3話
……ひどく、静かだった。
光も音も、何もなかった。
けれど、我が内側には絶えず波があった。
──これは、神力というやつじゃな。
この器はまだ未完成でのう。
五年前に目覚めた時、ほんの一時だけ目を開いたが、すぐに分かった。
このままでは、我はこの身を壊してしまう。
ゆえに、ひと眠りして、力を収める時間をとることにした。
……なかなか手間のかかるものじゃな、人の身体とは。
けれど、今。
我が身の内で、波は穏やかになった。
力の奔流は、ようやく器に馴染み、留まることを許した。
目を開けると、見慣れぬ天井があった。
静かな寝室の気配。ほのかに花の香。
そして、あたたかく包み込むような気配が、すぐ隣に──
……ああ、これは、“家族”のものじゃのう。
なつかしく、あまやかで、温かい。
我は、起き上がろうとするでもなく、ただ、口をひらいた。
「……お腹が、すいたのう。」
それはまるで、朝の挨拶のように自然な言葉だった。
しかし次の瞬間、布団の外から悲鳴のような叫びが聞こえた。
「シ、シオン!? シオン、起きたの!?」
「っ、オリヴィア!シオンが、喋った……!?今、喋ったぞ!!」
駆け寄る気配。包み込まれるような腕のぬくもり。
顔を上げれば、濡れた目でこちらを見つめる女と、その隣で震える男の姿。
そして奥で、声を上げて泣いている……これは、兄じゃな?
「ほんとうに……ほんとうに……っ、目が覚めたんだね……!」
「……大げさじゃのう。ほんの一眠りじゃったのに。」
そう答える我に、三人はまた泣き出すのだった。
この時は、シオンが目覚めた感動で誰も気づかなかった。
五年もの間、眠り続けた赤子が――突然、普通に喋っているという事実に。
いや、本人であるシオン自身が、「赤子が喋るのは普通ではない」という常識を、まるで理解していなかったのだ。
それもそのはず。彼は――神である。人間の常識など、まだ知らない。
クローヴィスは急ぎ、信頼のおける医者と魔導士を屋敷に呼びつけた。
目覚めたばかりの息子の容態を、一刻も早く確認してもらうためである。
しばらくして、医者と魔導士が駆けつけ、シオンが眠っていた部屋の扉が静かに開かれた。
「お初にお目にかかります、シオン様……」
年配の医師が声をかけながら、丁寧に脈を取り、瞳を覗き込む。
身体に異常は見られない。どころか、五年間昏睡していたとは思えぬほど、体温も脈も安定していた。
続いて魔導士が一歩前に出て、静かに手を差し伸べた。
「シオン様、少しだけ、魔力の流れを視てよろしいですか?」
だがその言葉に、シオンは不思議そうに首を傾げ、こう答えた。
「ふむ……そなたが、ここの術者か?」
瞬間、空気が張り詰める。
「っ……術者……? あ、はい、わたくしは……魔導士でございます……」
驚きに、声が裏返る魔導士。
隣の医者も、表情を強張らせていた。
目覚めたばかりの幼子が、まるで古から生きる賢者のような口ぶりで、自分たちの職掌を正確に見抜いた。
しかも、まったく恐れる様子もなく、堂々とした佇まいで――。
ようやく、クローヴィスは何かがおかしいと気づく。
だが、息子を見つめるその瞳に迷いはなかった。
「この子は……我が息子だ。それ以外の何者でもない。」
そう、静かに、けれど揺るぎない声で言った。
魔導士は、なおも動揺しながらも、シオンの気配をそっと探る。
直接的な測定などできるはずもない。魔力の有無を視るには、正規の手段――すなわち、教会の儀式を通すしかないのだ。
それでも、肌で感じる何かがある。
(……これは魔力ではない。だが、似て非なる――もっと根源的な……)
その瞬間、膝が震えた。
(人が持つには、あまりに純粋すぎる……力だ)
そんなやりとりを部屋の隅で見守っていた若い使用人は、ふと異変に気づく。
目覚めた主――シオンの周囲に、いつも浮かんでいた“仮面”の存在が、どこにもいない。
五年間。
ずっと傍にいた、名もなき異形の面。
おかめ、天狗、翁――この世界では誰も知らぬ、異国の神々のような面が宙に浮き、シオンの周りを漂っていた。
それを初めて目にした時、彼女は悲鳴を上げて逃げ出した。
あまりに異様な光景。まるで悪魔の使いのような存在に見えたからだ。
しかし時が経つにつれ、彼女は気づいた。
仮面たちは決して害を為さぬ。ただ静かに、優しく、眠るシオンの周囲を守っていた。
その仮面たちが、今は……一つもいない。
思わず、口を手で押さえながら呟く。
「……いなくなった。目覚めたから……?」
そして彼女は、ぞくりと背筋を撫でる冷たい気配に気づいた。
(……この子は、いったい何者なんだろう……)
だが、それでも。
誰もが、シオンの周囲に満ちる“あたたかな光”に包まれていた。
それがどれほど異常で、どれほど畏れ多いものであろうとも――
フォルシェンド家にとって、シオンは“愛すべき息子”であるという事実に、何の変わりもなかった。