6.真夏の星
何だか懐かしいと思った。
久しぶりに図書室へ向かう道を駆け抜けていたら、いろんなことが頭に浮かんでは消えて、不思議な感覚に陥る。
たとえば、今までは辿り着くまでに遥が追いかけてきたこととか。
たとえば、入った瞬間に見かけた背骨の折れそうな志賀さんとか。
ちょっと前の出来事が脳を掠める。まだこんなにも自分は覚えていた。忘れられるはずなんて、なかったのかもしれない。
廊下の角を曲がる。その先の階段を下れば図書室はすぐそこだ。しかし、そんな場面で誰かとぶつかる。僕は一歩後退して口を開いた。
「すみません、急いでて」
「あ、いやこっちもごめん……って、ナツじゃんか」
顔を上げると伊波がいた。この前話をして以来、会っていなかったので僕は少し気まずくなったが、前回同様向こうから話しかけてきた。
「ハルから聞いた、ナツ図書室行ってないらしいな。大丈夫か? どっか具合悪いのか?」
「……いや、大丈夫。今から行くところだし」
どうやら僕が図書室に行かないだけで心配する友人が少なくとも二名はいるらしい。改めて自分がどう思われているかを再確認出来る。
僕がそう返すと伊波は安心したように微笑んだ。「そう」
「なら良かった。実はちょっと不安だったんだよ。ほら、俺が変なオカルト話なんてしたから、ナツが気にしてんのかと思って」
その解釈はあながち間違いでもないけど、と心の中で呟く。
しかし次の瞬間、僕はまた伊波に驚かされる。
「ごめんな、ただの七不思議みたいなものだからさ。図書室にいる男子生徒の地縛霊」
……?
頭が真っ白になった。同時に絶句もしたが、ほぼ無理矢理に自分の脳を叩き起こす。
どういうことだ。
図書室にいる幽霊は、女子生徒の志賀さんじゃないーー?
「……男、子」
「え、うん。そうだけど」
首を傾げる伊波を前に僕は必死に状況を整理しようとする。ちょっと待て、じゃあ志賀さんは幽霊じゃないのか? いや、でも前回問い詰めたとき、僕がそのことを言っても否定はしなかったはずだ。それは自分が幽霊であることを肯定していることと同じで、なら彼女はどうしてそんなことを言っーーーー
「…………あ」
刹那、すべてのピースがうまくパズルにはまった。
そして同時にあの本のことを思い出す。
「伊波、地縛霊って何か理由があってそこにいるんだよね」
「まぁ一般的にはそうだけど……いきなりどしたん?」
「分かった、ありがとう」
伊波への礼もそこそこに僕は階段を駆け下りる。背後から「よく分かんないけど頑張れよー」という伊波の声がしたので、ちょっとだけその言葉に勇気をもらった。
今の会話で分かったことが三つある。
ひとつは、皆に知られていないだけで志賀さんもまた図書室の地縛霊であるということ。
もうひとつは、なぜ彼女がそんな風になってしまったのか。
そして最後のひとつはーー。
図書室の扉を開けると、いつもの席に志賀さんはいた。僕の方も見て目を丸くしている。そりゃそうだ、あんなに一方的な言葉をぶつけてしまったあとなんだから。そしてそんな彼女の眼下にはページを広げられた本が。僕がいなかった間も、志賀さんはこうして探していたのだろうか。
たったひとりで「大切な思い出の本」を。
そう思うと胸が苦しくなり、僕は彼女に歩み寄った。
「……志賀さん、この前はごめん」
思ったよりスンナリと口から出てきた言葉。志賀さんは少し驚いた表情を露わにしたあと、ハッとしたように「い、いいよ。私の方こそごめんね」と返す。
でも僕にはもうひとつ、謝らなければならないことがある。それは、さっき分かったことの最後のひとつ。
「あと、もうひとつ謝らせて」
「……?」
「僕、分かったんだ」
ーー志賀さんの、好きな人。
言い終えると志賀さんは目を見張り、やがて優しい微笑みを口元に浮かべた。まるで、すべてを悟ったように。
彼女が読んでいたらしい本を閉じたことを合図に、僕は言葉を紡ぎ出す。
それは、この図書室で起きた、小さな恋の物語。
まだ人間だった志賀さんはそこにいた、死ぬ前は養護学級に通っていた、本当は地縛霊の男子生徒に出会った。
「その男の子が志賀さんの好きな人……違う?」
「ううん、当たり」
そう言って少し恥ずかしそうにはにかむ姿は、まさに乙女そのものだった。
「きっとその男の子は自分が死んだことに納得がいかなかったりとか、そういう理由で地縛霊になった。でもそこに志賀さんが現れて、二人は仲良くなった」
しかし、根本的な部分が違う二人が結ばれることはなかった。
「でも男の子は志賀さんの前から、消えたりか何かした。それで彼の本当の姿を知って、もう会えないことを悟って悲しくなった志賀さんは」
彼のあとを追うように、自分も死んで、彼と同じ幽霊になろうとした。
結果、二人が出会ったこの図書室で彼女もまた、地縛霊になってしまった。
僕はそこで口を噤む。志賀さんは僕を優しく見つめ返しながら、少しだけ眉を下げた。「……全部当たりだよ」
「ここに来れば、彼にーー芹沢くんっていうんだけど、その子に会える気がしたの。でもね、いくら待っても現れないんだ」
悲しそうに微笑む。きっと志賀さんも薄々気づいてはいるのだろう。
本来、地縛霊は自分が命を落とした場所で悪さをしたりすると伊波が言っていた。しかし、その芹沢くんはそんなことをする必要なんてなかったのだ。だって、志賀さんがいてくれたから。
志賀さんとの楽しかった日々のおかげで、芹沢くんは自分が死んだことを納得し、ある日成仏した。
だからこの図書室で、志賀さんがいくら待とうと芹沢くんはやって来ない。
もう二度と、彼に会うことはない。
「だからね、せめて自分も成仏する前に、芹沢くんと初めて会ったときのーー仲良くなれたきっかけの本をどうしても読みたかったの」
それが彼女の言う「大切な思い出の本」。
眉を下げて志賀さんを見つめる僕から目を逸らし、彼女は窓の外へ目線を向けると「でもね」と続けた。
「……もう、いいの」
外に広がる夕焼けはいつもみたいに綺麗だ。
僕は伊波みたいにオカルト話に詳しくないから、地縛霊が自ら「自分がここに居座る理由」のようなものを手放してしまったらどうなるのか、今の今まで分からなかったが、瞬間的に理解する。
「もう、いいんだ。諦めるよ」
きっと志賀さんはずっと成仏出来ないまま、ここに居続けるだろう。
来るはずのない好きな人を待ち続けることだろう。
彼女はそういう真っ直ぐな性格だ。
だから余計に思った。
そんなのーーそんな、地獄より辛いことなんて絶対にーーー。
「……ダメだ」
振り返った志賀さんの目を真っ直ぐに見据える。僕に優しくしてくれた君を、今度は僕が支えよう。
「諦めちゃ、ダメだよ」
「……でも夏川くん、私」
「協力したらダメなの?」
終わってしまった物語を、新しく紡ぎ出してみせる。
もう一度、
「だって僕ら、片想い同盟だろ」
もう一度、君の恋を応援しよう。
志賀さんの返事を聞くより先に、近くにある本棚から片っ端に本を取り出し、彼女の前に置く。呆然としたままの志賀さんに僕は告げる。
「流し読みでもいいから。とりあえず読んで、見つけるしかない」
「で、でも」
「この前のことを気にしてるなら謝る。ごめん」
「そうじゃなくて」
志賀さんはそう言うと、静かに窓の外を見つめた。微かに藍色がオレンジにかかる空模様だ。そんな景色を瞳に映しながら、小さく呟く。
「……空」
「空?」
「うん、何となくなんだけどね、空に関係するお話だったと思うの」
ごめんね、これくらいしか思い出せないや、と申し訳なさそうに言うが僕は首を横に振る。少しでも思い出せただけ、大きな進歩だ。さっそく空に関係しそうな本を探しに、図書室の後方に並ぶ本棚へと駆け寄る。
志賀さんも前方にある本棚を物色している。はたして見つかるかどうか分からない。しかしすぐに思い直す。
いやーー絶対に見つけてみせる。
題名に空が入っているもの、表紙に空の絵が描いてあるもの、空に関係する内容のもの。片っ端から取り出しては志賀さんに確認を取るが、なかなか当たりはない。
ついに後方の本棚をすべて確認し終えるかと思ったーー刹那、
反対側から、ドサリという音がした。
「……?」
一瞬だけ本探しのことを忘れる。不思議に思って本棚の反対側へ回ってみたら、冷たい床に転がる一冊の本があった。
棚から落ちたのだろうか。戻しておこうと思いながら拾う。藍色の表紙に銀色の文字が飾られたそれを手に、僕は何気なく題名を読み上げる。
初めて見るものだった。こんな題名の本、うちの図書室にあっただろうか。
「ーー真夏の星」
その瞬間、前方にいた志賀さんがハッとしたようにこちらを振り向き、慌てて駆け寄ってきたのだが、その本のページを捲っていた僕は気づかず、そのまま冒頭部分を口にする。
その一文が僕のそばで立ち尽くす志賀さんと声を揃えて言ったとも知らずに。
「ーー結衣、星を見に行こうか」
読み終わるや否や、その「真夏の星」は僕の手からフワリと浮き、おぼつかない足取りで図書室前方へと飛んでいく。
僕と志賀さんが一心に見つめるなか、本はゆらりゆらりと飛び続け、そしてーーカウンターの近くに立っていた男子生徒の手元へ静かに落ちた。その男の子は本を手に微笑むと、僕らの方を見る。
くたびれた灰色のカーディガンに、印象的な焦げ茶色の髪。
初めて目の前にしたが僕は悟る。間違いない。
この子がーー芹沢くんだ。
そしてあの「真夏の星」が志賀さんの言う、二人が仲良くなったきっかけの「大切な思い出の本」なのだろう。空という言葉に関係して星が題名に入っている。
志賀さんを一瞥すると芹沢くんを見たまま固まっていた。まさかここに現れるとは思ってもみなかったのだろう。僕もそうだが。
でも何となく分かった。僕も志賀さんも、芹沢くんにはもう会えないと思っていたが、それはあくまでこちらからの話であって、彼からしてみた話は分からなかった。きっと芹沢くんは、志賀さんを迎えに来てくれたのだ。
未だ固まったままの彼女の背中を押す。志賀さんはちょっとびっくりしたようだったが、やがてゆっくりと芹沢くんに歩み寄る。
その距離があと少しになったころ、志賀さんは僕を振り向いた。「夏川くん」
「ありがとう」
その言葉だけで十分だった。
他には何もいらないほど、気持ちの込もった最後の一言。
「本当に、ありがとう」
笑った志賀さんに僕も笑って返す。
再び前を向いた彼女は走り出すと芹沢くんに手を伸ばしーー二人は光に溶けた。
キラキラと輝く光の残像はいつまでも消えることはなかった。