第一章 襟に夕暮れ ⑤
三階の美術室へ向かう途中、俺は誰もいない階段を、わざと足音を響かせながら上った。休み時間中の喧騒が壁や床に染み込んでいるのか、わんわんと反響音が聞こえてくる気がするからだ。
三階の廊下をだらだら歩きながら、俺は二年五組の教室に目をやった。一人だけ鮮やかな緑色に身を包んでいる雨宮の姿が、嫌でも視界に飛び込んでくる。
雨宮は、今にも泣き出しそうな顔をして、必死に板書を書き写している。
俺はもう一人、雨宮の斜め前の席に座っている女子生徒に目を向けた。そいつは、以前まで雨宮と同じくジャージ姿でこの時間の授業を受けていた人間だ。何事もなかったかのように制服を着て、雨宮を気にすることもなく、黒板をただ真っ直ぐ見つめている。
あれ――?
俺は足を速め、美術室の扉を勢いよく開けた。
前田とクラスメイトたちが一斉にこちらを注目する。でも、そんなのは端からどうでもいい。俺は大股で美術室内の奥へ進んでいく。
「山際さん‼ もうとっくに授業は始まってるんですよ⁉ 何か言うことがあるんじゃないですか⁉」
背後で前田のヒステリックな声がしたが、構うと面倒だから俺は無視することにした。有名絵画の模写をしていたクラスメイトたちが苦笑しながらこちらを窺っている。鬱陶しい。
どうしてみんな、そこまで人に関心を向けられるんだろう。興味も好意もないくせに。俺は昔からずっと、それが理解できなかった。俺のアンテナは常に南雲先生がいる保健室にだけ向いていて、他の物事はすべてノイズでしかない。
今、俺がこうして動いているのも、決して雨宮のためなんかじゃない。
ただ、ちょっと気が向いただけ。ノイズにもいろんな音やリズムがあるんだと、ほんの少し関心が向いただけ。ただそれだけだ。
俺は美術室の隅でひっそりと佇んでいる、一枚の絵の前に立った。
学校のすぐ近くにある歩道橋から見た景色だろうか。真ん中に片側二車線の道路が走り、右にはグラウンド、左には牛乳の出荷工場らしき建物が見切れている。上からだんだんと濃くなっていくグラデーションの底には、馬鹿みたいに濃く塗りたくられた、まん丸の夕日が鎮座していた。
「ちょっと山際さん‼ 成績1にしますよ‼」
前田が目を血走らせながらツカツカとこちらに近付いてくる。隈も相まって物凄い形相だ。このおばさん、いつか憤死しそうだな。
「ねえ、これってなんの絵の具使ってるの?」
俺は目の前の絵を指さして訊ねた。前田の右眉がピクリと上がる。
「あなたって人は、敬語の一つも使えないんですか?」
「あ、はい。すんません」
「まったく……美術に関することなので一応答えます。それはアクリル絵の具を使ったアクリル画です」
「それって服に付いたら落ちにくい?」
「敬語」
「――ですか?」
「そうですね。乾いてしまうとなかなか落ちないです。それがどうかしたんですか?」
「……いや、別に」
「そうですか。それでは、あなたは今すぐ席に着いて反省文を書いてください。次授業に遅れたら、校長面談ですからね」
前田は素っ気なく早口で言い切ると、手をパンパンと打ち鳴らし、緩みかけた空気を締めた。クラスメイトたちが無言で模写を再開する。
俺はもう一度、その絵を見下ろした。イーゼルに、『美術部二年 雨宮昴』と書かれた紙が貼られていた。