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短編

命の住処

作者: nab42

 ボストンバッグに最後に入れたのは、ぼろぼろのタオルだった。姉が大事にしていた子供は、タオルや水玉模様の帽子、小さな洋服、ノート、筆記用具、おしゃぶり、哺乳瓶に囲まれてバッグの中にいる。

 部屋を出るとき、僕はベッドですやすやと寝ている姉を見た。涙のあとが目じりから垂れているように見えた。睡眠薬を飲む前、姉は泣いたのだろうか。それとも寝ているときに泣いたのだろうか。まさか僕がバッグに色々と詰め込んでいる時に……。心がちくりと痛み、ぐらぐらと揺れた。だが、もうこうするしかないのだ。

 ドアをそっと閉め、階段を使って一階に降りる。

 床にボストンバッグを置き、玄関で靴を履く。

 がたり、とバッグの中が崩れた。まさか……と思ったが、そんなはずはない。動くことはないのだ。

 玄関を開けると、日の光が僕を見た。それが神の化身のように思え、僕は道徳心が唸るのを感じた。

 これでよかったのだ。これが一番いいことだったのだと、僕は自分に言い聞かす。

 だが、なかなか外に出るための一歩が踏み出せなかった。しかし、それでも行かなければならない。外に。このバッグを捨てるために。これで姉は未来に行ける。僕が今、手にしているものは、彼女の一つの未来だったのかもしれない。だが、これによって彼女は幸せになれるはずだ。

 疑うな。自分を。

 僕は目を閉じ、光を薄めた。

 疑わないでくれ。お姉ちゃん。これで幸せになれるんだ。疑わないでくれ。自分の幸せを。このバッグの中身は幸せになれる未来ではなかったんだよ。

 目を開けると、神はいなくなった。僕は外に出て、鍵を閉めた。


 僕らの子供が誘拐され、殺されたのは四年前だ。その時、彼女は二十六歳だった。僕は二十五だった。彼女は高校を卒業してから、地元の会社で事務をやっていた。僕もまた地元の銀行に勤めていた。大学を卒業してからすでに三年経っていた。

 子供の名前は、あまり口に出したくない。子供のことを思い出すのが辛いというのもあるが、彼女が必死にその名前を口に出して、狂う姿を思い出したくないのが本当のことだ。もしかしたら、僕は彼女を愛しているだけで、これっぽっちも子供を愛していなかったのかもしれないと何度思ったことか。だが、それも違う。僕は息子の葬儀の時、泣いた。あの重さがずっと腕から離れなかった。

 誘拐犯は警察に捕まる前に、自殺していた。近くの神社にある木に縄をかけ、そこで首を釣ったのだ。子供の遺体は本殿の(ひさし)に置かれていた。タオルにくるまっていたが、死んでいるのがすぐに分かった。血の気はなく、蝋人形のように固まっていた。

 身内がなぜ……。動機はなんだ。警察はそう言っていた。僕も思った。なぜこんなことをしたんだ、僕らは幸せだったのに、と。

 その日から彼女は、だんだんとおかしくなっていった。僕はそれに反比例するように、正気になっていった。自分がおかしくなったら、彼女のことを守れなくなる。そう思ったのかもしれない。

 小さな葬儀が終わると、彼女は後ずさりをするようにふさぎ込んだ。僕が何を話しかけても答えは曖昧で、返事は夜の静けさがなければ聞こえないくらいだった。

 僕は彼女のようにしてはいられなかった。誘拐殺人、それも身内が起こした事件となると引っ越しをしないと生きていけない。根も葉もない噂と心を射抜く真実が、蔑みと好奇の目でぐちゃぐちゃになり、それが善悪を含みまとめあげられ、正解のように掲げられるのだ。僕らが住んでいた田舎の町でそれをされると人間のようには生きていけない。

 お互いに仕事をやめ、僕らは二つ離れた県へと夜逃げのように引っ越した。その土地に決めた美しい理由ない。僕らのことを知る人がいないという、悲しい点から選んだのだ。

 このことを彼女は全て僕に任せた。彼女の心はずっと、死んだ子供へと向かっていた。

 僕は街で仕事を探した。前と同じ仕事は出来なかった。運よく見つかったのは輸入業の仕事だった。だが、それなりにうまくやっていけたような気がする。もしかしたら、銀行員よりも好きな仕事なのかもしれない。

 僕は事件から逃げようと、仕事に力を入れた。街にやってきて、二年経つ頃には昇進もできた。

 彼女もふさぎ込むことはなくなり、家事全般をやってくれていた。そして僕らも何もなかったように会話をしていた。だが、彼女は感情を捨てるとことは出来ていなかった。毎晩のように僕の隣で泣き、子供の名前を呼び、うなされていた。僕はその彼女を抱きしめながら、よしよしとあやすように寝ていた。

 しかし、それは必然を遅らせているだけだったのかもしれない。彼女の一つが、ついに壊れた。

「あれ? トイレってどこだっけ?」

 そう彼女は言った。この借家に引っ越してきてから、もう三年目になるのに。

「トイレ? 風呂場の横だろ」

「あ、そうだった。……ねぇ。まさし」

「何?」

「明日って私、何するんだっけ?」

「明日……。さぁ、買い物か何かするつもりだったの?」

「いや、私仕事しなくていいのかな」

「仕事? 俺の給料だけじゃ、だめか」

「え? いや、そうじゃないの。違うの」

 そういえばと僕が思ったのは、もっと後になってからだ。この会話をする前にも彼女は、よく何かを忘れていたことを思い出した。冬服がある場所、最寄りの駅の場所。

 そのことに気付いた時、彼女のその症状は悪化していた。僕を忘れかけた時はさすがにひやりとした。

 だが、僕は少しだけ期待した。もし、子供の事、事件のことを忘れることができるならば、彼女は救われるのではないだろうかと。

 だが、それは淡い希望だった。なによりもそれを拒んだのは彼女の方だったからだ。

 彼女は自分の症状を自覚し、過去を忘れるのを恐れた。特に息子のことを忘れるのを。

 それに対して僕がやったことは二つ。彼女を脳外科に連れて行くこと、そして精神科に連れて行くこと。後者の方はあまりにも遅かったと後悔している。

 そして、彼女がやったこと。それは自分の過去について記録すること。彼女は日記帳のようなものを買ってきて、時間があるとそこに自分のことを書いていった。特に子供のことを重点的に書いていた。

 しかし治ることはなく、彼女は本格に狂っていった。

 彼女は過去にすがりすぎていた。過去に未来があるのだと信じ込んでいるのだ。

 彼女が狂うのを必死に堪えながら過ごしていたある日、自分の脳裏に誘拐殺人犯の顔が浮かんだ。彼が何を考えて子供を誘拐し、殺し、自から命を絶ったのか。それがなんとなく分かった気がした。


 僕はゆっくりとベッドから起きた。そして、音を出さないように注意しながらクローゼットを開け、中から大きなボストンバッグを出した。

 部屋を見回す。時刻は午前六時。

 姉は夜遅くまで寝付けなかったようだ。テーブルの上には睡眠薬がある。うまく寝られない時、姉はこれを使う。

 僕はゆっくりと、ベッドに近づいた。ベッドの頭上にある棚に、ノートと筆記用具が置いてある。僕はそれをバッグに入れる。そして、小さな木製タンスに向かい、そこから洋服とおしゃぶりを取り出し、バッグに入れる。

 最後にベビーベッドに向かい、そこにあるミルク入りの哺乳瓶と、水玉模様の帽子を被った人形を掴む。そして、人形にかけてあったタオルをバッグに入れる。

 姉が狂ったように我が子として愛した人形は、僕には何も言わなかった。泣きもせずに、薄気味悪い笑顔をしているだけだ。

 姉の記憶障害と心の傷による狂気は、僕にはもう理解できなかった。

 ベビーベッドを買って、人形を買って、昔使っていた息子の洋服をそれに着せ、僕らが付けた名前を連呼し、胸の中で揺らし、口から零れるのを無視しながら哺乳瓶を使ってミルクを流し込み、それをタオルで拭い、子守唄を歌いながら、決して瞼を閉じない人形の腹をぽんぽんと叩きながら寝かすのだ。

 それにもかかわらず、ある時はなぜそこに人形がいるのか、なぜ自分の息子に着せていた服を人形に着せているのかを忘れる。

 そして、ノートに書き写した過去を読んで、子供を亡くしたこと、愛していたことを再認識し、とめどなく溢れる感情を理由に、また人形を愛すのだ。それの繰り返し。毎日、毎週、毎月。

 狂っている。彼女は、姉は、もう狂っている。おかしい。おかしい。僕の愛した女性はもう、狂っているのだ。

 父は、なぜ僕らの子供を殺したのか。たぶん、僕らの未来に幸せがないと思ったのではないだろうか。田舎の小さな町、そこに住む結婚もできない姉弟とその子供。それをきっと、父は悲観したのだ。

 僕らは大丈夫だと思っていたのに……。

 だが今は、彼の行動が正しいような気もしている。

 僕は狂っているのかな。自分の息子が殺されたのに。それが正しいだなんて。僕は子供を愛していなかったのかな。

 そんなわけがない。

 今も思いだす、あの重さ。決して軽くない命の重さだったのだ。あの人形とは違う。あれに命などない。

 僕はドアへと歩きながら考える。

 僕たちは全てを忘れて、未来に向かって歩くべきなのだ。そうだろう、ユキ。

 でも、もし過去に戻ったのなら、僕らは再び愛しあうことを選ぶのかな、お姉ちゃん。

 僕はベッドの方を振り向いて、そこに眠る女の顔を見た。全ての命はそこにしかなかった。




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