一話 異世界の森に放り出された私
突然放り出された私は草むらに、ばさっと倒れ込んだ。そこは深い森、なのに動物の気配がしない。孤独に支配された森だった。
体よりも重たく感じる小さな袋を抱えて、私はしばらく、その場から動けなかった。
「……どうして、こんなことに」
足元には雨上がりの泥が広がっていて、靴の縁がぐちゃりと濡れている。
昨日までいた街の賑わいが、嘘みたいだった。
* * *
もっと前のことを言えば――私は、別の世界で働いていた。
小さな喫茶店のバリスタ。そこで働く私、莉乃は――小柄で地味、肩までの焦げ茶の髪がいつも跳ねてる――そんな、どこにでもいる女だった。
店主が急逝して、店を一人で回すようになってからは、睡眠もまともにとれなくて。
「無理だ」って、何度も伝えた。けれど、こだわりの強いオーナーは首を横に振るだけだった。
「頑張ることが当たり前」になりすぎて、心も身体も擦り切れていった。
最後の記憶は、閉店後の帰り道だった。
ふっと足元が揺れて、視界がぐらりと傾いて、ああ、これは――と、理解したそのとき。
光が弾けて、体が浮いた気がした。次の瞬間、私は見知らぬ石畳の上に立っていた。
異世界転移? 転生?
そんなこと、信じられるわけないと思った。
街には魔法の光が浮かび、空には獣を乗せた騎士が飛んでいた。そんな光景、テレビや本の中でしか見たことがなかった。
* * *
あのギルドに拾われたときは、心の底から救われたと思った。
突然異世界に来て、あてもなく街をさまよい続けて――
そのとき、やっと誰かに出会えて、私は助かったんだと、そう思ったのに。
「魔法も使えない? じゃあ、雑用でもしてな」
「はいこれ、洗濯物。血がついてるけど文句言うなよ?」
「え、また失敗? ほんと、使えない子ねぇ……」
全部、ちゃんとやってたのに。
何をしても「気が利かない」「遅い」「役に立たない」と言われ続けて。
唯一優しくしてくれていた受付の女の子も、裏では私の愚痴をこぼしていた。
聞こえていた。全部、聞こえてた。
なんとなく分かったのは、この世界では”魔法”が大事だということ。
まずは魔法が使えて普通。そして男は前線で戦い、女はその補助――そんな常識がこの世界では当たり前だった。
当然、魔法の経験なんてあるわけもないので物の整理も洗濯も、ただ物を運ぶのも、手でやっていた。結果として、そこには役立たずが出来上がる。
そのうち、目も合わせてもらえなくなって。
ある日、何の前触れもなくギルドマスターに呼び出されて。
「君に任せる仕事は、もうない」
淡々とした口調だった。
理由を聞こうとしたけど、目すら合わせてもらえなかった。
渡されたのはパンが一個、水が入った革の水筒、そして薄汚れた毛布……と”廃棄物”。
その夜。私はホールの中央に浮かぶ魔法陣の中へ入れられ――。
「転移先で死のうがどうなろうが、自己責任だよ」
それが、最後の言葉だった。いつか見たような光に包まれ、次の瞬間には雨が降る暗い森の中にいた。
それが、私にふさわしい結末だったのかもしれない――何もできなかった、ただの私には。
「……ほんと、バカみたい」
自嘲する声が、森の奥へ吸い込まれていった。
涙はもう、出ない。こんなに悔しくて、惨めで、情けないのに。
――何故?
私は普通に生きていただけ。好きなものがコーヒーというだけの、普通の女。
——何故。
突然店主がいなくなったり。かと思ったら異世界に飛ばされたり。あげく魔法を使えだのなんだの。
——何故!
……どうして、こんなにも理不尽ばかりなんだろう。
「……。寒い」
いつまでも雨の中でつっ立っているわけにはいかない。でも、どこへ向かえばいいかも分からない。
肩をすくめて、なけなしの毛布を抱きしめる。
森は静かで、雨だけが音を立てていた。
――歩かなきゃ。じっとしてたら、今度こそ死ぬ。
どこへ向かえばいいのかも分からないまま、足だけを前に出す。
そのとき――ふわりと、風が流れた。
「……コーヒーの、匂い?」
鼻先をくすぐったのは、焙煎したてのような香ばしさ。
信じられない。森の中で、蒸れ上がる土と降りしきる雨の中でこんな香りがするなんて。——ありえない。とすら思うのに。
気づけば、体が勝手にそちらへ向かっていた。
雨に煙る霧の中、ぽつんと明かりが見える。
暖かな橙色の光。ほんのりと揺れて、まるで――誘うように。
「……お店?」
木々の隙間を抜けた先に、それはあった。
石造りの小さな建物。くすんだ看板に描かれた、コーヒーカップのマーク。
細い煙突から、ゆっくりと煙がのぼっていた。
こんな森の奥に、こんな場所が……。
「夢……じゃ、ないよね?」
誰もいないはずの森の中に、たしかに“あたたかい場所”がある。
そう思ったら、胸の奥がきゅっとした。
助けて、なんて言えないけど。
せめて、もう少しだけ――歩いていたいと思った。
* * *
「ごめんください……?」
古びた木製の扉が、静かにそこにあった。
傷だらけで、ところどころくすんでいる。けれど、不思議と薄汚れた印象はない。それどころか古木特有の香りが鼻をくすぐる。
真鍮のような輝きを放つ取っ手を引き、戸を開ける。
(冷たい……。でも、温かい?)
重いはずの扉は少しの力で開かれ、冷たいはずの金属の取っ手は不思議なぬくもりを放っていた。
中に入ると雨音が遠ざかっていき、その”空間”の匂いが私を包んだ。
それは埃臭いとかではなく――むしろ、焙煎したばかりのコーヒー豆のような、ほろ苦くも温かい香り。
(コーヒー……? 直前まで焙煎でもしていたような……)
中を見渡す。
広くはない店内。
古びた木のテーブルがいくつか並び、温かな橙色のランプがほのかに揺れている。
壁にはアンティークな棚が並び、色とりどりの陶器のカップやソーサーが並んでいる。
「誰も、いない……」
きょろきょろと不審な挙動をとりながらも店? の奥へ進んでいく。
どこかで見たような懐かしさ。でも、見たことのない形のカップや、異国の文字が刻まれた瓶が並んでいる。古びた瓶詰めのコーヒー豆。ラベルの文字は読めないが、大切に扱われていたのは分かる。
更に奥へ進む。その店内最奥には業務用と思われるコーヒー豆を焙煎する機械が置かれていた。
(私は”ロースター”じゃないから詳しくないけど、でも日本で見てきたものにすごく似ている)
だが素人目にも分かる。確かに使いこまれた具合と、それでも手入れが行き届いた輝き。どうしてもとれない細かいものはともかく、余計な埃はついていない。大事にされてきたんだというのが分かる。
「……ほんとに、誰か住んでたんだ」
ぽつりと声が出た。そこに怖さは無かった。
その次には、安心感が湧いて出た。ここにならいてもいいんだという感覚が、少しづつ強くなっていく。その時――。
——かすかな足音が、店の扉の方から聞こえた。
(もしかしてここの人っ……!)
息を飲み、カウンターから恐る恐る覗く。
店の入り口には、背の高い男が立っていた。鋭い瞳に、やや長めの髪。風に舞う青いマントが、彼の体格をさらに大きく見せている。
腰には剣を携えている。その風貌はいわゆる騎士に当たりそうだ。
(家主じゃなくて、お客さん……?)
おどおどする私とついに目があった。その騎士はこちらに歩み寄ってくる。どうしよう……。と、とりあえず……。
「い、いらっしゃいませ……」
かすれた声になってしまった。男がこちらに視線を向けた気がして、思わず目を逸らす。
「ここは……店か?」
低く、落ち着いた声。だが、その瞳には警戒と好奇の色が交錯している。まるで目の前の存在が、ただの通りすがりではないと見抜いているかのように。
「ええ、たぶん……そう、です……」
多分? と眉に皺を寄せる騎士さま。私はどうすべき? 店員? ただの追放者?
「……なら、一杯頼む。雨が、去るまで」
一瞬、胸が跳ねるような感覚があった。ここに、私の居場所が返ってきたような気がして――。
ゆっくり、息を吸う。そして――。
「かしこまりました」
* * *
「やっぱり揃ってる……!」
カウンターを勝手に漁った。入り口同様に特別な意匠が刻まれた古い棚を開けると、コーヒー点てるに十分な道具が一式揃っていた。
手挽きのミル。綺麗なネルドリッパー。注ぎ口の細いケトル。
(一応はなんとかなりそうだ……!)
どれもこれも、昔、私が毎日触っていた道具とよく似ていた。
あの店の、あのカウンターの裏にあった道具たち。
少しずつ手に取り、並べるたびに、胸の奥がきゅっとなる。
まずミルを手に取ってみる。
(臼型のよくあるタイプ。ネジで挽き目を調整できるみたい。他の仕組みも日本で学んだものと同じ、に見える)
店にいた頃は電動に頼り切りだったが、自宅で淹れる時は手挽きだった。その時の感覚はまだ覚えている。
次は豆選びだ。豆の入った瓶が全部で6つ。ラベルに銘柄等が書かれているのだろうが、異世界語が読めないし、読めたとして世界を知らないので味わいの予測は出来ない。
見た目と、香りで予想を立てるしかない。
(深煎りっぽいこっちはナッツ系の香り。中煎りっぽいこれはフルーツ感がある。隣のこれは変わった香りがする。嫌気性発酵かな?)
騎士さまをちらりと見て、最初の深煎りの豆を選んだ。たぶん苦めでボディの強いコーヒーがいいだろう。……たぶん。
次に豆を適量用意する。……が、量りはない。代わりになりそうなものもない。——経験だけが、十分にある。
”適当に、15グラムを”ミルに流し込んで挽いていく。ゴリゴリ、よりもカリカリ、と。
「おお……!」
日本でも少ししか触ったことのない”高級品”の手ごたえだ。力で豆を砕くのではなく、刃が豆を斬る感覚、というべきか。本来それなりに大変な手挽きだが、これなら楽に終わるだろう。
豆を挽く度、心が軽くなるのを感じた。徐々に香り立つコーヒー粉に心を躍らせながら――。
「あっ――」
ここで気が付いてしまった。ケトルはある。——だが”火”がない。火がなければ湯が用意できない。
どうしよう、と困ってしまったがコンロみたいなものはある。動かし方が分からないので、どうしようもない……と――。
何か見覚えがある、窪みのようなところ。
「! もしかして――」
机に置いた手荷物一式を漁る。中から出てきた”廃棄物”——青の輝きを秘めた石英のような石。
これをコンロに、はめてみる。——と、青く透明で安定した炎が灯った。
(魔法? でもガス火みたい。なんにせよこれで湯が作れる)
持たされた水をケトルに移して火にかける。
例によって温度計などない。深煎りの豆だから90℃は欲しいか。
時間と共にお湯の”音”が上がっていき、あるタイミングで音が下がる。
(——今!)
火の止め方が分からなかったがとりあえず石をどけた。止まった。良かった。
(~~♪)
ミルからネルに粉を移す。サーバーがないからカップに直に落とすしかない。おいておけるドリッパーに比べ難易度はかなり高いが……やるしかない。
まず一投。30g程度のお湯を注ぐ。
粉がすごく膨らんだ。思ったより状態がいいもののようだ。
反応を見て次の注ぎを決める。1分は蒸らしたい、か。
1分。芳醇な香りが広がり、コク深さが際立つ。
2投目、70グラムの注湯。普段はペーパードリップでやっているだけにネルのお湯の抜ける速度の速さを掴むのが難しい。
3投目、80グラムの注湯。タイマーがないので実際は分からないが、感覚が早いと告げている。このズレはネルという道具のせいか、異世界という環境のせいか。
ある意味で、このネルは紙よりもずっと繊細だった。お湯が落ちる速度さえ、私の心を試してくるように――。
(お客さんに出せる仕上がりになるか……)
抽出完了。表面の気泡をスプーンで取り除いて、ソーサーとティースプーンも揃えて、完成。
「お待たせ、しました」
コーヒーを差し出す――その手は少し震えていた。男はしばらくカップを見つめていたが、やがて無言でそれを手に取り、口元に運んだ。
その一口を、私は固唾を飲んで見守った。
男は一度瞼を閉じ、そのまま静かに息を吐いた。
そして、もう一口。
(しまった……。カップを温めるのをわすれた……。気に入らなかったかな)
……やがて、薄く口角が持ち上がる。
「……悪くないな」
その言葉の後、ふとユリウスは莉乃をじっと見つめる。一瞬、深い考えに沈むような瞳。だが次の瞬間、口元にわずかに笑みが浮かび――何かが変わった気がした。
(い、いやいや。勘ぐりすぎじゃないかしら……!)
一度しゃんと姿勢を正し、軽く頭を下げる。
「あ、ありがとうございま、す?」
返事はなかったが、男はもう一度カップを口元に運び、静かに飲み続けた。
(……良かった、悪くは無かったみたいだ。……私は正規の店員ではないけれど)
そんな安堵感と共に、店内にはほのかなコーヒーの香りが漂い続けていた。
「お前、慣れているな」
「えっ?」
不意にかけられた声に、反射的に顔を上げる。男の鋭い瞳がこちらを捉えていた。
「……その手つきだ。少なくとも、あの動きは初めてではないだろう」
「あ……え、ええ。まあ、日本にいた頃は、ずっと……」
と遠い日の記憶に少し耽ったが、……今は、もう――。
(でも、こうしてまたコーヒーを淹れている。異世界だろうと、バリスタとしての自分は、まだここにいる。私の仕事は、まだ終わっていないんだ)
「……いえ、なんでもありません。ありがとうございます」
男は一瞬眉をひそめたが、そのままカップを静かに置いた。
「ニホン……というのはどこだ? この辺りの地名では聞いたことがないが」
「えっ……」
しまった、と口元に手を当てる。異世界転移だという事実を改めて突きつけられたような気がして、心がざわつく。
「えっと……まあ、遠い国の名前です。ここからは、だいぶ遠い……どころか、別の世界……」
言葉を濁して笑ってみせるが、男の視線は相変わらず鋭く、どこか探るようだ。
「そうか。……なら、ますます奇妙だな」
「え?」
「いや、こちらの話だ」
男は再びカップを口元に運び、そのまま静かに黙り込んだ。
男はカップに視線を落とし、何かを思案するように黙り込んだ。
「ところで、これは何という茶なんだ?」
「え、茶?」
「不思議な味わいに独特な香り。いままでに飲んだことのない味だ」
もしかして……、コーヒーを知らない……?
「……これは、コーヒーです」
「コーヒー……?」
男が眉をひそめる。どうやらこの世界ではコーヒーは一般的ではないらしい。
では――この建物はなんなのだろう?
「豆から作る飲み物です。私の故郷でよく飲まれているもので……」
「豆から作る……? ますます分からんな」
これこれ、と奥の棚から豆が入った瓶をもって持ってくる。
その騎士は、最初は興味深そうに。しかし途中から真剣な眼差しで見つめる。
「待て。これは……もしかして魔植物・コーヴァか?」
「え?」
思わず顔をあげる。コーヴァ。……初めて聞く名前だ。
短い間ではあるが冒険者のギルドでいくらかこの世界については勉強した。その中にコーヒーらしいものはなかった。
「確か、コーヴァには魔法力を増幅する効果があると聞いたことがある。しかし、それを人間が直接摂取する方法はまだ確立されていないはずだが……」
その一言に、私の胸がざわついた。
その話は、元の世界の、珈琲の歴史をなぞっているように聞こえた。
(……コーヴァ。それがこの世界で言う”コーヒー”にあたるもの)
カウンターに置かれた瓶に視線を移す。
(それなら……私にも、この世界でやれることがあるんじゃないか)
胸が高鳴る。この世界でも、私は”バリスタ”で在り続けられる。
私は、私らしくいられる――!
「あの……!」
「ん、なにか?」
「あ……えっ……」
勢いで話しかけてしまった。「私のコーヒーはおいしかったですか?」なんていうのは変な話だし、別の話題で……、ええと。
と、変な間を開けたのを気取られたのか、話題は向こうからきた。
「私は、ユリウス・グランフェルド。王国第一騎士団の副団長を務めている」
「ユリウス、様?」
「ああ、そんなにかしこまることはない。副団長とはいえ、今は少しだけ剣を休めているがね」
そう告げて再びカップのコーヒーを飲み始めた。
王国の、騎士団と言ったっけ。この世界に来て浅いが、私がいたギルドで働くのとは違う。雲の上の様な存在……であるのは、なんとなく学んだ。
(位の高いすごい人、なんだろうなぁ)
再び騎士が、ユリウスがカップを置くとまた口を開いた。
「それで、君の名を尋ねても?」
「はいっ。莉乃、といいます」
「リノ……。そうか……」
私が戸惑いながら名を告げると、ユリウスは静かに一度それを繰り返した。その声音はどこか柔らかく、思いがけず鼓動が跳ねた。
何かを考えながらカップを覗くユリウス。
「その名を、覚えておきたい」
「はあ……」
「また来たい。そう思わされたのでね」
また、来たい。
それは、バリスタとして、モノを作るものとして、最高の賛辞だった。
いつの間にか店内には静けさが満ちた。
それは沈黙といった暗いものではなく――。
「雨が……。止んだようだ」
騎士は立ち上がり、重量感のあるマントをひと揺らしして身につけ直した。
「また……来るだろう。いや、ここで君が待っていてくれるなら、きっと来る」
「——!」
その言葉に、私は少し驚きながらも微笑んだ。
「ええ。またお待ちしております」
「……不思議だな。森の中で、こんな匂いに出会うとは」
深い礼を一つ。それを騎士は背に受けながら店を後にした。——最後の自然な微笑みは、私の心を救うには十分だった。
古い扉の軋みの残響が長く、その空間に残っていた。
……。
「はあぁぁぁ~……」
近くの椅子に腰かける。疲れがどっと出た。
異世界へ来て、居抜きカフェみたいなところで初接客。
というか勝手に使ってしまって本当によかったのか、分からないが。
(でも……、楽しかったな)
コーヒーを淹れた、そのことに満足感がある。それに――。
(また来る……か)
先ほどまでの客の騎士。彼がまた来ると言ってくれたのだ。つまり――。
(この店を守らねば!)
——こうして。
私の異世界生活は幕を開けた。
明日の事もわからないけど。
それでも私は、ここで生きていくのだ。
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お読みいただいてありがとうございます。
よければブクマやこの下の星でポイントをつけて応援していただけるととても嬉しいです。
6/14追記:好評につき連載型にしました!よろしくお願いいたします!




