第一章 襟に夕暮れ ③
予想通り、先週の美術の授業は前田の文句を散々聞かされた。
だから俺は、もう今週は行かない方がいいと判断した。ちょっとここらで休憩を挟まないと、前田のストレス値が大変なことになってしまう。そろそろ更年期に入る頃だろうし、労わってあげないと。
「南雲せんせーい、会いに来ちゃいましたぁ」
俺は保健室の扉を開けながら、そこにいるはずの南雲先生に向けて甘えた声を出した。
「あれ?」
だけどそこに白衣の聖女の姿はなく、代わりにジャージを着た女子生徒がちょこんと革張りのソファに腰かけていた。
雨宮、もとい、下痢女だ。
二年にもなればウエストの位置を下げたり、裾ファスナーを開けたりするものなのに、下痢女は白い靴下が覗くくらいキチンとズボンを履き、胸元のファスナーさえもしっかり上まで閉めていた。手元の文庫本を見つめるその目元には、長いまつ毛の影が落ちている。
今日はそこまでひどくないのか、下痢女は血色のいい顔をゆっくりとこちらに向けた。
「南雲先生は職員室に用があるみたいで、少し席を外すとおっしゃってましたよ」
幼さの残る高い声とは不釣り合いな、大人びた口調だった。
「なーんだ」
俺はがっかりしながら中に入ると、ベッドに直行した。上履きを脱ぎ捨て、清潔なシーツの上にダイブする。寝転んだままポケットからイヤホンを取り出し、耳に装着しようとした時だった。
「あ、あの……」
頭をもたげて声のした方を向くと、下痢女が困惑したような顔でこちらを覗き込んでいた。
「具合、悪いんですか? 南雲先生呼んできましょうか?」
困惑ではなく、どうやら心配だったらしい。
俺は頭を枕に戻しながら、「いや、いい」と適当に返す。
「でも、しんどいから寝てるんですよね?」
「いや別に。することがないから寝てるんだけど」
「え?」
「え?」
「ここ保健室ですよ? ベッドは具合の悪い人が使うものでしょ?」
低く、軽蔑の混じった声が返ってくる。
なんか思ったより面倒くさいやつみたいだ。
俺は溜息を一つ吐き、ごろりと横向きになる。
「まあ、ある意味で俺も病気だからさ」
「病気?」
いつの間にか、下痢女が目の前で怪訝そうに俺を見下ろしていた。
「そう。南雲先生のことを考えるだけで、動悸が激しくなって胸が締め付けられて、見える世界がこう……水を撒いたみたいに煌めくんだよ。分かるかなぁ」
「え……それって、南雲先生に恋をしているってことですか?」
「人に言われるとさすがにちょっと照れるけど、そういうこと」
「叶うわけないじゃないですか。先生ですよ? 一回り以上も年上なんですよ?」
「叶うとか叶わないとかじゃないんだよ。俺が先生を好きって事実にこそ意味があるんだから」
「はあ? 全然分からないんですけど」
なんで初対面の後輩に、南雲先生に対する俺の気持ちをどうこう言われなきゃいけないんだ。そこは聖域だぞ、クソガキ。
「あんた、いじめられてるだろ?」
俺の会心の一撃に、下痢女の表情が強張る。怯えたように視線が揺らぐ。
「そんなことないし……」
今にも消え入りそうな反論が、エアコンの乱暴な風に吹き飛ばされていった。
相手は弱っている! チャンスだ!
「じゃあなんで毎週木曜の三時間目に一人だけジャージなんだよ? クラスみんな制服に着替えてんのにさ。どうせ誰かに隠されてるんだろ?」
「ちがう……」
「なにが原因なんだ? 興味なんか微塵もないけど、仕方ないから聞いてやるよ。いやまあ、大体予想はつくけどさ。その鬱陶しい性格が災いしたんだろ?」
「だからちがうって言ってんでしょ‼」
悲鳴に近い金切り声が響くと同時に、ガラリと扉が開き、南雲先生が目を丸くしながら入ってきた。今日は気温が高いからか、毛量の多い髪を後ろで一つにまとめている。かわいい。
「ちょっとちょっと、なに喧嘩してるの?」
「いや先生、この下痢女が勝手に騒いでるだけですよ」
「はあ⁉ 下痢女ってなに⁉」
下痢女が顔を真っ赤にして俺に掴みかかろうとするのを、南雲先生がなんとか羽交い絞めにして止めた。「雨宮さん、どうどう」と落ち着かせている。くそ、羨ましい。
「だってこの前、腹押さえながら保健室来てただろ」
「ばあああああか‼ 死ね‼」
「山際くん、さすがにそれはデリカシーがないよ。謝りなさい」
雨宮を押さえつけながら、南雲先生が険しい顔つきで言った。
仕方なく、俺は上体を起こしてペコリと頭を下げる。
「ごめんなさい」
「はい、よくできました。雨宮さんも、死ねとか言わないの」
「……そうですね。すみません」
雨宮はなぜか俺にではなく南雲先生に向けて謝罪した。
「それじゃあ、ゆっくりお話しましょうか。雨宮さん、そこの椅子に座って」
「え、でも……」
雨宮はチラと俺の方を気にしだした。南雲先生が後ろからその両肩に手を置く。
「大丈夫だよ。制服のこと、教えてくれたの山際くんだから」
「え、そうなんですか?」
「うん。それに、彼は噂を広めたりする人じゃないから」
南雲先生がそう断言したのを聞いて、俺はなんだか心臓の辺りがむず痒くなった。嬉しいのに恥ずかしくて、無性にこの場から逃げ出したくなる。
「まあ、話す相手がいないですから」
このもじもじした感情を誤魔化すためにあえて口にした俺の自虐に対し、南雲先生はすべてお見通しだと言わんばかりに「それもそっか」と微笑んだ。本当、この人には敵わない。
「それならまあ、いいですけど」
雨宮は納得したらしく、南雲先生に背中を押されるがまま椅子に腰を下ろした。
閉め切った窓から一望できるグラウンドには、人の姿も影さえも一つもなく、ただ日に照らされて白っぽく光る地面が広がるばかりだ。そののどかさを満喫しながらも、俺は、スプリンクラー作動しないかなぁ、とぼんやり考える。
「何があったのか、話してくれる?」
雨宮と向かい合って座る南雲先生が、相手の髪をそっと撫でるような声色で訊ねた。
少しの間の後、雨宮は詰まりながらも一つ一つ丁寧に事のあらましを話していった。