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失恋の痛みにつけ込むつもりが、つけ込まれたのは私でした

作者: こじまき
掲載日:2026/04/21

王立第一騎士団の事務官室。帳簿と報告書のファイルが整然と並べられているデスクに、私ことナルツィッセは今日も背筋を伸ばして座っている。


銀色の髪をひとつにまとめ、濃い金色の目に眼鏡をかけ、書類をチェックし、差し戻すものと処理に回すものにわけていく。「リューデック様の書類、また差し戻しだわ。どうご説明申し上げれば伝わるのかしら」と、小さくため息をつきながら。


窓の外では鎧がきらめき、掛け声と笑い声が響く。エリート中のエリート、王立第一騎士団所属の騎士たちが訓練をしているのだ。


「見てはいけない」と思いながらも、私は事務官室の入り口から誰も入ってこないことをちらりと確認して、そっとカーテンの隙間から中庭を覗く。


彼の姿は、いつも容易く見つけられる。


アンゼルム・ヴァインベルク様。金髪碧眼。彼の金髪は太陽の光をまとって輝き、髪から滴る汗すらも美しい。いつも女の子に囲まれていて、「女好き」という噂が絶えなくて、でも不思議と誰からも嫌われない。


そして、誰よりも真面目で、優しい。


《アンゼルム様の書類は、いつも誰よりも几帳面でわかりやすくて、一分の隙もございません。そして処理した案件の報告書からは、関わった人達への気遣いが伝わってまいります。真面目で思いやりに溢れたお人柄であると推察いたします》


書類を提出しに来たアンゼルム様をそう褒めたとき、彼が見せた少年のような笑顔。その笑顔ひとつで、私の心は、いとも簡単に奪われてしまった。


彼の視線がこちらに向いたような気がして、私は慌てて身を翻す。だって、この想いを知られたくはない。


彼の周りにはいつも女性騎士や他の女性事務官がいる。それも見目が良く社交的で家柄も良い女性ばかり。


「地味で陰気で、いつも騎士の皆様に細かいことを言って嫌われているような私なんかがアンゼルム様をお慕いしているだなんて…言えないわ」


お世辞、あるいは彼にとってはただの挨拶のようなものだとわかっていながら、アンゼルム様に「事務官殿、今日も可愛いね」と言われるたびに全身の血が熱くなってしまい、一日中その言葉を脳内再生して仕事に身が入らなくなるなど、言えるはずがない。


私はふっと息を吐き、頬をぱちんと両手で挟む。そして差し戻しの書類を手に、王立第一騎士団主任のリューデック様のもとへ向かった。


「リューデック様ももう主任になられたのですから、現場のお仕事だけではなく、書類仕事もきちんとできるようになっていただかないと困ります。今後さらに上に行かれるお方なのですから」


そう言うと「また細かいことを言うやつが来た」と嫌な顔をしていたリューデック様の顔が、少し和らぐ。私は書類を彼のデスクに置き、中腰になって説明する。


「具体的には、ここがこう…」

「ではここは?」

「ここは今年から書き方と添付書類が変わって、こう…」

「ああ、なるほど。何だか通知が来ていたような気がするな」

「…ええ、一ヶ月前に。ああ、そしてここの書き方は、大変わかりやすく感服いたしました。今後騎士団全体のお手本にさせていただきたく存じます」

「そ、そうか…?」

「そしてここはこうで…ここは確かにこちらの指示もわかりにくいと思いましたので、メモにしております。保管いただき、折に触れ見返していただければと存じます」

「ありがとう」


「今回はご理解いただけたかしら」と思いながら腰を伸ばした瞬間、くらりと眩暈が襲ってくる。ふらりと倒れそうになった私を、リューデック様の逞しい腕がとっさに抱き止めた。


「大丈夫か?」

「ええ、ありがとうございます」

「医務室まで送ろう」

「いえ、大したことはございません。よくあることですので」

「よくあるなら余計に心配だ」

「…ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」


リューデック様に送っていただいている間に、訓練を終えたアンゼルム様と廊下ですれ違って会釈する。薄いシャツの下から主張してくる彼の筋肉に顔が赤くなり、リューデック様に心配されてしまったけれど、本当のことはもちろん言えなかった。


リューデック様は診察が終わるまで付き添ってくださり、なぜか食堂までご一緒してくださり、ビュッフェ形式のおかずの中から「これは鉄分」「これはたんぱく質」と言いながら私のお皿に山盛りに盛り付けてくださる。正直淡白ないつものメニューを食べたいけれど、お断りすることなどできない。


「薬だけに頼らず、睡眠や栄養もしっかりとれよ。事務官殿がいなくなったら困るから」

「リューデック様がそんなことを言ってくださるなんて」

「俺だけじゃない。みんな困る。なんだかんだ言って、事務官殿がいないと経費も落ちないし、稟議書だって一生決裁が下りないんだから」

「ふふ」


私は少し顔を赤くしながら「ありがとうございます」とリューデック様に微笑んだ。



お手洗いで手を洗ってから簡単にお化粧直しをしていると、華やかなローゼ様とリリエ様がやってきた。「お疲れ様でございます」と軽く会釈をする。お二人とも第一騎士団に所属する女性騎士で、主に要人女性の警固を担当されている。


「ね、聞いた?アンゼルムの話」とお粉をはたきながらリリエ様が話し出し、私はぴくっと反応する。


「なに?知らない」

「失恋したらしいわよ」

「まじ?」


何ですって?アンゼルム様が失恋?


どんな女性の心もたちどころに捉んでしまいそうな彼が?


私はもうお化粧直しが終わっているのに、話の続きが気になって、口紅をまた塗り直したり、お粉をはたき直したり、前髪を触ってみたりする。


「誰でもいいから慰めてほしい気分だよ、とか言ってた」

「まじで?じゃあワンチャンある?」

「なに、迫るつもり?」

「だってアンゼルムだよ?次男だけど公爵家だったら最低でも伯爵じゃない。ビジュは最高だし普通に優しいし、ああ見えて一途だって話」

「うける。ローゼ、アンゼルムのこと普通に好きじゃん」

「アンゼルムだもーん!正直一度は付き合ってみたいでしょ。付き合うの無理なら、キスだけでもいいわ。まじで上手そうじゃない?」

「わかる。でもああ見えて意外にガード固いんだよね。一緒に飲みには行ってくれるけど、それ止まりみたいな。向こうからは誘ってくんないし」

「わかりすぎる。まじでそれな」


二人はキャハハと笑い、ふとローゼ様が真面目なトーンになった。


「で、アンゼルムは誰に失恋したのかな?騎士団の人?誰かと付き合ってるとかいう話なんて、あったっけ?」

「それがわかんないの。いくら聞いてもアンゼルムもそこは言わなくてさ。でも今日失恋したって言ってたから、騎士団の人なんじゃない?今日の勤務中になんかを見て、失恋したって気づいたんじゃないかな?」

「彼女の浮気現場を見たとか?」

「それか、片思いの相手が別の人といたとか」


心臓がドクドクと音を立てる。アンゼルム様が誰に失恋したのかは私も気になる。


けれどもっと気になるのは「誰でもいいから慰めてほしい」という言葉だ。本当の本当に誰でもいいのなら、私にもチャンスがあるかもしれない。むしろ失恋の痛みにつけ込むくらいずる賢いことをしなければ、私になど一生チャンスはなさそうに思える。


けれど、どうやって声をかけたらいいのだろう。


「お先に失礼いたします」とお二人に挨拶して、お化粧室を出た。


執務室に戻ると、なんとそのアンゼルム様がソファに座って私を待っていた。不意打ちすぎて眼鏡がずり落ちそうになる。


「事務官殿、お帰り」

「お待たせしたでしょうか。申し訳ございません、アンゼルム様。どういったご用件でしょうか」

「この支出って経費で落とせるかな?」

「拝見いたします」


私はリリエ様の言葉を思い出し、鼓動が静まるように願いながら、書類を受け取って冷静なふりをして目を通す。いつものように、いつもの通り。


「私的利用部分が認められますので、全額を経費で支出することはできかねます。ただし公用と私用の按分を証明する書類を添付いただければ、公用部分については支出可能でございます。証明となる書類の例といたしましては、発行元の公印がある…」


説明を終えて「今の説明でご理解いただけましたでしょうか」と目を上げると、思ったよりもアンゼルム様の顔が近くにあって、時が止まる。


肌は陶器のように白く美しく、彫刻のように整った顔。瞳はサファイアのように光を反射しながら、私を映している。そして少し薄くて形のよい唇。


今なら…二人きりの今なら…


「アンゼルム様」

「事務官殿」


二人の声が重なる。


「どうぞ」と譲り合って、結局アンゼルム様が少し赤い顔で話し出した。


「僕さ、失恋しちゃったみたいなんだ」

「そう…なのですね。それはお気の毒なことです」

「僕を慰めるためだと思って…一緒に食事してくれない?一度だけでいいから」


アンゼルム様が私を誘うだなんて、信じられないことが起きている。もしかしたら「鉄仮面」「冷静沈着」と言われる私に、冷静に失恋の話を聞いてほしいと思っておいでなのかもしれない。いくら私でも、アンゼルム様の恋の話など、冷静に聞ける気がしないけれど。


けれどこのチャンスを逃してしまえば、私には二度とチャンスは巡ってこないだろう。


「…私でよろしければ」

「ありがとう」


アンゼルム様が寂しそうに悲しそうに、ほんの少しだけ笑った。



王都の裏通りにある小さなレストランの個室。私はいかにも女性受けしそうなセンスのいい料理を挟んでアンゼルム様と向かい合っていた。緊張しすぎて、もうどうやってここに来たのかさえ覚えていない。喉が渇き、やたらと赤ワインばかり飲んでしまう。


「聞いていい?事務官殿」

「どうぞ」


何を聞かれるのだろう。恋愛経験が少ないもので、アンゼルム様に満足いただける答えを返せるかわからない。


「リューデックのどこが好きなの?」

「私がリューデック様のどこを好きか…というご質問ですか?」

「そう」


なぜそんなことを聞かれるのかは不明だが、正直に「これといって好きなところなどない」と答えるのは、気遣ってくださったリューデック様にも失礼だろう。


「…強いて言うのであれば、きちんと説明すればわかってくださり、多少強引ながらも優しいところでしょうか」

「そうなんだ」


訳がわからない。こんな質問に答えることが、アンゼルム様の失恋の痛みを癒すことになるのだろうか。なぜせっかくのアンゼルム様との食事で、まともに書類ひとつ出してこないリューデック様の話をしているのだろう。


リューデック様の話をしている場合ではない。私は彼の失恋の痛みにつけ込むために来たのだ。


軽蔑されるだろう。けれど、一生の思い出にする覚悟を決めたのだ。


私はゆっくりと立ち上がる。ワインが全身に回ってふらふらする。


「事務官殿、ふらふらだよ!」とアンゼルム様がさっと私を支えてくれる。過去最高にアンゼルム様と接触している面積が広い。触れている部分からは熱が回ってきて、ワインとあいまって訳がわからないくらいドキドキする。


「アンゼルム様。失恋の痛みを癒しに来られたのですよね?」

「うん…」

「失恋の痛みを癒すのは、触れ合いだと聞き及んでおります」


私はアンゼルム様に支えられながら、彼の頬を両手で挟んで、唇を奪う。キスなんて初めてで、どうしたらいいのかわからない。ただ唇を押し当てただけのキス。


「事務官殿…」


苦しそうに切なそうなアンゼルム様の声がするけど、止める気はない。


唇が重なり、お互いの熱が溶け合うよう。口の中だけじゃなくて、全身が溶け合うように熱い。アンゼルム様の「事務官殿、今日も可愛いね」という言葉を思い出しているときよりずっと熱い。


永遠のようにも一瞬のようにも感じられたキスのあと、私は彼から身体を離し、俯いて謝る。彼の顔を見ることなんてできない。涙がこぼれてくる。


「アンゼルム様、お許しください。私はあなたをお慕いするあまりに、あなたの失恋の痛みにつけ込みました。どうぞ軽蔑なさってください。けれど私は、このキスを一生の思い出にいたします。それほどあなた様のことを…」

「待って、事務官殿」


アンゼルム様の声が、少し震えていた。


「僕のこと、好きだって?」

「ええ」

「リューデックのことは好きじゃないの?」

「私がお慕いしているのはアンゼルム様です」


沈黙。


「僕、リューデックと事務官殿が廊下を一緒に歩いてて、事務官殿が赤い顔してて…食堂ではリューデックが事務官殿に話しかけてて、事務官殿が嬉しそうに照れたように笑ってて…だから事務官殿がリューデックのことを好きなんだと…」

「リューデック様は私の体調を気遣ってくださる親切な方ですが、お慕いしてはおりません」

「全部僕の勘違いだったってこと?」


アンゼルム様は息を吐き、照れたように笑った。


「格好悪いな、僕。失恋したなんて言いふらして、事務官殿の優しさにつけ込んで慰めてもらおうとしたんだ。ロマンチックなレストランで食事して、最後の思い出にして事務官殿のこと諦めようって…」


思わず顔を上げる。目が合った。彼の青い瞳の中に、自分がいる。


「僕も君が好きだ、事務官殿」

「アンゼルム様」


ふっと笑みがこぼれた。


「じゃあ、私たちはお互いにつけ込もうとしていたのですね」

「そうだね」


アンゼルム様が、柔らかく笑う。


「ね、もう一回つけ込んでキスして」


私はさっきより少し余裕をもって、彼の頬に手を当てる。背伸びしようと思った瞬間に、もう唇は触れていた。


「油断したら、僕につけ込まれるよ」


その言葉に、思わず笑ってしまう。


「アンゼルム様になら、いくらでも」

読んでいただきありがとうございます。

アルファポリスでは連載形式になっていて、今のところ(2026年4月21日現在)ひとつだけ後日談を書いているので、気に入ってくださった方はぜひ。

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