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第二章 アップルパイは恋の味 ⑥

 保健室は無人だった。西側を向く大きな窓から差し込む夕日が、宙に浮かぶ埃をキラキラと輝かせている。


「保健室に何かあるんですか?」


 文化部らしく息を切らせながら追いついた雨宮が、後ろから訊いてきた。


「うん。たぶんな」


 俺は窓際にじっと佇むソファに近寄った。夕日がまつ毛にかかって重たく感じる。

 俺は目を凝らしながら、意を決してゴミ箱のフットペダルを踏んだ。中には、脱脂綿と綿棒と絆創膏の包装紙と、それから大量のティッシュが入っている。


「ゴミ箱がどうしたんですか?」


 困惑気味に覗き込んでいる雨宮をよそに、俺はゴミ箱の中に右手を突っ込んだ。


「えぇ……」


 どうやら雨宮はドン引きしているらしいが、そんなことはどうでもいい。というか、もう慣れた。構わず俺はティッシュの山を掻き分けていく。


「……あった。やっぱり」


 ゴミ箱の底の方に、見覚えのあるアップルパイが二切れ沈んでいた。そのうちの一つにだけ、角に齧られた痕跡がある。


「ひどい、捨ててたなんて」

「ああ。ぜってー許さねぇ」


 俺と雨宮は顔を見合わせると、互いの感情の一部を交換するみたいに頷き合った。

 よくよく考えてみれば、あの時俺たちが保健室を出てから戻るまで、そんなに時間は経ってなかったはずだ。せいぜい六、七分といったところだろう。そんな短い時間で、女子がアップルパイを二切れも平らげ、机の上を掃除し、その場を去るのは、なかなか難しいんじゃないか。

 だけど、単に捨てたとなれば、時間の余裕は十分あったと考えられる。


「あれ、一つだけちょっと食べられてますね」


 膝に手をついてゴミ箱を覗きながら、雨宮が言った。


「うん。だから、机まできれいにしたんだろうな。齧った時に少なからずカスがこぼれただろうから、まとめて証拠隠滅を図ったんだ」

「そもそもなんですけど、犯人はこのアップルパイが南雲先生のものだって分かってたんですかね?」

「と言うと?」

「犯人は最初から鷹野先輩に嫌がらせをしようと思ってここに来たんじゃなくて、ただのお見舞いだったんですよ、きっと。それでいざ来てみたら、手作りと思われるアップルパイが机に置かれていた」

「つまり、せっかく見舞いに来てやったのに鷹野が菓子食って寝てやがるから、イラついたってことか」

「ちがいます、全然」


 雨宮は冷めきった目できっぱりと否定した。


「たぶん、他の彼女が持ってきたんだと勘違いしたんですよ。それで腹が立って衝動的に一口食べた。だけど、捨ててやった方が二人の仲を引き裂けるかもしれないと考えた。ってことです」

「なるほどなぁ……あんた、意外と女心とか分かるんだな」

「そりゃあ女子ですからね」


 雨宮はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 その時、保健室の扉が控えめに開けられた。俺と雨宮が振り返ると、そこには体操着姿の鷹野が立っていた。


「あれ、二人とも何してるの?」

「お前こそ、なんの用だ?」


 つまるところ、こいつの色恋沙汰のせいで南雲先生が傷付けられたわけだ。俺は憤然と鷹野の前に立ち塞がった。それにしてもこいつ、本当に身長高いな。春の身体測定で百六十八センチだった俺より十センチくらい差があるんじゃないか?


「練習中に軽く足を捻ったから診てもらおうかと思って」


 鷹野は苦笑しながら右足を上げて見せた。


「南雲先生は留守?」

「なあ、あんたさ、一年の柳って人と付き合ってるんだろ?」


 鷹野の質問を無視して、俺は真正面から問いかけた。


「え、まあ、そうだけど」

「今日あんたがここに来てベッドで寝る時、その彼女に連絡したりしたか?」


 鷹野の表情から朗らかさが消え、動揺したように瞬きを繰り返す。鷹野は何も答えなかったが、その沈黙がすべてを物語っていた。


「あれ、三人してどうしたの?」


 鷹野の背後から鈴の音のような可憐な声が聞こえた。鷹野が横にずれると、書類を胸に抱えた南雲先生がきょとん顔で立っていた。

 南雲先生、消えたアップルパイの謎が解けました!

 俺が嬉々として報告をしようとした、その時だった。


「南雲先生。先生のアップルパイを黙って食べたの、俺です。すみませんでした」


 突然、鷹野が力強く懺悔し、深々と頭を下げた。南雲先生と雨宮は、呆然とした顔でその姿を見つめている。


「はあ? あんた、何言って――」

「腹減ってて、そしたら美味そうなアップルパイがあったから、つい……本当にすみません」


 鷹野は腰を直角に曲げたまま、俺の言葉を遮った。

 南雲先生は一歩前に出ると、鷹野の肩をそっと叩いた。そして、ゆっくり顔を上げた鷹野に、聖母のように微笑みかける。


「そうだったんだね。うん、正直に話してくれてありがとう。大丈夫だよ、また作ってもらうから」

「え、あれって南雲先生が作ったんじゃないんですか?」


 雨宮が素っ頓狂な声を上げた。俺は驚きのあまり言葉が出てこない。


「あれ、言わなかったっけ? あれは家族が作ってくれたものなんだ。私は料理とか苦手だから」


 肩をすくめてお茶目に笑う南雲先生があまりにもかわいくて、俺は到底責める気にはならなかった。


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