5.投げ出した本の続きは
無人の廊下を歩く。自分の足音だけがやけに響いて、少し気味が悪い。ふと窓の外を見たら、いつの間にか綺麗だった夕焼けは消え、代わりに重たそうな雲が空を埋め尽くしていた。
雨が降りそうだ。早めに帰りたいところだが、そのためには志賀さんに会わなければならない。
今日の分の本探しは早く切り上げよう、と僕が思った刹那、向かいの角から人影が現れた。遠目からでも分かる真っ白なセーターには見覚えがある。
他には誰もいないこともあり、声を大にして呼ぼうか迷っていたら、あっちから声をかけられた。
「あ! ナツじゃーん!」
パタパタとこちらに駆け寄る男子生徒ーー伊波和人は、小さく後ろで結んだ髪を揺らしながら笑った。結ぶくらいなら切ればいいのに、と男にしては少し長めの髪を前にいつも思うが、これが伊波の特徴になっているのであえて言わない。
「何してんのー? また図書室?」
「うん」
「ホントに好きだなぁ。あんまりこもってると、ハルが怒るのに」
ハルとは遥のことだ。伊波は中学から一緒なので、遥とも仲が良いし僕の過度なまでの本好きも知っている。
普通に話していれば、ちょっとチャラい男子高校生に見える伊波だが、この人が周りから一目置かれているのにはある理由がある。それは、
「あッ! そういえば聞いたか!? 昨日理科室の人体模型がついに動いたらしいんだよ! しかも夜に!!」
大のオカルト好きだから、である。
というか、オカルトかどうか関係なしに、ただ本人は何か胸が躍るような面白いことが好きらしい。部員が自分しかいないにも関わらず、学校非公認で勝手に「オカルト研究会」なるものを作るくらい、その愛は凄まじい。
今日もその活動に精を出していたようで、僕は苦笑いを返しながら足を進めた。横から伊波がついてくる。
「ナツも研究会入らないか? 楽しいよ!」
「僕は図書委員やってるし……遥でも誘ってみれば」
言いかけて思い出す。そういえば遥はオカルト系、ダメなんだった。
首を傾げる伊波に、やっぱり何でもないと呟く。
「悪いけど、他当たってくれよ」
「ちぇー……つまないなぁ。ナツがいつも行ってる図書室にだって、昔から言い継がれてきた話があるのに」
「そうなの?」
「……聞きたい?」
ニヤリとした笑み。マジックを披露する直前のマジシャンを連想させる。何だか嬉しそうな伊波を前に、何気なく頷いた。
伊波に得意気に口を開く。
「どういう経緯でそうなったかは知らないけど、昔から図書室には地縛霊がいるらしいんだ」
「地縛霊……?」
ゾワリと体を駆け巡る何か。
なぜだろう、急に気分が悪くなってきた。
「何か恨みとか思い残しがあって成仏出来ずに、自分が命を落とした場所にいつまでも居続ける幽霊のことだよ。だいたいの地縛霊はそこで悪さをしたりするんだけど……まぁ、うちの学校にいるその図書室の地縛霊は、やらないと思うよ」
「……どうして?」
次の瞬間、僕は嫌なくらいする吐き気の正体を知る。
「ーーなんでもその地縛霊、昔うちの養護学級に通ってた生徒らしいんだ」
□■□■□
さっきまで歩いていた道を走って引き返す。心臓はもうどうしようもないほど鳴り響いていて、額から流れる汗は冷たかった。
やけに図書室までの道のりが長く感じる。早く行かなければと思うほど、その部屋はどんどん遠ざかっていくような気がした。
やっとのことで着くと外は雨だった。降り続ける雨音に押しつぶされそうだ。呼吸を整えるひまもなく、図書室の扉を勢いよく引く。
いつものように、彼女はそこにいた。
「うおッ! び、びっくりしたぁ……どうしたの夏川くん」
驚いた表情の志賀さんには何も言葉を返さず、ただその目を見つめた。
よく考えれば、すべてがおかしかったのだ。
志賀さんが来る毎週金曜日はいつも僕と彼女しかいなかった。阿佐田さんはいたかもしれなかったけど、絶対に司書室から出てくることはなかった。
まるで図書室だけが切り離された異空間のように。
肝心の志賀さん自身のことだって僕は知らない。住んでいるのは高校の近くなのか、クラスは何組なのか、担任は誰なのか、仲の良い友人はいるのか。
今ではそのすべてが疑うだけの材料になっていた。
「……志賀、さん」
震える声をしぼって名前を呼ぶ。さすがの志賀さんも様子がおかしいことに気づいたのか、座っていたイスから立ち上がる。
「夏川くん? だいじょ」
「志賀さん、手貸して」
言葉を遮って僕は志賀さんに近づき、手を掴もうとする。
そうだ、もしもーーもしも伊波の言っていたことがただのフィクションだったとしたら、志賀さんの体に触れることが出来るはずだ。だって、彼女はちゃんとした人間なんだから。
彼女は、幽霊なんかじゃないはずだから。
手を伸ばす。あと少しで触れられると思ったーー刹那、志賀さんはすばやく手を引っ込めた。
答えは、それだけで十分だった。
それがただこちらに対して怯えた上での行動ではないと分かったのは、バツが悪そうに俯き、僕から距離をとる彼女を前にしたから。
呆然とした頭。胸に広がる、黒くてモヤモヤしたもの。やがてそれは凄まじい勢いで僕の体を、目の前の景色を、真っ黒に侵食させた。
動かない僕の前で志賀さんは微かに口を開く。
「……あ、あのね夏川くん」
「騙してたの」
しかしそれすらも遮ってしまう。自分の口から出たとは思えないほど、その声は、言葉は、酷く冷え切っていた。
「僕のこと、騙してたの? ずっと嘘ついてたの?」
「ちが……そんなつもりは」
「じゃあ何なの」
志賀さんは黙り込んだ。こんなに責めるような言い方をしたら当たり前だが、そんなことを考慮する余裕なんてない。
なぜだか、乾いた笑いが小さく漏れた。
「……志賀さん、幽霊だったんだね」
だって、君の瞳はいつだって真っ直ぐで。
「それをずっと、僕に隠してたんだ」
君の声はいつだって楽しそうで。
「知らなかったよ」
知りたくもなかった。
自分がこんなにも、本以外のものに執着していたなんて。
こんなにも、志賀さんと過ごした時間を失うことを恐れていたなんて。
僕の言葉に一切の否定をしてくれない彼女が、今はとても遠く感じる。いや、最初から距離なんて縮まっていなかったのかもしれない。
勝手に期待して、勝手に失望したのは誰でもない。この僕だ。
「……夏川くん聞いて、あのね」
やめろ、聞きたくない。
もうーー嫌だ。
押しつぶされそうな空間から廊下へ出る。雨のせいで薄暗く、冷えた廊下をただただ早足で進み続ける。
その日以来、僕は図書室へ行かなくなった。
□■□■□
「颯介、話がある」
遥から呼び出しをされたのは、図書室へ行かなくなってから二週間ほど経った日のことだ。その日は金曜日で珍しく補習授業がなかったため、帰ろうとした僕を遥が捕まえたのだ。
無表情で見つめ返すと遥は「ここじゃ話しにくいから」と、騒がしい教室から僕を屋上へ通じる階段の踊り場に連れていった。
放課後の賑わいが階段の下から響いてくる。階段に腰を下ろし、何となくそれを聞き流していると、隣に座る幼馴染みが口を開いた。
「……もう、本は読まないのか」
「ーーは?」
僕が目を丸くすると、遥は少し俯きがちに呟く。
「いや、最近図書室に行かなくなったからさ。……颯介のことだから、さすがに本を嫌いになったりはしないと思ったんだけど」
ちょっと心配だった、と言ってこちらを見る顔は少し笑っていたけれど、何だか悲しそうだった。
らしくもない顔をされて戸惑う。遥はいつだってそうだ、こんな僕の相手なんかして、一緒に悲しんだり笑ったりして。周りの人たちみたいに適当に流してくれたらいいのところで、必ず声をかけてくる。そんなことされるからこっちも、つい寄りかかりたくなるんだーー。
今まで止めていたものが少しずつ溢れてきた。さすがに泣きはしないが、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。
「遥はなんで、僕なんかを相手にするんだよ」
「…………」
「だって僕、女の子より本が好きなんだ。おかしいだろ? こんな変なやつ、気にかけてたら遥だって大変だろうし、それに」
「ダメなのか」
遥の方を見ると彼は真っ直ぐに僕を見つめていた。それが志賀さんと重なり、胸がドクリと音を立てる。
「そんな変なやつと友達じゃ、ダメなのか」
「……そういうことじゃなくて、遥が僕を相手にする必要なんかないだろうって」
「誰がそんなこと言ったんだよ」
どんどん遥の口調に凄みが増してくる。どうして機嫌が悪くなっていくのか分からなくて、僕は呆然としてしまう。
やがて遥は立ち上がると僕を見下ろす。
「俺が友達になりたくてなったんだ。颯介が気にすることは何もない」
立ち上がった遥の背は当然のごとく自分より大きくて、思わず気圧された。いつの間に彼は大きくなったのだろう。いつか僕を置いて、どこかへ行ってしまいそうだ。
刹那、何かがストンと胸に落ちた。妙に納得してしまったのだ。自分が今までなぜ本にばかりこだわっていたのか。
怖かったのだ、自分に関係する誰かがいなくなることが。
だから絶対にいなくなったりしない本という存在にすがった。それを愛だと言い聞かせながら。
もしかして志賀さんの正体を知ったときもそうだったのかもしれない。やっと友達になれたと思っていたから余計に怖かったんだ。
そうだと分かった途端、志賀さんの声が脳に蘇る。
『……夏川くん聞いて、あのね』
あの言葉の続きは一体何だろうか。
それを僕は聞いてもいいのだろうか。
「……そっか、ありがとう遥」
だって僕も、彼女と友達になりたくてなったんだ。
立ち上がって階段を下る。目指す場所はもちろん、図書室だ。
まだ物語は、終わっていない。