2話
──金の瞳が深き黒へと染まり、静かにまぶたが閉じられてから。
フォルシェンド家の次男・シオンは、再び目を覚ますことなく、深い眠りに落ちた。
それは、まるで春を待つ蕾のように、あるいは、何かを封じるような、静謐なる眠りだった。
医師を呼び、聖職者を頼り、王宮付きの魔導士までも招かれたが、誰ひとりとしてその理由を突き止めることはできなかった。
「肉体に異常はない。だが……目覚めない」
そう呟く医師の顔にも、戸惑いが浮かんでいた。
オリヴィアは、毎晩、眠るシオンの枕元で手を握り、祈るように語りかけ続けた。
「……私が、もっと丈夫に産んであげられていれば……」
誰に聞かせるでもなく、掠れた声で漏らした言葉を、夫であるクローヴィスが優しく受け止める。
「君がいたから、この子は生まれてきてくれた。それだけで、もう十分だよ」
そう囁きながら、彼は静かに妻の背を撫でるのだった。
その姿を見ていた、長男グラーヴェ。
兄として、何もできない己の無力さが胸に重くのしかかった。
「……父上。私、もっと強くなりたい。弟を……助けたい」
そう決意し、彼は魔法の書を手に取り、日々修練を重ねていく。
弟のために、家族のために。わずか十にも満たぬ少年が、静かに歩み始めた道だった。
屋敷には、時折、鈴のような涼やかな音が響いた。
シャラン──シャラン……
誰も鈴など鳴らしていない。にもかかわらず、その音は確かに空間を震わせるように鳴り響いた。
音が響いた時、空気がわずかに変わる。まるで、見えない“何か”が、そこに宿ったかのように。
──そして、さらなる異変が屋敷を包む。
ある夜、シオンの寝室に向かった女中が、青ざめた顔で駆け戻ってきた。
「……仮面が、宙に……浮いて……っ!」
驚いた者たちが駆けつけると、そこには確かに“仮面”があった。
誰もいない空間に、おかめを思わせる微笑みの女面が、宙にふわりと浮かんでいた。
別の日には、ひび割れた翁の面。
またある日には、長い鼻を持つ天狗の面。
この世界には“能面”という概念は存在せず、それらは人々にとって“異形の仮面”だった。
最初にそれを目にした者は、恐怖に震え「悪魔の使いか」と疑った。
だが、仮面から感じる気配は異なる。
どこか神聖で、温かく、懐かしささえ宿した気配。
仮面たちは誰にも危害を加えず、ただ心配そうに、眠るシオンの周囲をふわりふわりと舞うばかりだった。
やがて人々は、それらが“敵ではない”と理解するようになる。
不安に思ったクローヴィスは、信頼する魔導士を呼び寄せた。
魔導士は仮面たちの存在を目にした瞬間、瞳を見開き、膝を震わせた。
「これは……魔力ではない……魔導の理から逸した、まったく別の……とてつもない力……」
彼の背中を伝う冷や汗が、その“異質さ”を物語っていた。
「もしかすると……このお子は……人ではないのかもしれぬ……」
そう呟いた魔導士の目には、畏れと敬意がないまぜとなって浮かんでいた。
だが、クローヴィスは静かに首を横に振った。
「何であろうと、あの子は我が子だ。フォルシェンド家の愛しき息子──それだけは、揺るがぬ事実だ」
オリヴィアもまた、微笑みながらシオンの髪を撫でる。
「この子が眠っているなら、私たちが夢を守ってあげましょう」
そうして五年──
兄は弟のために日々魔法を学び、
両親は変わらぬ愛を注ぎ続け、
屋敷の者たちは、異形の仮面に怯えながらも、そっと共に過ごす術を覚えていった。
そして──その時は、ようやく訪れる。