者の真野と申します。
当作品はちょっとミステリアスな青春と恋を目指しました。読み終わったあと、もう一度題名を見て「あぁこういうことなんだ」と思っていただけたら嬉しいです。
長くなりましたが、ここまでの閲覧ありがとうございました!