2.小さな志賀直哉
「好き」というより「愛してる」に近い。
僕が本に対して抱く感情はそういうものだ。
いつからこうなってしまったのかは記憶にないが、読書をすることは幼いころから日常生活のひとつとしてあった。そしてそれが、両親からの賜物であると知ったのは最近のことだ。
家は古びた洋館のようで両親は仕事の関係上、古書や様々な種類の本を扱うことが多く、それを保管するために家には小さな図書館のような部屋があった。高い天井までいっぱいに広がる本棚。そこに敷き詰められた書物。床には絨毯とテーブルひとつにイス四脚しかない。まさしく、本のためだけに存在する空間だった。
そんな部屋に幼いころから四六時中入り浸っていた僕にとって、本はいわば幼馴染みと同じで、なくてはならないものだった。ずっとここにいたい、永遠に本だけを読んで、愛でていたいーーそういう思いが募りに募って、いつしか本に深い愛情を抱くようになった。
その結果か、年の離れた兄が心配するほど異性に対しては興味の欠片もないし、ましてや同性なんてありえない。
本だけが僕、夏川颯介にとってのすべてで、愛情を注ぐ対象。
高校生になった今でもこういった性癖や思考は変わらず、おかげで周りからは距離を置かれている。しかしそれでも構わない。たったひとりーーこの場合は一冊なのかもしれないがーー本が僕のそばにいてくれるのなら、周りなんて関係ないにも等しいのだ。
愛するものと一緒なら、それでいい。
だが、確かにそう思う自分とは裏腹にどこか悲しむ自分もいるのが現状だ。どれだけ愛を囁いても、想いを伝えても所詮は本ーーそれに答えてくれるはずがない。だから悲しくなるのだろうか。僕は自分にそう問いかけてみるけれど、胸のあたりがキュウっと苦しくなるだけだった。
決して返ってくることはないと分かっていながら、一方通行の愛をやめることが出来ない。
そういった矛盾に悩まされるとき、僕は自分に言い聞かせるのだ。
僕の恋した相手には、生命などないーーと。
□■□■□
図書委員に立候補したのは愛する本との時間を少しでも多く過ごしたかったからであって、決して委員会を理由に補習授業を欠席しようと目論んでいた訳ではない。だいたい、その補習授業が自分の図書室当番である金曜日の放課後に行われることが悪いのだ。僕は悪くない。
だから数少ない友人の中で唯一、僕の幼馴染みという部類に入る茶髪少年とこんな風に廊下で追いかけっこをする必要なんてないのに。
「颯介てめぇ!! 今日こそは逃がさねぇ!!」
ドスの効いた叫びを撒き散らす少年ーー八代遥は、少し手前で振り返った僕にそう宣言した。
染めた髪にワイシャツの下は赤シャツ着用、という古臭い不良のような風貌の遥だが、その本性は不良でもなんでもなくただの真面目な男子高校生である。明るい性格でクラスの人気者、成績は常に上位キープ、おまけに運動神経だって申し分ない。こんなにも見た目と中身が違いすぎる人間を僕は遥以外知らない。
本ばかりを読み漁っていた僕の手を引いてくれていたのは、いつも近所に住む遥だった。外での遊び方も、友達作りも、勉強も、教えてくれたのは遥で、こういう「めんどくさい子とその世話係」みたいな関係は今でも変わらない。
そんな訳で、今日も今日とて補習授業より委員の仕事を優先した僕を、真面目な遥が連れ戻そうと奮闘している。
「補習なんかすぐに終わるだろーが! それから図書室に行け!」
「委員会より補習を優先しろって言うの? 冗談じゃないね」
「言っとくけどな、普通の人は補習を優先するから。颯介だけだぞ! 思考が逆なのは!」
「そうなの? 知らなかったなぁ」
「腹立つ言い方だな畜生!!」
廊下を走りながら会話をする。これもいつものことだ。
騒がしい僕らに気づいた生徒が端による。その中にいた女子生徒たちが遥を前に、何やら嬉々としてヒソヒソ話している姿が一瞬だけ視界に入った。
理由は明白。頭が良くてスポーツも万能な奴は女子に人気だからだ。
「颯介! おい待てコラ!!」
そもそもどうして遥は僕なんかを相手にするのだろう。モテるんだからさっさと彼女でも作って、適当に今までの関係を薄くしていけばいいのに。
廊下の角を曲がり、階段を段飛ばしで駆け下りる。踊り場からすぐのところに図書室はあった。急いで入り、扉を閉めると掛けてあったカードを「本日は閉館日です」に裏返す。
近くの本棚に隠れたのち案の定、遥は僕が逃げた図書室の入り口に来たが、掛けられたカードを目に踵を返した。「……あぁ?」
「今日閉館じゃねぇか……ッたく、アイツどこ行きやがった」
バタバタと遠ざかる足音。頭良いくせにどこか抜けているというか何というか。すぐ詐欺にでも引っかかりそうだ。
とりあえず今週も無事切り抜けられたことに安堵の息を吐く。深呼吸すると本独特の香りが体中を満たし、思わず笑みが零れた。どんな空間よりも図書室が一番落ち着く。
ザッと室内を見渡すがまだ誰もいないようだ。無人のカウンターの向こうにある司書室には女性司書ーー阿佐田さんがいるらしい。ソファで完璧に爆睡する、あられもない姿がガラス窓越しに丸見えだった。
どう声をかけていいのか分からず、そのうち起きるだろうと思ったそのとき、
「んぬーッ」
突然の奇妙な声にビクリとする。小さく早鐘を打つ心臓とともに脳内を言葉が駆け巡った。
誰かいるのか? いやまさか、だってさっきまでは誰もいなくて……大雑把とはいえ、ちゃんとこの目で確認したはずーー。
しかし、声のした方を見た瞬間どうして姿を見落としたのか、すぐに理解出来た。
「んーッ! さ、さっさと縮んでよぉ!」
「…………」
思わず僕が口を噤むほどミニマムなサイズの女子生徒がひとり、本棚に向かって背伸びをしていた。
遠目からでも分かるブカブカのセーターにあの低身長。高校生にコスプレしている中学生にも見える姿の主に、僕はゆっくりと近づいた。
図書室に置いてある赤い踏み台を片手に。
「これ使う?」
「うひゃあッ!?」
これまた奇妙な声が発せられた。伸ばしていた腕を引っ込め、こちらを振り向いた女子生徒は僕が差し出した踏み台に気づくと、恐る恐るそれを受け取る。
「あぁ、ありがとうございま……って違ぁーう!!」
「ッ!?」
が、受け取った踏み台を両手で抱えると、なぜか僕に掲げてみせた。
「あなたも私を小さいと馬鹿にするの!? だからこんなものをわざわざくれるの!? えぇ!?」
「あ、いや、そういう訳じゃ」
「言い訳無用! どうせ心の中で私のことを笑っているんでしょう!?」
「ごめん、迷惑だった?」
「ううんすごい嬉しい!!」
怒った口調のままでそう言う女子生徒。一体何なんだこの人。
不審に思うがどうやら悪い人ではなさそうだ。親切をしたつもりが怒らせてしまったようなので、僕は彼女の手から踏み台をもらい、本棚へと目線を向けた。
「どれ?」
「……?」
「本、取ろうとしてたから。どの本?」
せめてものお詫びにと僕が聞く。女子生徒はしばらく呆けたようにしていたが、視線を送ると慌てて「あ、そ、その棚の右から四番目の、白いやつ」と教えてくれた。
目当ての本を取り出し、彼女へ差し出す。
「あ、ありがとう」
「うん」
そうして僕はその場から離れようと踵を返したのだが、背中から声をかけられる。
「ね、ねぇ! ここにはよく来るの?」
こことは図書室のことだろうか。唐突な質問に眉をひそめつつ僕は「まぁ、うん」と曖昧な返事。すると彼女は急に表情を輝かせたと思いきや、僕の背後から前へトコトコ歩いてきた。
「もしかして図書委員とか?」
「そうだけど……」
だから何なんだと喉まで出かかった言葉を飲み込む。基本的にクラスの女子とも会話はしない方なので、こういう場面では何を言えばいいのか分からない。
仕方なく彼女の話に耳を傾けていたら「良かった、実はね」という前置きのあとに呟かれる。
「私、本を探してるの。さっき取ってもらったやつじゃないんだけど」
「本?」
なんだ、そんなことか。やけに真剣な顔をするものだから何を言われるのかと思ったが、そういう類の相談はよく持ちかけられる。
幸い図書室には室内の本をすべて管理するパソコンがあるので、阿佐田さんに言って検索してもらえばすぐに見つかるだろう。
まずはその阿佐田さんを起こさなければ、と思いつつ僕は女子生徒に言った。
「それならパソコンで検索した方が早いかもしれない。ちなみに題名は?」
「うッ……わ、分からないです」
「じゃあ出版社とか」
「覚えてない……」
「どんな内容の話?」
「んー……?」
「…………作者は」
最後の質問に至っては静かに目を逸らされた。
おい、どういうことなんだ。いよいよ僕は苦々しい顔を露わにする。
そんな僕に気づいたらしい彼女は俯きがちに呟いた。
「ご、ごめんね。本当に覚えてなくて」
「……これっぽっちも?」
「すみません……!!」
謝られるけどこればかりはどうしようもない。いくら図書室の常連客である僕でも、題名も内容も作者も分からない本を探すなんて、無理に決まっている。砂漠の中から一粒の宝石を探すようなものだ。
小さく溜め息を吐いてから僕は言う。
「無理だよ、情報が少なすぎる」
「ッ!」
遠回しに伝えるのは苦手だ。だからせめて柔らかく否定したかったが、頭に浮かんだ言葉はこれくらいだった。表情こそ読み取れないけれど、きっとガッカリしているに違いない。空気で伝わってくる。
これ以上いても息苦しいだけなので、僕は彼女のそばを通り過ぎようとしたのだが、
「お、お願い! 一緒に探して!」
「ッ!?」
すれ違いざまに僕の黒いカーディガンを引っ張られた。驚きながら振り向くと、離すまいと言わんばかりに袖を掴むミニマム高校生が。
勝手に無理難題を押しつけてくる彼女に苛立ちを覚える。第一、そこまで執着する意味が分からない。
「だから無理だって。手掛かりが何もないんだから」
「でもここにあるのは確かで」
「確かって……ここに何冊あると思ってんの? 小説だけでもかなり数があることくらい分かるだろ」
思わず口調が強くなる。もしもこの場に遥がいたら「そんな言い方するな」とか注意してくるだろうし、他の女子生徒だったら押し黙ってしまうだろう。
しかし、彼女は違った。まったく怯むことなく、僕に口を開いてくる。「お願い!!」
「大切な、思い出の本なの!!」
その言葉を聞いた瞬間、何かがストンと胸に落ちたような気がした。
それは彼女が姿なき本にこだわる理由だと分かったからか、はたまた僕も昔同じような感覚を味わったことがあるように思えたからかーーどちらにせよ、妙に納得いった。
今までたくさんの本を読んできた。推理も、恋愛も、歴史も、冒険も、上げていけばキリがない。しかしその中に特別な感情を抱いた本はなかった。
彼女が言うような「大切な思い出の本」などなかった。
すべての本が平等に好きで、愛おしくてーー変わらずそれを掲げ続けてきた僕だから、少し羨ましかったのかもしれない。
たったひとつのものを一途に想う彼女に、微量ながらも憧れを抱いたのかもしれない。
真っ直ぐな瞳に射抜かれた僕は、小さく「……分かったよ」と返すこと以外の動作が出来なかった。
「出来る限りのことはしてあげてもいいよ。見つかる保証はないけど」
「ッ! あ、ありがとう!!」
嬉しそうに笑う。勝手に話を進めて、人のことを巻き込んで、一体何なんだろう。
そんな彼女に負けた自分も相当変だ。というか、今日の図書室は何かおかしい。こんなに騒がしいのに阿佐田さんは起きないし、まだ誰も訪問者が来ていない。
でもーーどこか胸を躍らせる自分がいた。
「えぇっと、私は一年の志賀です。志賀直哉と同じ漢字」
「……夏川、颯介です」
「夏川くんね。うん、よろしくお願いします!」
窓の外に広がる空は、いつだったか零してしまったオレンジジュースのようで。
そんな金曜日の放課後、僕は不思議な同学年、志賀さんと出会った。