第二章 アップルパイは恋の味 ①
ごちそうさまでした、と南雲先生が両手を合わせ、弁当箱を片付けはじめたタイミングで、俺は椅子から勢いよく立ち上がった。
「南雲先生、好きです! 本気です!」
南雲先生は一瞬だけ驚いた顔をして、それからすぐに困ったような笑顔を見せた。
「うん、ありがとう。お気持ちだけいただいておくね」
「それはつまり、OKということですか⁉」
「えっと、違うよ?」
「じゃあどういう?」
「いただくだけで申し訳ないけど、私からはなにもお返しできないよってこと」
「と、いうことは?」
「これからも変わらず、山際くんは大事な生徒の一人だからね」
南雲先生が親指をぐっと立てたから、俺もつられて同じジェスチャーをする。
今日もまた振られてしまった。脳内で槇原敬之の『もう恋なんてしない』が勝手に流れ出す。
だけど、前回ほどは拒否されなかった気がする。もしかして、少しずつ心変わりしてくれているのかもしれない。継続は力なり、塵も積もれば山となる。このままいけば、俺が卒業する頃には南雲先生のことを「由梨」と呼んでいることだろう。
「ちょっと、人がご飯食べてる前で振られないでくれます?」
余計な雑音が入る。
長方形の机を挟んだ斜め向かいで、オモチャみたいに小さな弁当箱を箸でつついていた雨宮は、不機嫌そうに文句を言ってきた。
制服の一件以降、雨宮はちょくちょく保健室に入り浸るようになった。迷惑極まりない。
「じゃあ教室帰れよ。毎日来やがって、ちょっとは空気読め」
「ここは保健室です。私にも利用する権利があります。そもそも、不純な理由で入り浸ってるのはそっちでしょ?」
「あんたも別に真っ当な理由じゃないだろ。どうせクラスに居場所がなくて逃げてきてるだけのくせに」
「……うるさい、変な前髪」
雨宮はぼそりと呟くと、ミニ春巻きに噛りついた。
「はあ? リンゴ・スターだよ、知らねーの?」
「なに? リンゴ?」
「ビートルズのメンバーだよ。たしかドラムだったかな?」
南雲先生は小首を傾げて天井に視線を向けながら、記憶を辿るように言った。手には毎日持ってきているピンク色の水筒があり、俺はその中身が水出し紅茶であることを知っている。
「ビートルズくらいはさすがに知ってます。イエスタデイとかですよね?」
「メンバーも知らないくせに、知った顔するな」
「まあまあ。自家製のおやつをお裾分けしてあげるから、仲良くしなさいな」
南雲先生はタッパーを一つ取り出すと、蓋を開け、俺と雨宮の間に置いた。
「わ、いいにおい!」
雨宮ははしゃいだ声を出して身を乗り出し、タッパーの中を覗き込んだ。そういえば、こいつの笑った顔って初めて見たな。いつもそうしていればいいのに。
「アップルパイですか。上手ですね」
俺も首を伸ばしてタッパーの中を見た。こんがりと焼けたパイ生地はつやつやと光っていて、網目の隙間から黄金色のリンゴが覗いている。ほのかにシナモンのにおいが漂う。
手のひらサイズのアップルパイは三つ入っていて、それぞれ二等分に切られていた。南雲先生はそのうちの一切れを指で摘まみ、得意げな笑みを見せる。
「どうぞ、めしあがれ」
「ありがとうございます。いただきまーす」
雨宮もアップルパイに左手を伸ばす。その時、ブラウスの袖からミサンガのようなものがちらりと見えた。白と黒の糸でできた組紐で、留め具の部分には星のマークが付いていて、その中心に唇の絵が彫られている。
これってたしか――
「山際くんもどうぞ」
南雲先生がタッパーを目の前に差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
俺は手を伸ばしながら、横目でもう一度雨宮の手元を確認した。だけど、左手首は袖口に隠されてしまっている。
こちらの視線に気付いた雨宮が、訝しげな顔を返してくる。口の周りにパイのカスが付いていて、なんともマヌケな絵面だ。
「なんですか?」
「なあ、それって――」
言わせまいとするかのように、保健室の扉が勢いよく開けられた。俺たち三人は同時にそちらに目を向ける。
そこには、制服越しでも全身にがっちりとした筋肉が付いていると分かる、背の高い男子生徒が立っていた。薄いながらも整った顔立ちをしていて、存在感がある。
「すみません、昼休みの間だけベッドで寝ててもいいですか?」
そいつは気まずそうに襟足を搔きながら、南雲先生に向けて訊いた。
「どうしたの? 熱でもある?」
南雲先生はティッシュで口元を拭い、立ち上がる。
「いや、ただの寝不足で……」
「まあ、昼休みの間だけならいいよ」
「ありがとうございます」
「二人は、それ食べたら教室に戻りなさいね」
俺と雨宮は顔を見合わせた。そして今この瞬間、俺たちは利害が一致したことを互いに察した。
「えー、まだ時間あるじゃないですかぁ! 嫌ですぅ!」
俺が机に突っ伏して駄々っ子顔負けの抗議をすると、「もー」と呆れた声が降ってきた。
「病人もいるんだから、ちょっとは遠慮しなさい」
「病人じゃないでしょ。寝に来ただけなんですから」
「ここで騒いでたらゆっくり寝られないでしょ? 私もちょっと職員室に行かなきゃいけないから」
「そうですね。山際先輩、行きますよ」
雨宮は弁当袋を持って立ち上がる。なんて華麗な裏切りだろうか。聞き分けのいい良い子を演じたいのなら、一人で勝手にやってくれ。
とはいえ、南雲先生もいなくなるのなら、ここに残る意味はもはや皆無だ。俺は二つめのアップルパイを口の中に押し込むと、ティッシュで口元と指を拭きながら腰を上げた。
俺と雨宮が保健室を出る間際、男子生徒はすでにベッドに上がっていて、南雲先生が仕切りのカーテンを閉めようとしていた。俺と一瞬だけ目が合ったそいつは、申し訳なさそうに小さく会釈をした。