第一章 襟に夕暮れ ⑥
翌週の木曜日、俺は昼休みになるとすぐさま購買で例のパンを買い、保健室へと直行した。なんてことはない、いつものルーティーンだ。
「失礼しました」
ちょうど保健室から出てきた制服姿の女子生徒と目が合う。そいつは一瞬目を逸らしたが、なにか考えを改めたかのようにまたこちらを見上げた。
「……なんですか?」
相変わらず生意気な口ぶりだ。両手を腰に当て、威張るように胸を張っている。
俺は思わずその胸元に目を留めた。
「は? ちょっ、なんですか⁉ なにじっと見てんですか!」
突然、雨宮は顔を赤らめて、胸元を両手で隠しだした。
堪えきれず、俺は舌打ちする。
「だーれがお前みたいなお子ちゃまの体に興味持つかよ。南雲先生の四分の一にも満たないくせに」
「はあああああ? ほんっと最低なんだけど! 死ね! 死んで詫びろ!」
「はいはい。邪魔だからもう保健室来んなよ」
「バーカ! 早く振られろ!」
雨宮は捨て台詞を吐きながら、廊下を駆けていった。
やれやれと溜息を吐いて、俺は保健室の扉を開けた。ツンと香る消毒液のにおいと、日向の気配。俺の好きな人がいる場所。
「また喧嘩してたでしょう?」
南雲先生は仕事机で書き物をしながら、呆れたように笑った。俺は肩をすくめて誤魔化す。
「解決したんですね」
ところどころ破れている革張りのソファに腰かけ、俺はパンの袋を開けた。紅ショウガが香って脳裏に牛丼が浮かぶ。逆パターンもあるのか。こっちはなんか得した気分だ。
「うーん、まあ、そうだね。今日は制服隠されてなかったみたいだから。担任の先生からクラス全体に注意があったそうだから、それで反省したのかな。犯人は分からないままだけど」
「俺知ってますよ、犯人」
「え?」
南雲先生は手を止めて、俺の顔をまじまじと見た。やばい、照れる。
「知ってるっていうか、今さっき確信したんですけど。あいつが今着ていたブラウスの襟に、オレンジ色の絵の具が付いてたじゃないですか? あれと同じものが付いたブラウスを、この前あいつの制服がなくなった時に着ていた女子がいたんですよ」
俺が説明すると、南雲先生は顎に手を置いて小首を傾げた。
「それって……雨宮さんの制服を盗った人が、自分でそれを着ていたっていうこと?」
「そうでしょうね」
「間違えちゃったとか?」
「いや、さすがにあんな目立つところにオレンジ色の絵の具が付いてたら、着る時に気付きません?」
「ということは、故意に?」
「じゃないですか?」
「なんでそんなこと……」
南雲先生は眉間に深くしわを寄せて、独り言みたいに言った。
「っていうか、あいつも気付いたと思いますよ。普通に」
「えっ」
「しるしが付いた自分の服を他人が着ていたら、すぐ分かるでしょ」
「それじゃあ、雨宮さんは知ってて黙ってるってこと?」
「たぶん。よく分かんないですけど。被害者なんだから、とっとと犯人突き出せばいいのに」
南雲先生は表情を緩ませると、どこか物憂げな眼差しを窓の外へ向けた。日が燦燦と降り注いで眩しいくらいのグラウンドの中で、ジャージを着た男子生徒たちがサッカーをしている。
「簡単に言っちゃうとね、プライド、だよ。でも、別に雨宮さんが特別プライドが高いってわけじゃなくて、誰でもそうなの。自分が誰かに軽んじられたとか、虐げられたとか、そういう事実をなかったことにしたくて、もしくは大したことじゃないって自分に言い聞かせたくて、口をつぐむんだよ」
「ふーん。損ばっかですね」
「真実が明るみになって犯人を断罪したところで、心の傷が癒えるわけじゃないから。むしろ、そっちの方がきつかったりね」
「へえ、そうなんすね」
正直、雨宮の心理状況に興味はない。
俺が最後の一かけを食べようと口を開けた時だった。南雲先生が隣に座ってきて、ずいと顔を寄せてきたのだ。くりくりと大きい瞳、ぷっくりと形のいい唇、うっすらそばかすの浮いた頬――情報の一つ一つが俺を魅了してくる。
「せ、先生……」
どうしよう。今俺、絶対紅ショウガ臭い。
でも、このチャンスを逃すわけには――
「それで?」
「へ?」
「どんな子だったの? 雨宮さんの制服着ていた子」
南雲先生は俺の邪な気持ちに気付きもせず、真剣な顔で答えを待っている。
俺は肩を落としながら顔を逸らすと、最後の一かけを口に入れ、牛乳で流し込んだ。
「……髪は肩より十センチ長くてストレート、前髪は左分け。身長は座ってたから大体ですけど、百五十八センチくらい。左利き、二重瞼、口の右下にホクロが一つ。そういえば、机の横にテニスラケットが掛かってました」
本当はもっと伝わりやすい、なんなら一発で誰だか分かる言葉があったけど、俺はあえて遠回しに教えた。ちょっとだけ、南雲先生を困らせたくなったのだ。
「相変わらず逞しい記憶力だね。ありがとう」
南雲先生は俺の頭にそっと手を置き、猫にするような手つきで撫でた。たったそれだけで、俺の中で膨れていた反抗的な感情がしゅるしゅると萎んでいく。
だけど、意地悪したことを知られたくなくて、俺は犯人が何者なのかをハッキリと伝えることができなかった。
「それにしても、やっぱりテニス部の子なんだね」
俺の頭から手を離しながら、南雲先生が溜息混じりに呟いた。
「やっぱりって?」
「逆恨み。実は、最初に制服隠された子も、隠したと思われる子たちも、テニス部なの。雨宮さんが担任に告げ口したって思ってやったんでしょ、きっと」
「これからどうするんですか?」
「とりあえず担任の先生に伝えて、雨宮さんとその子に確認することになるでしょうね。まあでも、雨宮さんは認めないかもしれないけど」
南雲先生は一度ぎゅっと目を瞑ると、静かに息を吐き、そしてまた前を見た。その頬に、俺が常日頃から指でつつきたいと思っているえくぼが現れる。
だけど、その明るい表情が、何かを諦めた上で作られたもののように思えて、俺は一気に不安に駆られた。
「……先生、俺、余計なことしましたか?」
南雲先生は一瞬だけ傷付いたような顔をして、それからすぐに微笑んで首を横に振った。
「そんなことないよ。ごめんね、気を遣わせて。ちょっと自分が不甲斐なくなっただけだから」
「どうしてですか?」
「もっと上手い……少なくとも雨宮さんが傷付かなくて済む解決法があったんじゃないかって。まあ、結果論だけどね」
南雲先生は立ち上がると、「いろいろ教えてくれたお礼にお茶淹れてあげる」と笑って、窓際の水道脇に置かれたラックから、コップを一つ手に取った。