1-2 クィルと町の人々
男は足が速く、ローリアが全力で走っても追いつけそうになかった。
「泥棒! だれか止めて!」
ローリアが叫ぶと、道行く人の何人かがこちらを向いた。男が角を曲がろうとした時、誰かが飛び出してきて男に体当りした。男がはじけ飛び、バッグが宙を舞った。飛び出してきた少年がそれを受け止めた。
「私のバッグ!」
ローリアは少年に駆け寄った。少年は手にしたバッグとローリアを交互に見て、ちょっと惜しむようにゆっくりとバッグを差し出した。その隙に男はいなくなっていた。
「ありがとう」
ローリアはバッグを抱きしめて言った。
「母の形見なの」
「この辺はスリが多いから、道を歩くときにボーッとしてちゃだめだよ」
少年が言った。声は優しいが表情は険しかった。金髪に、少し幼いが整った顔。服は高価ではないがきちんと洗濯されて清潔そうだ。村では見かけない美しい見た目をしていて、ローリアはつい少年をじっくり見てしまった。
「君、この街の人じゃないね」
視線が自分の服に向いていることに気づいて、ローリアは顔を赤らめた。手持ちの服で一番ましなものをきちんと手直しして着てきたのだが、ところどころすすけている。街を歩く女性たちの華やかで清潔な装いに比べると、自分一人だけ雑巾を着ているように思えてきた。
「侯爵様に会いに来たの」
ローリアは正直に言った。
「だから、22日までこの街にいたいの」
「君もあの選抜に参加するつもり? 女の子なのに」
「目的は選抜じゃないの、お金を借りたいのよ」
ローリアは妹の話をした。
「だから、まずエリザベスの店に行って侯爵を探して、会えなかったら22日の選抜についていくことにしたの。とにかく、侯爵に会えればいいのよ」
「なんで侯爵が金を貸してくれると思ってるの?」
少年は呆れた顔をした。
「金持ちは庶民になんか興味ないよ。貴族ならなおさらだ。それに、エリザベスの店に女の子が夜中に一人で行くなんて危ないよ。酔っぱらった男たちがどれだけ猥雑で粗野か知らないの? 襲われるよ?」
ローリアは「猥雑」という言葉を知らなかったのだが、どうやら危険らしいということは理解した。
「じゃあ、22日を待つしかないわ」
ローリアはがっかりしながら言った。
「ほんとにあの選抜に行くつもり?」
「そうだ!あなたが参加すればいいのよ!」
ローリアは思いつきで笑顔になった。
「私は付き添いの家族になるわ」
「やだよ付き添いなんて! 男は一人で勝負するもんだ!」
「ということは、あなたも参加するつもりだったのね?」
ローリアはニヤリと笑った。
「なら、ちょうどいいじゃない。決まりね。そうだ、今日泊まるところを探さなくちゃ」
「勝手に決めないでくれる?……いくら持ってるの?」
「え?」
「お金だよ。この街の宿はけっこう高いよ」
「えっと……」
ローリアはバッグの中身を数えた。
「そんな金額じゃ、安宿にも泊まれないね。しかも、その安宿もうさんくさい男ばかりだから、女の子が泊まるなんて危ないよ。襲ってくれって言ってるようなものだね」
少年が言った。ローリアは身震いした。
「じゃあ、さっきの広場で野宿するしかないわね」
「もっと危ないよ!」
少年は顔をしかめて頭をひっかいた。しばらく困ったようにあたりを見回していたのだが、
「仕方ない、ついてきて」
少年が道を歩きだした。ローリアは不安に思いながらついていった。見た目のよさにつられてうっかり仲良く話してしまったが、この少年を信用していいのだろうか。
少年は華やかな街を抜けると、少し地味なエリアに入り、食料品店に入った。中には、ローリアが見たことのない缶詰や瓶詰が大量に積んであった。チーズの塊もごろごろしている。
「あんた、ずいぶん早く帰ってきたね。請求書はちゃんと届けてくれたのかい」
カウンターにいる年配の女が言った。ピンクの服の上から、元は白かったのであろう色あせたエプロンをつけていた。ローリアはそのエプロンを見て母親を思い出し、少し涙ぐんだ。
「おばさん。この子を2日ばかり泊めてくれない?」
少年が遠慮のない声で言った。
「ハア?あんた、仕事中に女をひっかけてきたのかい?」
「違います」
ローリアが口を挟み、自分の状況を説明した。
「確かに、ソムィーズ侯爵はお優しい方だよ」
女が腕を組んで考え込みながら言った。
「支払いも期日前にきっちりしてくれるしね。最近は貴族でも平気で料金を滞納してさ、みんなだらしないったらないのさ」
「そうなんですか」
「あんた、侯爵が金を貸してくれなかったらどうするつもり?」
「えっ?」
「諦めて村に帰るかい?それともこの街でメイドか娼婦でもするつもり?それなら宿は貸せないよ」
ローリアはなんと答えていいかわからなかった。薬の代金は、ローリアが働いて払えるような額ではない。侯爵に借りる以外に解決法が思いつかない。
「ていうか、侯爵が出してくれたとして、どうやって返済する気?」
「それは……」
「ちゃんと考えてなかったろ」
女が手を空中でひらひらさせながら目を丸くした。
「そんな甘い考えでこんな危ない街に飛び込んでくるなんて、見上げた女だね、まったく」
ローリアはそれを聞いて落ち込んだ。急に、自分が途方もない愚か者に思えてきた。
「おばさん、2日でいいんだ」
横で見ていた少年が言った。
「僕が選抜に出るときまででいいんだよ。ここには屋根裏があるじゃないか。そこを使わせてよ」
女は少年とローリアを交互に見た。そして、
「しょうがないね。2日だけだよ」
と、ため息交じりに言った。
「ただし、店の仕事もしてもらうよ」
「ありがとうございます!」
ローリアは飛び上がって喜んだ。
「私、働き者だからなんでもします!」
「じゃあ、まず屋根裏を片付けて。キー! このお嬢さんを屋根裏に案内したら、すぐ請求書を届けに行くんだよ!」
「わかってるよ」
キーと呼ばれた少年は、ローリアを店の裏の急な階段に案内した。
「あなた、キーって名前なの?」
「本当はクィルって言うんだけど」
「ク……」
「父がドゥロソ人なんだ。ロンハルト人には発音しにくい名前だろ。だからみんなキーって呼ぶ」
「もう一回発音してくれない?」
「クィル」
「クッ……イル」
ローリアは口をとがらせながら懸命に声を出した。
「クィル」
「クィル」
「そう。わりと上手いね」
「クィルね。できるだけちゃんと発音するようにするわ。名前って大事だもの」
ローリアがそう言うとクィルは立ち止まり、変なものを見るような目をローリアに向けた。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
クィルが、かわいらしく笑った。
「君、変わってるよね」
「私の名前はローリアよ」
「ローリア」
クィルが言った。
「覚えとくよ」
屋根裏部屋はほこりだらけになっていた。長年、人が足を踏み入れていないようだった。天井から床の箱に向かって、立派なクモの巣がいくつも垂れ下がっていた。汚れすぎて開けるのが怖い衣装ケースがいくつか並び、その下に古いベッドらしいものが埋もれていた。
「これは、大掃除が必要ね」
「僕は手伝わないよ」
クィルが顔をしかめながら言った。
「いいわよ。あなたは早く請求書を届けてきなさいよ」
言われている間に、クィルは階段を駆け下りていった。ローリアは改めて屋根裏を見回したあと、
「さて、大掃除しなきゃ」
と笑いながら言って、掃除道具を探しに下に降りていった。




