3.片想い同盟
「あ、夏川くーん」
あれから彼女、志賀さんはよく図書室を訪れるようになった。
訪れると言っても、なぜか自分の委員当番である金曜日の放課後しか来ない上に、僕が到着するより先に彼女は図書室にいるのだ。訪問というよりも、待ち伏せされているような気がしてならない。
そんな志賀さんは今日も今日とて図書室におり、本棚から僕が向かうカウンターへと近づいてきた。ベージュのセーターからやっとのことで覗くその右手には、先週オススメした文庫本がある。もう読んでしまったのか、かなりページ数はあったはずなのに。
志賀さんは本を読むスピードが早い。一般的には普通なのかもしれないけど僕にしてはかなり早い方だ。
毎週一冊、こちらがオススメする本を借りては、次の週には返却する。どちらが決めた訳でもないけれど、それがお互いのルールみたいになっていた。
どんなに分厚い本を渡そうと、そのサイクルは変わらない。
「どうだった?」
「すごい面白かった! あの主人公に片想いする幼馴染みの女の子が可愛いくてもう!」
ニコニコしながらそう言う。借りると必ず僕に感想を報告するのもお決まりだ。やはり女子はこういう恋愛小説が好きなのだろうか、そんなことを考える。
出来ればこのまま感想を言い合いたいところだが、生憎僕が聞きたいのは感想ではない。
「良かった。それで、その本が思い出のやつ?」
そう、探しているのは面白い本などではなく、志賀さんが求めている例の謎に包まれた本だ。かれこれ探し始めてから、かなり時間が過ぎたような気もするが、一向にそれらしきものは見つからない。
そして今日もハズレだったらしく、彼女は首を横に振る。
「……ごめんね、違うみたい」
気を落とす志賀さん。しかしすぐに顔を輝かせる。「でもね!」
「これはこれで本当に良かったの。面白かったよ、ありがとう!」
笑顔を見せる志賀さんにつられて、僕もぎこちない笑みを返す。
志賀さんはとても正直な人だ。「ありがとう」とか「ごめんね」という言葉を一日に何回も言っているが、その言葉の本質を薄めたり、嘘っぽくしたりすることなくぶつけてくる。正直というより真っ直ぐなのだろう。
僕はカウンターから出ると彼女とともに本棚を物色し始める。次の本を探すためだ。
手当たり次第、志賀さんが好きそうな本を取り出しながら、僕は口を開いた。
「……あのさ、志賀さん」
「はい?」
「大切な思い出の本って言ってるけど、どんな思い出があるの?」
ずっと気になっていたことを直球で問いかける。一緒に探してあげているんだから、これくらい聞いても罰は当たらないだろう。
しかし一応「言いたくなかったら別に答えなくていいよ」と予防線を引いておく。反応を待っていると、なぜか志賀さんは動きを止め、いきなりその場にしゃがみ込んだ。僕は驚くが率直な感想を口にする。
「……小さい体が余計小さく見える」
「そういうこと言わないでよ!!」
大声が返ってきた。養護学級に通っていると言っていたので一瞬心配になったが、どうやら具合が悪いとかではないらしい。
近くに寄って僕もしゃがみ込む。するとさっきとは打って変わった、か細い声が聞こえた。
「……だ、誰にも言わないでね」
「別に言うつもりないけど」
「なら良いんだ。……あ、あのね」
「うん」
「わ、私……その、す、す、す」
「す?」
「……き、なひ……とが……い、て」
ボソボソとしているからハッキリ分からないが、何となく言いたいことは理解出来る。
好きな人がいて。
「……おぉ」
「な、なにその反応」
「別に。で、好きな人がいて、の続きは?」
赤みを帯びた頬を隠すように彼女は顔をうずめる。
「そ、その人と、初めて話したきっかけの本、なの」
それっきり志賀さんは黙りこくってしまう。そんなに恥ずかしがるくらいなんだから、よっぽど惚れているのだろう。
にしてもまるで小説のような惚れ方だ。思わずそう感じてしまったからか、僕の口が滑る。
「そんな大切な本を思い出せないって……」
「絶対そう言うと思った! でも仕方ないじゃない! 忘れちゃったものは忘れちゃったんだから!!」
「開き直ってるし……。あ、初めて話したきっかけってことは、本棚に背伸びする志賀さんに本を取ってくれた、とか?」
「ッ!? ち、違うもん!! それは夏川くんでしょ!?」
ただでさえ真っ赤な顔がさらに悪化する。図星か、何て分かりやすい。
取ってくれた、ということは背の高い奴だろうか。同じ一年生だったとして、少なくとも一回は図書室に来たことがある男子生徒ーー残念なことに皆目検討もつかない。勝手に志賀さんの惚れた相手を探していたら、反撃のような言葉が横から飛んでくる。
「夏川くんは? 好きな人いたりするの?」
いつから恋バナ大会になったんだ、おい。
期待したようなキラキラとした瞳でこちらを見つめる志賀さん。その期待に応えてあげたい気持ちはあるのだが、僕は正直に答える。
「いないよ」
「えぇー? 気になる人くらいいるでしょ」
「僕が好きなのは、本だから」
「それは好きなものでしょ。私が聞いてるのは好きな人だってば」
「好きな人なんていらない」
至って真面目に吐いた言葉は一瞬で空気を静めた。好きな人がいる志賀さんを否定したつもりはないが、どう聞こえてしまっただろうか。
「本を愛してるんだ、それだけでいい」
小さなころから言い続けてきたそれは、一体今までどれくらいの人間を遠ざけてきたのか。
まるで本以外のすべてを拒絶する呪文だ。
チラリと志賀さんの方を見る。さて、どう返してくるのだろう。意地の悪いことを考えながら待っていたら、彼女は僕を気味悪がる訳でもなく、ただキョトンとした表情をしていた。
やがてふんわり笑うと小さく漏らす。
「いいなぁ……夏川くんは」
「ーーは?」
何が? 間髪入れずにそう問いかける。
「だって、愛してるなんて簡単に言えることじゃないよ。それをここまでハッキリ言えるんだから、羨ましいなぁって」
素直に驚いた。そう捉えてくれる人間もいるのだと、ただただ感心する。
もっと気味悪がられると思っていた。距離を置かれるかと思った。でも実際、そんなことはなくて。
志賀さんは真っ直ぐだ。だから僕の捻じ曲がった考えを決して否定したりしない。
代わりに、もっと違う角度から見たことを教えてくれる。
「仲間だね」
脳内に駆け巡る言葉を整理していたら、志賀さんがそんなことを呟いた。
「私も夏川くんも片想いしてるから。仲間だよ」
「……片想い」
「あ、でも夏川くんはとっくに両想いかな。ここにある本も夏川くんのこと大好きみたいな雰囲気あるし」
嬉しいことを言ってくれる。思わず小さく吹き出すと、今度こそ志賀さんは不満そうな顔を露わにした。
「な、なにさ」
「や……別に、ちょっとね」
「……夏川くん失礼」
不貞腐れる志賀さんに僕は告げる。「ごめんね」
「多分、まだ両想いにはなれないと思うんだ」
「?」
「だからさ、入れてよ。仲間に」
ねぇ志賀さん。僕、本が好きなんだ。
だから、人なんて好きになれないと思ってた。
でもね。
「片想い同盟だね」
志賀さんのことは、なぜか好きになれそうだ。
きっとそれは友達としての好きだけど。
「同盟? 何かカッコいいね……!」
「それはどうも」
友達として、君の恋を応援させてほしいと思ったんだ。
□■□■□
珍しいこともあるのだと思ったのは、いつものように図書室へ入ったときだ。いるはずの志賀さんがその日はいなかった。
毎週必ずいたから急にこういうことになると困るもので、一瞬探しに行こうか迷ったが、ヒョッコリ現れそうな気がしたのでやめた。もしかしたら先生や友人と話をしているのかもしれない。そうだとしたら邪魔するのは悪い。
養護学級に通っているらしいのでクラスを知らないこともあり、適当に座って読書しながら待とうとしたのだが、
「毎週毎週、精が出ますなぁ。夏川」
「阿佐田さん」
「真面目に図書委員当番、守ってんの夏川だけだっての」
「本好きですから」
「なら私の仕事も変わってくれよ」
「嫌です」
「ちッ……」
「舌打ちしない」
「へぇーい」
司書室から出ていた阿佐田さんに声をかけられた。こうも会話をしているとどっちが大人なんだか、分かりやしない。
その口ぶりやら女性にしてはだらしない見た目から、やる気のない大人として生徒に有名な阿佐田さんだが、本についての知識は並大抵のものではない。そこの部分だけ僕は尊敬している。
「……今なんか失礼なこと考えたか?」
「いえ別に」
そして職業柄か、人の心を読むのがうまい。
阿佐田さんは「ふーん」と言ってから、カウンターに置いてあった缶ジュースを手に取る。プルタブを開け、そこに持参のストローを差して飲む姿は、まるでガソリンを補給するロボットだ。あまり感情の起伏も激しくないから、余計にそう見える。
無表情でチューチュー飲み続ける阿佐田さんに、僕は何となく問いかけてみた。
「今日、背の小さい女の子来ませんでしたか?」
「んー?」
ストローを口から離したのち、阿佐田さんは首をひねる。
「さぁ……どうだろう。さっきまで寝……休憩してたからな」
「昼寝しないでください。あと図書室は飲食禁止ですよ」
「司書はいいんだよ」
そんなルールがあってたまるか。軽く睨みつけるとだらしない司書はバツが悪そうに目を逸らした。
「悪かったよ。えぇっと、何の話だっけか……あぁそうだ。背の小さい女の子だっけ? 知らないよ、誰か来たら声かけられただろうし」
「そうですか、なら良いです」
「何々? 待ち合わせか? 夏川もやるなぁ。本にしか興味ないとか言いながらよぉ、えぇ?」
「ウザい……」
「お前今、公務員に向かってウザいって言った?」
そう言う阿佐田さんをスルーしてカウンターの整理をする。そこらじゅうにプリントやら貸し出しカードが散らばっており、元の位置へ黙々と戻していく。
「その小さい女の子、なんていう名前?」
僕が女の子と会うのが余程面白いのか、阿佐田さんは普段あまり見せないニヤニヤ顔をしていた。しつこい酔っ払いのようだ。ここはこっちが大人になるしかない。僕は静かに返した。
「志賀さんですよ。下の名前は知りません」
「志賀?」
阿佐田さんはまた首をひねったのち、ハッとした顔つきで呟いた。
「志賀直哉じゃん……ッ!!」
今気づいたけどこの人は馬鹿なのかもしれない。それも生粋の読書馬鹿。
いいなぁ、羨ましいなぁーとか何とか独り言を漏らす阿佐田さんを再度スルーし、僕はカウンターを離れる。これ以上ここにいたらさらに阿佐田さんへの暴言を吐いてしまいそうだし、何より志賀さんが一向に来ないので迎えに行こうと思ったのだ。
扉に手をかけながら背後へ告げる。
「僕ちょっと出ますけど、その志賀さんっぽい人が来たら待っててくれるように言っておいてください」
「えぇー、イチャイチャすんなら家帰ってからにしろよ」
「マジでいい加減にしてください」
僕の睨みに阿佐田さんは「おー、怖い怖い」と、まったく怖がっていない様子を見せる。
物に当たるのは良くないが、いつもより力を入れて扉を閉めた。
ピシャンッという派手な音が響いたのち、誰もいなくなった図書室でひとり、阿佐田は天井を仰ぐと小さな声を漏らす。
「……うちに志賀なんて生徒、いたっけか」
もしいたら本好きの自分は絶対覚えているはずなのに。
そんな疑問を胸に目線を天井から窓の外へ動かす。広がる夕焼けはいつもより少し重たそうで、今にもオレンジ味のドロップのような雨が降ってきそうだった。