第二章 アップルパイは恋の味 ②
「それじゃあ、ちゃんと授業受けるんだよ?」
「はい。アップルパイ、ごちそうさまでした」
雨宮が丁寧に礼を言うと、南雲先生はふっくらと微笑んで、二階の職員室へと行ってしまった。仕方なく、俺も教室へ向かおうと歩き出す。
「ちょっと、どこ行くんですか?」
なぜか雨宮がちょこちょこと付いてきた。
「どこって、普通に教室だけど」
「穴場を知ってるんですけど、教えてあげましょうか?」
「穴場って? 保健室が覗けるところ?」
「日陰で少しじめっとしてるけど、あまり人が来ない場所です」
雨宮は満を持して言ってのける。そんな場所、苔か盛ったカップルしか求めてないだろ。
「俺にしたらなんの穴場にもならないんだけど……」
「別にいいじゃないですか。どうせ教室行ってもすることないでしょう?」
「見くびるなよ。俺だって忙しいんだ。恋愛ソング聞きながら南雲先生との会話を反芻しなくちゃいけないんだから」
「うわ、キモ……」
雨宮は顔を歪ませて小さく呟いた。いちいち鬱陶しいガキだ。
「なに? なんか話でもあんの?」
あまりにしつこいから仕方なく立ち止まって聞いてやると、雨宮はしばらく考え込んだ後、意味ありげにこっくりと頷いた。
そこは、校舎とプールの間にある細い通路の一角で、雨宮の言った通り、日陰でじめっとしていて人が寄り付かない場所だった。やっぱり苔はめっちゃ生えてる。
雨宮は慣れた様子で校舎の土台部分にハンカチを広げると、ちょこんと腰を下ろした。なんか尻が濡れそうだから、俺は立ったまま外壁に寄りかかる。
「それで、話って?」
訊ねながら、俺は脳内で予測を立てていた。本命「クラスでまたいじめに遭っている」、対抗「どうやったら友達ができるか」、穴「いっそ友達になってほしい」といったところか。それかもしかしたら――
「さっきの人、三年の鷹野先輩ですよね?」
こちらを見上げた雨宮が、見事な変化球を仕掛けてきた。その声は心なしか弾んでいて、大きな猫目の奥に微かな輝きを宿している。
さっきの人? 鷹野? え、誰?
「さっきの、保健室に来た人ですよ」
俺の困惑を悟ったらしい雨宮は、そう付け足した。
「いや、知らんけど……」
「なんで同学年なのに知らないんですか」
雨宮はやや呆れた口調で言った。なんかよく分かんないけどムカつくな。
「あんたこそ、下級生なのによく知ってるな」
俺は足元を這うダンゴムシを目で追いかけながら適当に返事した。
「有名ですから、あの人。まあ、女子の間でだけかもしれないですけど」
「へえ」
「興味なさそうですね」
「ないよ、別に」
「実はあの人、かなりの女好きみたいなんですよ。一時は四股してたとかいう噂もあって。告白は絶対断らないらしいんです」
俺の反応なんて意にも介さず、雨宮は話を続ける。同年代の女子はこれだから嫌だ。自分の欲求が最優先で、相手の気持ちなんてお構いなし。興味のない話を聞かされる苦痛なんて考えもしない。
うん、やっぱり俺には南雲先生しかいない。
「普通にいいやつじゃん」
「はあ? どこが!」
「だって、告白は絶対に断らないんだろ? あいつのこと好きな女子からしたらラッキーじゃない?」
「話聞いてました? すでに彼女がいたとしても、断らないんですよ? ひどい裏切りです!」
今さっき俺を裏切った女がなんか言ってるな……
「なんであんたがそんなに怒るんだよ」
「女心を弄んでるんだから、嫌って当然です。それにあの人、男子バレー部の副部長なんですよ? 煩悩にまみれた人間が権力を握ってるんです。由々しき事態ですよ」
「はいはい、由々しい由々しい――あ、やべ」
「どうしたんですか?」
雨宮が右眉を持ち上げて怪訝な顔を向けてくる。こいつ、ちょっと前田に似てるかも。すぐ感情的になるところとか特に。
「保健室にMDプレーヤー忘れた」
いつも入れているズボンの左ポケットは空だ。他のポケットにも、どこにもない。
「MD? なんですかそれ?」
「ガキには分からない代物だよ。ちょっと保健室戻るわ」
「私も行きます」
俺はふと足を止め、慌てて立ち上がる雨宮をじっと見つめた。その瞳が、まるで迷子の子供のように不安を湛えていることに気付く。
ああ、そういうことか。
「……お前、そんなに教室に居づらいの?」
「う、うるさい!」
図星だった。
俺は溜息を一つ吐いて、「おら、早く行くぞ」と雨宮を急かした。