一体何が起こったのでしょうか?
えぇ、どうしてこうなったのか理解出来ません。
それが今のわたくしの心境です。
目の前には廊下に寝そべった一人の少女。
それこそ横の空き教室の開いた扉の影からいきなり飛び込む様に倒れ込んで来たので助ける暇すらありませんでした。ビタンっと大きな音まで立てていたのでかなり強く身体を打った事でしょう。
俯せてピクリとも動かない淑女とは程遠いその姿は、実際には知らないが書物で見たカエルという生き物を思わせます。特にやや腕と足をくの字に折れ曲がらせているので余計に似た感じですし。
咄嗟に自分の前に飛び出て庇った護衛のフィーズと互いに顔を見合わせますが、おそらくは自分もその彼と同じ表情を浮かべている事でしょう。
まぁそれを言うならば、ちょうどその場に居合わせた生徒達全員が同じ表情だとは思うのですが。
膝下のスカートが少し捲れてしまってまでいます。
それに気付き、淑女とは程遠い姿をこれ以上晒さない方が良いかと咄嗟に判断して自分の上着を脱ごうとしましたら、それをいち早く察したフィーズが代わりに纏っていた護衛の証のマントを外して彼女に掛けました。優秀ですわ、相変わらず。
それでようやく少しだけホッと出来たので頭が回る様になって来ました。やや離れた場所に横たわる、意味不明な行動をした少女なだけに躊躇われはするが声を掛けない訳にはさすがにいかないでしょう。
「……あのぅ、もし、大丈夫でしょうか?」
「……うぅぅ……鼻、打った……痛い……」
声を掛けたせいか俯せの少女が身動ぎます。
顔は打った様ですが意識は戻ったからしいです。
ならば早目に保健室へと運ぶなり行くよう促すなりした方が良いかと考えて更に声を掛けました。
「差し支え無ければ保健室へと行かれた方が宜しいかと存じますわ。動けない様ならばわたくしの護衛にお送りさせますけれども……?」
「な……、なによなによ!自分で足を掛けて私を転ばせた癖に好い人ぶらないでよねッ!!」
「え?っと……あの、頭を打たれましたか?!」
急にがばりと起き上がって怒鳴り付けられました。
が、言われた内容に心当たりが無かったので思わず聞き返してしまいました。ただ目の前で転ばれただけからと声を掛けただけで何故いつの間にやらこの少女を自分が転ばせた事になるのでしょうか?
鼻を打ったと言われましたのでもしや頭を打ったのかと思い焦ってそう返したのですが……。
「はぁッ?!私を虐めといてイイコぶろうなんて酷い悪女よねッ!!なんて悪辣なの?!」
「あの……その前にお伺いしたいのですが……」
「なによ!今更冤罪だなんて言わせないわよ!?」
「いぇ、その、ですね。虐めといてだの冤罪だ何だと貴女は仰っておいでですが、わたくしとしましてはその前に貴女のお名前を存じ上げないのでお聞きしておきたいのですが……?」
キッと睨んで来る少女を前にして、わたくしとしましては戸惑ってしまいました。
そうなのです。
言われた内容は心当たりなどもちろんございませんが、顔を見ればもしかすると?とも思われましたが少なくとも自分には見覚えなどございません。
身分が高いわたくしはこの国の大抵の貴族子女との交流はございますが、目の前で起き上がった少女の顔には何度思い返しても記憶に無いのです。
大抵のとは申しましても交流が有るのは伯爵家以上の家ですからそれより下の爵位の令嬢ならば漏れが有っても可笑しくはございませんけれども。
「ふ……ふざけないでよッ!そんな事を言って煙に巻こうたってそうは行かないわよっ!!」
「そうは言われましても……」
「ふ、ふんッ!アンタが私を虐めてるのは事実だしこの場で私に嫌味まで言って恥をかかせたのも事実なんだからねっ!!覚えてなさいよッ!!」
そう叫んでわたくしを指差すと、つい先ほどまで転ばれて痛がっていたのが嘘の様に立ち上がり、そしてあっという間に走り去って行かれました。
…………保健室には行かれなくても大丈夫なのでしょうか?打たれた頭が心配になってしまいます。
それと「煙に巻こう」とはどういう意味なのでしょうかね?後ほど誰かに聞いてみましょう。
☆☆☆☆☆
『『『『『えええぇぇーー?!?』』』』』
その場の全員がまた一つになった瞬間だった。
不本意ながらこの場に居合わせた者はある意味証人だとも言える。そして全員はキチンと見ていた。
転んだ少女と声を掛けた令嬢。
今のそれの、何処をどう切り取れば加害者と被害者が逆になるのかがどう考えても理解出来ない。
まるでその進路を妨害するかの様な強烈な飛び込みで転んで来た少女。身体を打ったのも意識が一瞬失くなったのも全てはこの少女のせいだろう。
むしろ自業自得という言葉がピッタリ来る筈だ。
なのに、転んだ少女を気遣い、無様な姿を晒さない様にとの行動まで取った相手を罵倒し、あまつさえ怒鳴り散らして謝りもせず走り去って行ったのだ。
呆れる以外にどんな反応をすれば良いのか?
誰もそれ以外の答えは出せなかっただろう。
それにしても、常時心配していた令嬢に比べて一方的に罵倒を繰り返していた相手の少女との会話。
その方向性が互いに全く噛み合っていなかった。
そもそも、万が一にも令嬢が少女に嫌がらせをしていたとして、名も知らない相手にそんな真似をする意味が有るのか?とも思えてしまう。そして聞いた全員が、令嬢が名を彼女に問うた時には笑いを堪えるのに苦労した事は確かだった。
そしてその後、ある件から居合わせた生徒はこの件について証言を求められる事となり、全員が正直にその時の心境と併せて証言する事となった。
その場に居合わせて後に証言者となった生徒全員の証言内容の一部が見事に一致しているという、歴史上稀にみる調書が作成される事になるなどこの時には作成した者も想像だにしなかった。
☆☆☆☆☆
「何だったのでしょうね?一体……」
「お嬢様がお気に掛ける必要などございませんでしょう。狂人の戯言など放置で構いますまい」
思わず少女が走り去った方角を眺めながら呟くと、フィーズから返って来たのは普段の彼には似合わない程に冷ややかな言葉。これはかなり怒って居りますわね。普段は温厚な性格をしていますのに。
それにしても狂人とは随分と辛辣ですわね。
確かに会話が成り立ちはしませんでしたけれど。
名前は結局存じ上げませんので少女さんとお呼びしますが、そもそも何をしたかったのかが分からず仕舞いでしたので戸惑いしかございませんわね。
「そうね……。結局貴方のマントを汚してしまっただけになってしまいましたわ……」
「それは特に問題ございません、この程度は洗えば落ちますから。それよりも急だったとはいえ一瞬でお嬢様の身を危険に晒す不覚を取った自分が不甲斐なくて堪りません……」
「怪我は無かったのだし問題など無いですわ。ですからもう自分を責めるのはお止めなさいな」
「はい……」
項垂れるフィーズを慰めます。
わたくしが幼い頃から付き従いこの身を側で守って下さったフィーズはわたくしにとって年の離れたお兄様の様な存在です。ですから尚の事、彼が自身を責める姿はわたくしには辛く感じてしまいますわ。
そうなのです。
わたくしの上着より先にあの少女さんへと掛けたフィーズのマント。結局は彼女が走り去った時には床に無惨に放り投げられてそのままにされてしまいました。皺になってしまいましたし汚れてもしまったでしょう。せっかくの配慮でしたのにこのままでは心が痛みますわ……。
取り敢えず気分を切り換える為にも本来の用事を済ませに向かいましょうか。わたくしが歩き出すのに合わせてか、周囲で様子を伺っていらっしゃった方々も各々に動き出された様ですしね。
フィーズも床のマントを拾い上げて肩では無く腕に抱えました。後で家の洗濯係にわたくしからも一言添えて頼みましょうかしら?
あぁ、此方は王都にある学園ですわ。
王国の子供は15歳から3年間通う事を推奨されている、王家が二百年程前に立ち上げた国主導の教育機関の一つでして、王国全土に広がる幾つもの教育機関の沢山の学舎の中心地でも有ります。
地方に分散する教育機関は主に平民向けです。
15歳までに其処に通って子供は基本的な教育を受けて将来に備え、成人年齢に達してから自分に向いた職業に就いたり家業を継いだりします。
他にも、領地の貴族が運営している教育機関もあり、そちらは国が補助金を出してより高度な教育を受けさせて国の役人や機関に従事する人材へと育て上げるのです。その殆どが貴族ですが、中には優秀な平民も交じる事もそれなりに有るそうですわ。
そしてその後、この王都の学園へと更に進む者も一定数居りますわね。残りは主に貴族の基本教育は家で家庭教師に教わって済ませ、将来の為の交流と顔繋ぎを兼ねた社交の場として学びに来る貴族の子息子女でしょうか。割合としては4対6かと。
もちろん身分の上下を重んじる王国ですが、この学園においては身分よりも成績と人と為りに重きがおかれます。建前には近くとも、暗黙の了解の様に代々継承されて来たこの学園の風潮でもあります。
正式名称は別として王家に対する敬意を評してか『王都学園』との通称で皆から呼ばれてますの。
わたくしも今年からこの学園に通っております。
1ヶ月程経ち、ようやく案内無しにこの広い学園を歩ける様になったと言った所でしょうか。
あんな騒動に捲き込まれたのは初めてですが。
「お約束の時間に少し遅れてしまいそうね」
「きちんと訳を話せば分かって下さる方ですから問題は無いと思われます。また怪我に繋がりかねない事態もございますから無理に急がれませんように」
気が急いて足を早めようとしましたらフィーズから釘を刺されてしまいました。ですがあまりお待たせ出来る身分の方ではございませんのよ?
何せ忙しい執務の合間にわざわざわたくしとの昼食の時間を設けて下さっているのですから。
「大丈夫だと申し上げたではないですか。ですのでお嬢様が急がれる必要は特にございません。万が一にも婚約者殿がお嬢様へそこまで狭量な事を言われましたら私が責任を持って躾直……いぇ、言い聞かせますからご心配には及びませんよ」
「………………?」
フィーズが一瞬何かを言い直していた様な気がしましたがわたくしの気のせいでしょうか?
あまりにも小さくて聞き取れませんでしたわ。
まぁ、わたくしの護衛となる前にあの方の剣術指導の教官を拝命していたフィーズの事。わたくしよりもお付き合いの期間はずっと長いですものね。
その方からのたっての頼み、とやらでフィーズがわたくしの護衛になり側に付き添う様になってからもう5年も経つのですね、月日とは早いものです。
最初は『甘ったれのお嬢様の護衛なぞ……』と思われていたそうですが、わたくしは特殊な教育を受けねばならない立場から毎日が忙しく、それでも将来の為にと必死に喰らい付きこなす姿を見て考えを改めて大切に守ると誓われたそうですわ。
これは2年ほど前にご当人の口から直接伺ったお言葉ですので間違いございません。わたくしとしては生来の負けず嫌いに火が着いた結果なだけですので、称賛紛いのその言葉を告白されました時には恥ずかしくて堪りませんでしたけれども……。
あぁ、思い出に浸っている場合ではありませんね。
フィーズに咎められない程度には急ぎませんと本当にあの方をお待たせしてしまいますわ!?
自分に対して心配性な婚約者を思い出して速度は抑えながらも気持ちは急いてしまうものです。
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尚、横を同行しながら更に周囲への警戒度を強めた護衛に言わせると、その人物をよく知る身としてはむしろ心配性では無くただの拗らせた過保護だろう!?と異論を唱えたくて仕方なかったが、かろうじて自分の内心で留めたが為に半ばのその叫びがお嬢様には届く事は無かった。
そう、これからお嬢様が逢う婚約者はそれはそれは彼女への愛情に満ち溢れた相手なのだ。
端から見てもその度合いはかなり突き抜けた類いのそれに気付かないのは当のお嬢様のみである。