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第二章 アップルパイは恋の味 ③

 保健室の扉を開けると、緩い冷房の風が出迎えてくれるだけで、南雲先生の姿はなかった。ベッドのカーテンは閉められたままになっているから、鷹野とかいうやつはまだ寝てるんだろう。


「南雲先生戻ってくるまで待ってようかな」

「教室戻れって言われたじゃないですか」

「あんただけ戻ればいいだろ。俺は一人で静かに音楽聞いてるから」


 雨宮は反論してこなかったが、不満そうに口を尖らせている。くそ面倒くせぇ。


「あ、あったあった」


 さっきまで座っていた丸椅子の上にMDプレーヤーを見つけ、拾おうと近付く。すると、机の上に置かれたままになっていたタッパーが視界に入った。


「あれ?」

「どうかしたんですか?」


 後ろから雨宮も近付いてきて、タッパーの中を覗いた。


「あれ……私たち、全部食べましたっけ?」


 雨宮は不安げな面持ちでこちらを見上げた。俺はゆっくりとかぶりを振る。

 もともとタッパーの中には六切れのアップルパイが入っていて、俺が二つ、南雲先生と雨宮が一つずつ食べたはずだ。そうなると当然、残りは二切れということになる。

 だけど、今タッパーの中にアップルパイは一つもなく、パイ生地のカスさえ残っていない。


「南雲先生は私たちと一緒にここを出たから、普通に考えて、鷹野先輩ですかね。起きて、食べて、また寝たと」

「二つ残ってて、二つとも食べるか? どんなに図々しいやつでも、日本人ならなんとなく一つは残しておくもんじゃない?」

「そういう常識はあるんですね」


 雨宮は何食わぬ顔で侮辱してきやがる。


「でもまあ、たしかに。だけど、四股もするようなやつですよ? その辺の倫理観イカれてるんですよ、きっと」

「なるほどなぁ」


 俺はもう一度、机の上をよく観察してみた。真ん中に置かれたタッパー以外は何もなく、パイ生地のカス一つさえ落ちていない。


「……やっぱおかしい」

「なにがですか?」

「アップルパイを食べた時、雨宮は机にティッシュを敷いてただろ? 俺も南雲先生の前で汚い食べ方なんてできないし、こう、左手を受け皿にして食べた。それでもこぼれたカスは、最後にティッシュで拭き取った」


 雨宮は唇を引き結んで俺の横顔をじっと見つめている。なんだ、黙っていることもできるんだな。


「でも、南雲先生は豪快だった。机の上だけじゃなく白衣にまでカスが付いていたけど、まったく気にしてないみたいだった。先生はそのままここを出たはずだ」 

「え、でも、今机の上はきれいですよ?」

「だからおかしいって言ってんだよ。南雲先生がいたところは汚れているはずなのに、こうしてきれいになってるってことは――」


 俺はベッドを囲っているカーテンに視線を向けた。夏に向かって日に日に強くなっている日差しが、そのクリーム色の布地の上で静かにゆらめいていた。


「――証拠隠滅を図ったってことだ」


 雨宮の喉がゴクリと鳴る。


「鷹野先輩がってことですか?」

「残ってる分を全部食べるようなやつが、わざわざそんなことしないだろ」

「うーん、ただ単に潔癖症だったとか……図々しくて意地汚いけど、机が汚れているのは見過ごせない、みたいな」

「そうだなぁ」


 俺はカーテンに近付くと、床に両手を着いて下を覗き込んだ。どこか懐かしさを覚える、埃っぽいにおいが鼻先をかすめる。爪先のゴム部分が青色の、“鷹野”と書かれた上履きが無造作に置かれているのが見えた。


「えぇ……急に何してんですか?」


 背後から雨宮のドン引きした声が聞こえる。

 俺は起き上がって両手をパンパンと叩いた。


「やっぱりこいつじゃないよ。上履きの位置が、さっきベッドに上がった時と同じだったから。さすがに上履きも履かないまま歩いてアップルパイを食べたとは思えない。他の誰かが保健室に来て、アップルパイを二つも食べて、それで机をきれいに拭き取ったんだ」


 顎に手を当ててふむふむと聞いていた雨宮は、渋い顔のままこちらを見上げた。


「……妖怪か何かですか?」

「そうかもな」


 ちょうど予鈴が鳴り響き、それが止むと同時に目の前のカーテンが勢いよく開いた。


「あれっ、どうかしたの?」


 鷹野は熟睡していたらしく、切れ長の目をしょぼしょぼさせていた。

 俺は改めて、鷹野の顔面をまじまじと見た。たしかに背も高いし、どちらかと言えばイケメンの部類だと思うけど、本当にこんなやつが四股できるほどモテるのか?


「ちょっと聞きたいんだけど、ここに誰か来なかったか? 俺たち以外で」

「え、さあ? ずっと寝てたから」

「そっか……」

「なんで? 何かあったの?」

「南雲先生のお手製アップルパイを全部食べた不届き者がいるみたいで」


 俺がタッパーの方を振り返ると、視界の端に映る雨宮が「あ、それ言うんですね」と呟いた。


「アップルパイ? あ、そのタッパーがそう?」


 鷹野はそちらに歩み寄って、中を覗いた。


「私たちと南雲先生が保健室から出て行った時には二切れ残ってたんです。それが、今戻ってきたら全部なくなってて」


 雨宮は淡々と説明しながら、口調にそぐわない熱い視線を鷹野の横顔に注いでいる。こいつ、さっきはあんなに悪く言ってたくせに。


「なにそれ、不気味だね」


 どうしようもなく痛い雨宮の顔を見ながら、鷹野は安心感を与えるような低い声で優しく同調した。なるほど、こういうところがモテるのかもしれない。

 俺が喉を鳴らして、声変わりを経ても大して低くならなかった声を調整していると、保健室の扉が開けられた。


「三人とも何してるの? もう予鈴鳴ったでしょ? 早く教室に――」

「南雲先生、誰かが先生のアップルパイを全部食べちゃったみたいです」


 雨宮が代表面して南雲先生の言葉を遮った。

 南雲先生は「え!」と驚いてタッパーの中を覗くと、「本当だね」とちょっと寂しそうな声で言った。


「うん、大丈夫だよ。ほらほら、早く教室行きなさい。授業に遅れちゃう」


 南雲先生はいつも通りの笑顔を見せてくれたけど、俺はかえって胸が詰まる思いがした。


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