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5話


公爵家の使用人たちは日々騒然としていた。

 理由は単純――この家の次男坊の周りで不可解な出来事が、次々と起こっているからである。


 この日も朝から様子がおかしかった。


「おはようございます、シオン様。今日もお目覚めが早いですね」

 部屋に入った若いメイドがそう声をかけた瞬間、ふわりと空気が揺れた。


 「……あれ? 窓、開いてませんよね……?」


 メイドが首をかしげる間に、部屋のカーテンがふわりと舞い、書類がひらりと浮いた。

 床に並んでいた積み木までもが、何かに押されたようにフワ……と浮遊する。


 「うぇ……うぉぉお!? な、なんですのこれ!!」


 慌てて積み木を押さえようとしたメイドだったが、体の方が先に浮かびかけた。

 彼女は慌てて机につかまり、ようやく体を落ち着けたが、顔は真っ青だ。


「……また……また、妙なることに……なりしか……」


 部屋の中央には、幼い姿のシオンがぽつんと座っていた。

 長い睫毛を伏せ、両手をぎゅっと握りしめたまま、体を震わせている。


「すまぬ……またしても……余の力が……抑えられなんだ……」


 「い、いえ! いいんです! ご無事でさえあれば!」


 そう返しながらも、メイドの手は震えていた。


 そのとき――


 ひゅうぅぅぅぅっ……

 窓が閉まっているにも関わらず、部屋に冷たい風が流れ込んできた。

 真夏の朝だというのに、空気は一気に冷え込み、白い息がほうっと浮かぶ。


 「……さむ……っ。な、なんで……?」


 従者が戸惑いながら腕をさすっていると、今度は逆に、空気が熱を帯びたように歪み始めた。


 「ひっ……!? あっつ……っ!? え、え?ええええ!?」


 天井に吊るされたシャンデリアがミシミシ……と音を立てて揺れだす。

 机に置かれたインク瓶がカタカタ震え、床に転がる丸い積み木が勝手に転がり始めた。


 「シオン様!? しっかり……!」


「あかぬ……止まらぬ……! なにゆえ……なにゆえ沈まぬのじゃ……っ」


 震える声が、真っ白な唇からこぼれる。


「これ以上は……ならぬ……これ以上、出でてはならぬぞ……!」


 目を閉じ、シオンは必死に息を整える。

 その幼い体から、見えない波のようなものがじわじわと広がっていった。


 やがて、ぱんっ!と何かが弾ける音がして――

 宙に浮かんでいた本やカーテン、机の上の小物たちが、一斉に床へ落ちた。


 しん、と静まり返る部屋。


 「……お、終わった……?」


 メイドがそっと手を離すと、今度は、部屋の空気がまるで春の陽気のように穏やかに包み込む。


 「……また……仕出かしてしもうた……そなた、わらわに……腹を立てておるのか……?」


 シオンは小さく呟いた。


 そう、彼は怒られると思っていた。


 力を暴走させてしまったこと。

 屋敷の物を勝手に浮かせてしまったこと。

 温度をめちゃくちゃにして、メイドを怖がらせてしまったこと――


 でも。


 「……いえ、怒ったりなど、いたしません」


 メイドはゆっくりと膝をつき、同じ目線にしゃがみこんだ。


 「シオン様は……ご無事でいらっしゃいますから。それだけで……私どもは嬉しゅうございます」


 その言葉に、シオンは目を丸くして彼女を見上げた。


 「まことか...?」


 「ええ。ほんとうです」


 メイドの笑顔は、どこまでもあたたかかった。

 その姿を見て、シオンはようやく微笑んだ――まるで、迷子の神様が少しだけ人の優しさを思い出したように。


 


 別日、部屋に入ったメイドが、蝋燭の火を見て首を傾げた。

 昨夜から灯していたはずの蝋燭が、まったく減っていない。芯も蝋もそのまま、まるで時間が止まったかのようだった。


 「……おかしいわね。こんなに綺麗なままなんて」


 メイドは火消し帽を手に取り、ゆっくりと炎にかぶせる。だが、炎は消えなかった。


 「……あれ?」


 帽をもう一度深く押し当て、布巾で覆い、さらには息を吹きかけるが、それでも炎はゆらゆらと揺れ続ける。


 「なんで消えないの……?」


 背後から、ちいさな足音が聞こえた。


 「また、蝋燭が言うこと聞かんのかえ?」


 くすぐったいような響きを持つ声に振り返れば、シオンがゆっくりと近づいてくる。

 小さな手がそっと蝋燭に向けられた瞬間、ふっと、何事もなかったかのように火が消えた。


 「……」


 メイドはしばらく固まったまま動けなかった。


 


 またある日は、廊下に据えられた大きな鏡の前での出来事だった。


 その鏡は古く、装飾も見事な年代物。来客用として磨き込まれたそれに、通りかかったシオンがふと足を止めた。


 自分の姿が映った瞬間、彼はむず痒そうに眉をひそめる。


 「……やっぱり、この装束、どうにも着づらいのう……」


 鏡の中に映るのは、淡いクリーム色の上質なチュニックと、膝丈のズボン。

 繊細な刺繍が施された高級子供服は、貴族の子息らしく品があり、仕立ても良い。けれど――


 「すそが短いし、帯も細いし……この肩の空き具合、なんや、落ち着かん……」


 袖をそっと引っ張ってみるが、もちろん布は足されるわけもなく、シオンはうっすらとため息をついた。


 「わらわ、もっとこう……裾がひらひらして、白ぅて、重たくて……あれの方がしっくりきたんやが……」


 神としてあった頃、彼がまとっていたのは、重厚な白装束に金の縁取り。

 衣擦れの音さえ神聖に感じられるような、威厳を纏った衣であった。


 いまの服は、軽い。柔らかく、肌触りもいいが――どこか、心もとない。


 「……どこかが足りひんのやけどなぁ……」


 そうぼやく子供の瞳は金色に輝いている。


 その様子を背後から見ていたメイドたちは、息を呑んだ。


 「……また……金色……」

 「ええ……やっぱり、黒じゃない……」


 鏡の中でだけ、まばゆいほどの金色に光る瞳。

 けれど、実際に見えている彼の瞳は、深く黒い。


 「シオン様、そのお召し物、とてもよくお似合いですよ」


 メイドのひとりが慌てて声をかける。


 「まことか? されど、似合うと申されても……なんとも落ち着かぬて、裾がすうすうして敵わぬのじゃ……」


 シオンはそう言って眉を寄せたまま、袖口をそっと掴み直すのだった。


 


 そして、フォルシェンド家を騒然とさせた事件が起きたのは、その翌朝だった。


 「……シオン様の部屋が……ない!?」


 いつも通り朝の支度に向かったメイドが叫んだ。


 彼の部屋があったはずの場所には、ただの壁があるだけだった。ドアも、窓も、家具の影もない。

 まるで、最初からそこに部屋など存在しなかったかのように――


 「これは……一体……?」

 「まさか、そんなことあり得るの……?」


 クローヴィスは顔色を変えて駆けつけ、魔導士たちを呼び、グラーヴェも剣を腰に屋敷中を駆け回る。

 「シオン! どこだ!」と必死の声が響く。


 屋敷中が混乱の渦に包まれる中、使用人たちも涙を浮かべて探し続けた。


 


 そんな中――

 台所の奥で、甘い香りと共に、とある少年がクッキーをかじっていた。


 「ふふ、これは誠にうまきのう……」


 椅子によじ登り、器用にお菓子をつまんでいるのは、他でもないシオンその人だった。


 「……シオン様ぁぁぁぁぁぁああああっ!!」


 台所に駆け込んできたメイドの絶叫が響き渡る。


 「ど、どこにいらしたんですか!? みんな屋敷中を探し回って……!」


 「ん? よき香りがしたゆえに、つい匂ひを頼りて参りしが……」


 ぽつりと答えたシオンは、さして悪びれる様子もない。


 「ここの甘味、なんとも美味なり。昔口にしておった菓子とは、まるで趣きが異なるのう……されど、うまきことこの上なし。まことに美味じゃ。」


 彼のそばには、汗をかきながらも苦笑いを浮かべる料理人の姿があった。


 「……申し訳ありません。おやつの準備をしていたところに、シオン様がふらりと現れて……。クッキーに興味を持たれたようなので、少しだけ渡したのです。まさか、そんな大騒ぎになっていたなんて……」


 その言葉に、周囲は脱力し、安堵と疲労でその場に崩れ落ちる者もいた。


 そんなこととはつゆ知らず、シオンはクッキーを口に含み、ほっとため息をつく。


 「んま……♡」


 


 シオンは気付かない。

 ただ彼が歩いただけで、空間が歪み、時が揺らぎ、世界が静かに跪いていることに――



 

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