6話
この世界での暮らしにも、少しずつ慣れてきたとはいえ、シオンにとって戸惑うことはまだまだ多かった。
そのひとつが、食事だった。
ある日の昼食時。
豪奢な食卓に並べられた料理を前に、シオンは神妙な顔つきでナイフとフォークを握っていた。手はぷるぷると震え、肉に刺そうとしては滑らせ、切ろうとしてもすべってしまう。
「……む、また逃げおった」
ナイフが皿にキンッと当たって音を立てるたびに、周囲のメイドたちは「お、お気をつけくださいませ」とヒヤヒヤしていたが、シオン本人は真剣そのもの。
そんな中、隣に座っていたグラーヴェが身を乗り出した。
「シオン、無理に一人でやろうとしなくてもいいんだよ? まだ上手く扱えなくて当然だよ? 大丈夫、僕が手伝ってあげるから!!」
心配というより、どこか嬉しそうな顔でナイフを手に取る兄。
その勢いに少し驚きながらも、シオンは小さく頷いた。
「うむ、頼む」
その一言に、グラーヴェの目が見開かれ、思わず叫ぶ。
「か、可愛い!!」
「ん?」
訳もわからず眉をひそめるシオンに、周囲のメイドたちはクスクスと笑い声を漏らした。
ナイフとフォークにはまだ不慣れだったが、この世界の食事そのものは、シオンにとって毎日が楽しみだった。
「日々かならず食を摂らねばならぬとは、斯様にも人の身とは手間なるものよな……されど、かくも美味なるものを毎に味わえるとは……うん、嬉しきことじゃのう……」
神としてあった頃、彼にとって食事とは必要なものではなかった。
お供えとして捧げられたものを気まぐれに口にする程度で、毎日三度、時間を決めて何かを食べるという感覚自体がなかった。
だからこそ、今この日々が、あたたかく、面白く、そして不思議だった。
その日の午後、シオンはクローヴィスの執務室を訪れていた。
父の机に広がる書類の山を、じっと覗き込む。
「それは、領地の水路に関する報告書だよ。まだ読めないだろうけど、興味があるのか?」
微笑む父の横で、シオンは紙を手に取り、目を走らせる。
「……ふむふむ、この川べりの里じゃな。なんと、水の量がちと減っておるのう。ほほぅ、上流でいじられたせいかや?」
「……え?」
クローヴィスが思わず手を止めて顔を上げた。
だが、周囲の執事や秘書たちはそれを「たまたま地名を聞いたことがあるのか、真似事だろう」と笑って見守っていた。
文字を読む年齢ではないはず。だから、気の利いたおままごととして受け止められていた。
「ふふ……父上や、これ、よう書かれとるのう」
「……ああ、そうか。ありがとう、シオン」
父が羽ペンを走らせる音をじっと見つめていたシオンに、ふとクローヴィスが声をかけた。
「書いてみるかい?」
「よいのかや?」
差し出された羽ペンを受け取り、クローヴィスの膝の上、紙の前に座ったシオンは、ペンを握り、筆先を紙に――
「……うわ、書きづらっ!!」
思わず叫ぶ。
「うぬ、なんじゃこの筆先、ぴょこぴょこと落ち着かぬのう……まったく墨がのらぬではないか~!」
その反応に、父は目を丸くし、周囲の使用人たちは小さく笑みをこぼした。
「なんだか楽しそうね」
「こうしていると、ほんとに年相応のお子様に見えるわ」
シオンは眉を寄せながら、もう一度羽ペンを持ち直した。
夜。
シオンの部屋には、日が落ちたばかりのやわらかな灯が灯っていた。
その中央、ふかふかのベッドの上では、彼が嬉々として跳ね回っていた。
「ふふ……今日の跳ね加減は、ことのほか愉しきのう!」
昔は畳に敷いた薄布団で眠っていた彼にとって、この沈み込むベッドはまるで雲の上。
まったくもって神聖ではないが、それがたまらなく愛しい。
「シオン、何をしているの……!」
扉を開けて入ってきたオリヴィアの声に、シオンは跳ねた姿勢のまま固まった。
「……こら。ベッドで暴れるなんて、はしたないですよ」
「……すまぬ……」
しゅんと項垂れるシオンに、母はため息をつきつつも、その子供らしい仕草に少しだけ笑みを浮かべていた。
その後、寝る前のひとときを過ごすシオンは、本棚から一冊の本を手に取り、ベッドに座り込む。
「これは巻物ではのうて……紙が一枚ずつ、ふわりと捲れるようになっておるのじゃなぁ……」
ぺらっ、ぺらっ。
内容を読むでもなく、意味もなくページを行ったり来たりめくり続ける。
「見やすうて、ええの……」
その様子を部屋の外から見ていたメイドたちは、目を細めてささやき合った。
「……子供らしいって、こういうことなのね」
「今までが不思議すぎて、なんだか……安心しちゃうわ」
「本当に、あの子は子供なんだなって……可愛くて、仕方がないわ」
――神の器に宿った少年は、
まだ、人の世のすべてを知らぬまま。けれど、確かに今を生き始めていた。