8話
フォルシェンド公爵家の屋敷は、高く厚い石塀に囲まれていた。
その内側に住まう少年――シオン・フォルシェンド。8歳。彼は、この塀の外に出たことがない。
それは単に病弱だったからではない。
否――もっと深く、もっと切実な理由があった。
彼の存在は、あまりにも異質だった。
神のごとき輝きをまとうその瞳。全身から溢れる神秘。
たとえ本人に自覚がなくとも、彼を見た者は直感する――この子は、違う、と。
家族も使用人たちも、それを理解していた。
彼を、世に晒してはならないと。
外に出せば、必ず争いが起こる。
傷つけようとする者が現れるかもしれない。
そして何より――この子自身が、世界の悪意に触れて傷つくのを、見たくなかった。
だからこそ、彼を外に出すという選択肢は、誰の中にもなかった。
だが――
「……ごめんね、シオン」
夜、寝顔を見守るオリヴィアが、ぽつりと呟く。
「本当に、これがあの子のためになるのか……」
クローヴィスの手には、未開封の外出許可願い。いつかの使用人が提案したものだった。
「でも……外に出すわけにはいかない」
グラーヴェは唇を噛む。シオンを傷つける世界があるかもしれないことが、何よりも怖かった。
「これが、あの子を守るためだ……」
公爵家の者たちは、皆そう言い聞かせていた。
「……本当に、ごめんなさい」
愛しているからこそ――
信じているからこそ――
それでも、閉じ込めてしまった。
守るために、幽閉した。
その事実に、家族は今も胸を痛めている。
愛情と罪悪感の狭間で揺れながら、今日も塀の内からシオンを見つめていた。
⸻
そんな彼は今――
中庭の片隅、塀の近くで、ぽつんと立っていた。
塀の上を越えて、蝶がひらりと舞い降りる。少しのあいだ彼の周囲を漂ったかと思えば、すぐに塀の外へと戻っていく。
少年は、それを目で追いながら、ぽつりと呟いた。
「……あやつら、よう飛ぶのう……」
けれどその声に、物悲しさは一切なかった。
羨望も、戸惑いも、疑問すらも。
ただ、少しばかり不思議そうに首を傾げた、それだけ。
そして次の瞬間――
「ほわぁ……っ、う、うまっ……! 本日の菓子、殊更にうまし!!」
満面の笑みでクッキーを頬張った。
彼は幽閉されていることに、まるで気付いていない。
外に出られないことを、不満に思うことすらない。
――かつて、神であった彼は、地に縛られる日々を過ごしていた。
特定の土地に留まり、人の祈りを受け、変わらぬ景色を見守る毎日。
ゆえに“出られぬこと”は、むしろ馴染みのある感覚だったのだ。
それよりも彼にとっては――
「この世にては、日々このような甘味が食せるのか……まこと、現世とは素晴らしき所よのう……!」
クッキーの味が何よりも衝撃だった。
そんなシオンに、最近できた“お気に入り”があった。
それは――馬の世話。
公爵家の厩舎には、良馬が何頭もいる。
だが、彼らは皆、シオンが近づくだけでブルブルと震え、目を白黒させる。
それもそのはず。彼は神なのだ。本能で理解してしまう。
だが、当の本人は――
「……寒いのかえ? 毛が足らぬかのう?」
と、真顔で心配していた。
「よいしょ、よいしょ……じっとしておれ。今、たてがみに櫛をいれてやるさかい」
立髪を丁寧に梳きながら、にこやかに声をかけるシオン。
動物好きな彼にとっては、愛しい時間。
ただ、馬たちにとっては、ある意味、試練である。
使用人や騎士たちは毎回、焦りに焦っていた。
「し、シオン様……っ! 馬の世話など……!」
貴族が、しかも公爵家の嫡子が、厩舎に入り馬の世話をするなどあり得ない。
だが、シオンの微笑みに、誰も止めることができなかった。
⸻
そして――当初、最も騒然となったのは、あの馬である。
公爵の愛馬・シード。
誇り高く、荒々しい気性を持ち、
公爵クローヴィス以外の者に背を許したことはない。
その馬が――
「おぬしは、ようおるのう。誇りをたずさえながらも、道を誤らぬ心を持っておる」
シオンの前で、静かに跪くように頭を垂れたのだ。
瞳はどこまでも穏やかに潤み、視線を下に落とし、
櫛を持ったシオンが届きやすいよう、首の位置を自ら調整する。
さらに、周囲の馬たちがビビり散らして腰を抜かしていると――
「ヒヒィィン!!」
シードが鋭く鳴いた。
威嚇ではない。それは叱責であった。
震える仲間たちに向けて、
「シオンの前にて座れ!」とでも言うかのごとく、指導を始めたのだ。
結果――
黒髪の少年の前に、馬たちが綺麗に並び、座り込むという異常事態が発生した。
「……シードが、シオン様に……!? そ、そんな馬鹿な……」
目を見開く騎士たちの前で、
シオンは、また今日も言うのだ。
「よきこっちゃ。さすれば毛並みも整いやすいのう」
⸻
屋敷の中では、
今日もまた、シオンの存在に恐れ、愛し、悩む者たちがいた。
だが、彼自身は――
「クッキー、うま……っ!!」
全てを知らず、今日もまた、平穏と笑顔の中にいた。
――シオンは、今日も気付かない。