第十五話 名前
焚き火の赤い光が、静かに三人の顔を照らしていた。
小さな炎のはぜる音だけが、夜の静けさを埋めている。木々の間から月明かりがこぼれ、それもまた淡く揺れていた。
エリアスは姿勢を正し、静かに口を開いた。
「――では、こちらで“クラリッサ・ミルディナ死亡”の証拠を整えましょう」
その声は、水面のように穏やかで、しかし確かな決意を秘めていた。
「遺体の偽装、記録の改ざん、目撃者の操作も含めて。三日、時間をいただければ、すべて手配できます」
その言葉に、クララは驚きで目を見開いた。
「……そんなこと……本当に、できるんですか?」
声は震えていた。驚きというより、どこか、希望への戸惑いだった。
エリアスは一度目を伏せ、焚き火の光を反射する瞳で、まっすぐクララを見た。
「可能です。わたしも、かつて教会の一員でした。強硬派の思考と手口は、骨の髄まで知っています。そして、私は穏健派の一部と繋がりがあります。彼らも“あなたを守りたい”と考えている」
言葉の端ににじんだ思いに、クララは息を呑んだ。
(私を……まだ、誰かが守ろうとしてくれているんだ)
その実感は、優しさと同時に、胸を刺すような痛みももたらした。
自分は、何を守れていたのだろう。
信じてくれた人々の声を、無視していなかったか。
自分を支えていた手を、無理に振り払ってきたのではなかったか――
「……ありがとうございます、エリアスさん」
クララはそう言って、そっと焚き火に両手をかざした。
指先が、熱ではない何かに、かすかに震えていた。
「……わたし、やってみます。“死んで、生き直す”ってこと。
誰かに与えられた“役”じゃなくて、自分で選んだ“生き方”を……探してみたいんです」
その声は、まだ不安定で、拙くて、けれど間違いなく“クララ”自身のものだった。
エリアスは深く頷いた。
「その覚悟があるのなら、もう迷う必要はありません。
……ただ、今後の生活のためにも、新しい身分が必要になります。名前も、別のものに」
静かに差し出された問いかけに、クララは少しだけ黙りこんだ。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……名前を捨てるって、不思議ですね。重かったはずなのに、こうして捨てるとなると、寂しくなる」
火の光が、彼女の頬をやわらかく照らしていた。
「でも、“クララ”って呼び方だけは……残していいですか?」
ふと笑ったその顔には、どこか小さな子どもみたいな頼りなさと、確かな意志が同居していた。
「“クララ”って、あだ名みたいなもので。本名じゃないけど、でも……それだけは、ずっと本当の自分だった気がするんです」
エリアスは、少し微笑みを浮かべて応えた。
「ええ。それなら問題ありません。“通称”として届け出を出しておきます。
……ようこそ、“クララ”。あなた自身の人生へ」
その言葉に、クララは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
蓮が焚き火越しに、煙草を指でくるくると転がしながら言う。
「そりゃ“あだ名”みてぇなもんだ。好きに名乗れ。誰がなんて呼ぼうが――お前が“クララ”なら、それでいいだろ」
クララは、その不器用な言い方に笑ってしまった。
「じゃあ、改めまして……“クララ”です。よろしくお願いします、レン様」
「……ったく、今さらかよ」
蓮のぼやきに、クララが吹き出した。
焚き火がぱちりと音を立てて、宙に火の粉が舞った。
その笑い声は、ほんの少しだけ、この夜の冷たさを和らげた。
――“クラリッサ・ミルディナ”は、ここで幕を閉じた。
けれど、“クララ”の物語は、ようやく始まったばかりだった。




