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第一章 襟に夕暮れ ②

 この学校の購買部のパンはどれもまずい。

 だけど唯一、『紅ショウガたっぷり焼きそばパン』だけは、パンのパサつき感も、ソースでべちゃべちゃになった麺も、異常な量の紅ショウガの功績によってなんとか食べられなくもなかった。


「南雲先生、購買部にパイプとかありません?」


 俺は一年の時から毎日食べているそのパンに、少々うんざりしていた。先日、牛丼屋で紅ショウガの蓋を開けた時に、ウスターソースの幻覚ならぬ幻臭を感じてしまったからだ。

 南雲先生は仕事机で小さな弁当箱を広げて、律儀に手を合わせているところだった。お祈りポーズをしたまま、呆れたように笑う。


「あるわけないでしょう」

「ですよねぇ。どうしたら販売元を変えられるんでしょう?」

「なんで? そのパン好きなんでしょ?」

「まさか。これしか食べられるものがないから仕方なくですよ。もともとあんまり食にこだわりがないから二年間我慢してこられましたけど、さすがにもう限界です」


 俺は口の前まで持ってきた焼きそばパンをそっと袋に戻した。代わりに紙パックの牛乳にストローを挿す。ひんやりと冷たい牛乳を吸い上げながら、呼吸するように膨らんだり萎んだりを繰り返すカーテンをぼんやりと眺めた。


「そういえば、さっき来てた雨宮って二年、制服持ってたんですね」


 俺は誰もいない二つのベッドを横目で見て、何の気なしに言った。

 焦げ目一つない、色鮮やかな卵焼きを箸で掴んだまま、南雲先生は意外そうな顔をこちらに向けた。


「山際くん、雨宮さんのこと知ってたの?」

「いや、全然。上履き見ただけです」


 うちの学校は学年ごとにカラーが決められている。三年は青色、二年は黄色で、上履きや名札や体操着入れ等々、一目でそいつが何年生なのか分かる仕様になっていた。

 さっき保健室に入ってきた顔面蒼白(下痢)女子は、爪先のゴム部分が黄色で、おまけにでかでかと“雨宮”と書かれた上履きを履いていた。


「そういうことね。でも、制服持ってるっていうのは? 生徒なんだから着てるのは当たり前でしょ?」


 南雲先生は分厚い卵焼きを一口で頬張ると、もぐもぐしながら器用に訊ねてきた。


「この前の木曜に移動で……ほら、北階段から美術室に行くのに二年の教室の前を通らないといけないじゃないですか。その時にたまたま見かけたんですよ」

「雨宮さんを?」

「まあ、はい。クラスのみんな制服着てるのに、あの人と、あともう一人の女子だけジャージ姿で」


 あの時、すでに授業は始まっていて、どこの教室も大勢の人間がいるとは思えないほど静かだった。教師の声やチョークで黒板を叩く音だけが、廊下の冷たい空気を震わせていた。

 その二人は、とにかく目立っていた。紺のブレザーと黒の学ランの中で、明るい緑色のジャージが二つだけとなれば、仕方のないことだろう。

 だけど、なぜかその二人の態度は正反対だった。雨宮はピンと背筋を伸ばして堂々としていたが、もう一人は隠れるように縮こまっていた。


「そうなんだ。着替えそびれたのかな?」

「今のとこ、三週連続ですけどね」

「え、それって……」


 南雲先生が眉根を寄せて苦い顔をする。

 基本的に、体育か部活の時間以外は制服を着用するよう指導されている。姑のように生徒の風紀に目を光らせているタイプの教師に見つかれば、その場で即着替えることを強要されるだろう。


「体育委員で後片付けでもさせられているのかもしれないですね。ほら。二年は今ハードル走だから」


 俺は急いでフォローを入れた。

 南雲先生は笑っている顔が一番いい。こんな困ったような表情は、あんまり見たくない。


「……うん、そうだね。でも、ちょっとそれとなく聞いてみるよ」


 南雲先生は困った顔のまま小さく微笑んだ。




 南雲先生に会えない地獄のようなゴールデンウィークがやっと終わり、木曜三時間目の美術の時間、俺は授業開始二分前に三階へと向かった。

 廊下にはほとんど人の姿がないが、どこの教室もまだ生徒が立ち歩き、騒がしい空気がそこかしこでぶつかり合っている。

 二年五組も、他のクラスと同様に賑やかだ。俺は教室の前を通り過ぎる時にちらりと中に目をやった。

 ジャージ姿の女子が一人だけ。

 顔面蒼白(下痢)女子こと、雨宮だ。

 雨宮は席に着いて、じっと何かに耐えるように項垂れている。おかっぱの髪の先が机の上に付いてしまいそうだ。他の教室と同様、ここもほとんどの生徒が席を立ち、それぞれ所定の位置でマーキングをしているのに、雨宮の周りには誰も寄り付いていない。


 まさか、漏らしたのか――?


 本鈴が鳴り響く。二年生たちはガタガタと机や椅子にぶつかりながら、各々の席へと移動しはじめる。

 俺も早く美術室に行かないと、また担当の前田に嫌味を言われる。先週なんて、「あら、山際さんはまた具合が悪くて保健室にいるのかと思いました」と、隈に囲われた目で睨まれたっけ。

 あ、やべ。教科書も筆記用具も何も持ってきてない。


「まあ、いっか」


 前田の嫌味を聞くよりも、一階の教室まで戻る方が面倒だ。

 俺は開き直ると、そのまま美術室を目指した。


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