第一章 襟に夕暮れ ④
新しいクラスになってすぐ、雨宮は一人の女子が同じ部活の子たちからよくからかわれていることに気付いた。
だけど、いじめと言えるほどのものじゃなく、例えば「あれ、筆箱新しくしたの? こういうデザインのやつ小学生の時に使ってたなー、懐かしー」とか、「眉毛濃いんだからおでこ出さない方がいいよ」とか、ちょっと棘のあることを冗談っぽく言われるくらいだったらしい。本人も、「えー、まじ?」「ひどーい」と笑って返していたから、ただの内輪ノリなのかもしれないと、雨宮はそこまで気にかけていなかったそうだ。
「でも、体育の後、その子だけジャージを着たままだったんです。木曜日は二時間目が体育で、三時間目が国語で……国語は斉藤先生だから、ジャージでも何も言わなくて。彼女たちはそれを分かってやってるんですよね。だから、いつも木曜日だけ制服を隠すんです」
斉藤……斉藤……ああ、あのいつものど飴を舐めながら授業を進める、なに喋ってるんだかほとんど聞き取れない爺さんか。まあ、あいつなら何も言わないだろうな。一、二年の時に俺も担当されてたけど、最後まで名前覚えられてなかったもんな。
「制服を隠してたのは、その子の部活仲間で間違いないの?」
南雲先生が慎重に訊ねる。雨宮はこくりと深く頷いた。
「体育の後、彼女たちはその子だけ置いて走って教室に戻るんです。だから、本人も分かってるんですよ。教室行って制服がなくなってるのを見て、『もー、やめてよぉ』って彼女たちに言うんです。毎回、笑いながら。彼女たちはニヤニヤして、『なんのことー?』なんてすっとぼけて。そうこうしてるうちに次の授業の時間になっちゃって、その子だけジャージのままで」
「ひどい話だね。笑ってはいても、本人は辛いでしょうに」
「私もそう思いました。だから、その子に言ったんです。『担任の先生か、部活の顧問に相談しようよ』って。でも、『いやいや、ただの遊びだからさ』ってかわされました」
「それで、雨宮さんもジャージでいたの?」
雨宮は少し躊躇いながらも、また頷く。
「……それで解決するわけじゃないのは分かってたんですけど、何もせずただ見ていることもできなくて。一人じゃないって思ってもらいたかったんです」
南雲先生が唇を引き結び、どこかバツが悪そうに視線を逸らした。軽く俯いたままの雨宮はそれに気付かず、言葉を繋げる。
「どうも担任の先生から彼女たちに話があったみたいなんです。そこにいる先輩が報告してくれたんですよね? ありがとうございます。私は勇気がなくてできなかったから」
雨宮は俺の方に顔を向けると、さっきの怒り狂った姿からは想像もつかない淑やかさでもって礼を述べた。俺はその変わりように面食らいながら、ぎこちなく会釈で返す。
「でも、みんな否定したんだよね? 制服を隠されてた本人まで」
南雲先生が重々しく口を開いた。雨宮はそちらに向き直り、自嘲気味に笑う。
「そうみたいですね。みんな変わらず仲良さそうにしてるので」
「で、今度はあんたの制服が隠されるようになったって?」
俺が口を挟むと、すかさず南雲先生が「どういうこと?」という目線をくれた。そんなに真っ直ぐ見つめられたら、さすがの俺でもどぎまぎしてしまう。
「えーっとその……先週はその人一人だけジャージだったから」
「そうなの?」
南雲先生が、今度は雨宮に向けて訊ねる。雨宮はみるみるうちに取り繕うような笑みを崩し、ぼろぼろと涙をこぼしだした。ひっく、ひっく、としゃくり上げる声が痛々しく響く。
「体育から戻ったら制服がなくなってて……周りに聞いても誰も知らないって言うし……遠藤さんと目があったけど、無視されて……」
遠藤さん? ああ、いじめられていたやつか。
いじめを受けていたクラスメイトを救おうとしたけど空回りして、そんで次は自分がターゲットにされた挙句、そいつからも見放されるとか、どんだけ人望がないんだよ。
まあ、俺が言えたことじゃないけど。
「もしかして今日も?」
南雲先生がティッシュを箱ごと渡すと、雨宮は一枚引き抜いて控えめに鼻をかんだ。
「はい……」
「制服はどこに置いておいたの?」
「普通に……畳んで机の上に置いてました」
「それが全部なくなってるの?」
「はい……スカートもベストもブラウスもリボンも、全部」
「それはやっぱり意図的だよね。立派ないじめだよ。担任の先生に相談しよう?」
「そ、それだけは嫌です! お願いします、誰にも言わないで!」
顔を上げた雨宮は、涙に濡れた目をかっぴらいて、唇をわななかせていた。鼻の下が小さく光っている。
「そうは言っても……」
南雲先生は沈痛な面持ちで雨宮を見つめている。
まったく、このクソガキは。俺の愛しい人にこんな顔させやがって。
「あんただってその遠藤って人に同じこと言ったんだろ? いじめられてることを告発しろって。自分は嫌だってどういうことだよ」
大きなアーモンド形の瞳がまた濡れる。だけど涙は流れず、雨宮はゆらりと立ち上がった。
「もういいです……授業に戻ります」
右手で自分の左手首を強く握り締めながら、雨宮は保健室を後にした。
扉が閉まった後、南雲先生が長く深い溜息を吐いた。
「ああは言われちゃったけど、担任に言わないわけにはいかないんだよね」
力なく呟く南雲先生を元気づけたくて、俺は努めて明るい声を出す。
「まあ、そうですよね。ここで黙ったままにして、後々大事になったら南雲先生の責任になっちゃうし。あんなクソガキのために先生がそんなリスクを背負う必要はないですよ」
「まーたそんな口の悪い」
窘めながらも、その表情はさっきよりも柔らかかった。
南雲先生は仕事机の上に立てられている本や書類の中から学年名簿を手に取り、パラパラとめくりだした。
「えっと、雨宮昴さんは何組だったっけ」
「ああ、あいつが雨宮昴ですか」
「そうだけど、知ってるの?」
「あいつ、美術部ですよね? 美術室に置いてある絵に名前が付いてたんで」
「なるほど。さすがよく覚えてるね」
「あ、ちなみにあいつのクラスは二年五組ですよ」
「うん、ありがと。とりあえず、後でまた担任の先生に話してみる。ほらほら、山際くんも早く授業行きなさい」
「えー、俺もクラスで孤立してるから戻りづらいんですけどー」
「君は好きでそうしてるんでしょ。ほら、頑張って」
南雲先生はいつもの麗しい微笑みを見せて、俺の背中を叩いた。