第三話 契約
大切なテディベアのぬいぐるみ。自身の体よりも少し小さいだけの大きなぬいぐるみ。
志得は、真剣なまなざしで秋音を見上げていた。秋音より、頭二つ分、もしかしたら三つ分低い志得。幼い顔立ち、しかしその表情は大人びて見え、年嵩のようにも見えた——のは一瞬だった。
志得がなかなか切り出さないので、思わず「何?」と志得に聞き返す。
そう問うと、志得はゆっくりと話し始めた。
「話を聞く前に、こう考えて。秋音くんはあの時点で一度死んでいる。思いがけなく残された余生を、私の為に費やしてほしいの。もともとなかったものなんだから、いいでしょ?」
「……具体的には、何をすればいい?」
秋音はYESともNOとも答えず、そう聞いた。
(卑怯だ、俺は)
だけど志得は何も言わない。
志得は、うつむいていた。横から見た彼女の頬がほんのり赤く見えたのは気のせいだろうか。
「私の」
こっちを向いた時の志得の顔は、爛々と輝いていた。
「私の彼氏になりなさい」
「はあ?」
つい、気の抜けた返事をしてしまった。
「言葉の通りよ」
秋音は少し考えてから言った。
「ごめん。それは無理だ」
「どうして?何が不満なの?」
ためらいながらも、口にする。
「俺、好きな奴がいるんだ」
「は?」
志得の目と口調が鋭くなる。かと思えば、声を出して笑いだした。
「あっはっはっはっは。私はあなたに『好きになれ』なんて言ってないわ。『彼氏になれ』とは言ったけれど」
それに、と志得は続ける。
「私だって別に秋音くんのことが好きなわけじゃない。まあ面白い人だとは思うけどね」
ふふっと志得が笑う。
「それに始め言ったでしょう」ふっと志得が真顔になる。「秋音くんは一度死んだんだって。今、こうして生きていられるのは誰のおかげ?好きな子がいる世界で生きられるのは誰のおかげ?私でしょう。拒否する権利なんてないの」
淡々と志得は述べる。ぞっと冷たい無機質な声だった。
「……分かったよ」
もとから、秋音はお願いを聞く立場ではなく、命令を受け入れなければならなかったのだ。一度でも断ろうとしたことを、何を勘違いしているのだと恥ずかしく思う。
「彼氏って何をすればいい?」
恋人がいたことのない秋音には分からない。
(一体志得は俺に何を求めるのか)
「さあ?」志得は伸びをしてそう言ってのけた。
「私の命令に従っていればいいのよ」
命令に従うのはいいとして、秋音が彼氏である必要はあるのだろうか。
それに、どちらかといえば、お嬢様と従者である。
「そろそろ時間を再開させようかしら」
志得が左手をもう片方の手にかける。
「待って。あの銃弾はどうなる?あのままだと別のやつに当たるんじゃあ」
「ああ、それなら」
パチン、と志得が指を鳴らす。「秋音くん、後ろ」振り返ると、街路樹の後ろから、にゅっと人が出てきた。
「ダグリス、回収してきて」
「かしこまりました、お嬢様」
ダグリスと呼ばれた初老の背の高い男は、秋音が撃たれた場所へ素早い動きで行ってしまった。豊かな髭を上品に伸ばした、志得よりも遥かに彫りの深い顔立ちは、外国人のように見えた。実際そうだろう。
(何者)
初老の者の動きとは思えない俊敏な動きだった。秋音よりてきぱきとした動きをしている。
「ダグリスが何とかしてくれるわ。二度そんなことできないように、遠い遠い場所へ連れってやるから。多分、テロリストだと思うんだけど。秋音はそりゃあ知らないでしょうけど、その他にも多くの人が撃たれていたから、秋音くん個人を狙ったわけじゃないと思うわ。心当たりがないでしょう?」
ポカーンとしていた秋音に志得が言う。
「はあ」
でも、どうやって?と聞くのは野暮だった。ダグリスも能力者なのだ。彼の頬には、志得と同じ、紋章があった。
「あの人はずっと木の裏に?」
「ええ、ダグリスだけは個別に時を止めていたの。指を鳴らせばダグリスが解放されるようにしてね」
志得の手を見て、よく手袋をつけた手で指を鳴らせたものだなと感心する。かなり響いていた。
「契約しましょう」志得が言った。「秋音くんは、私の彼氏としてふるまうこと。私が呼び出せば緊急の用事でもない限り必ず顔を出すこと。そしていつかは私のことを好きになること。……私が死ぬまで死なないこと。この四つよ。秋音くんが約束を守らなければ、私はいつでもこの時に戻せるわ。死にたくなければ、私の言う通りにしなさい。でも私、あなたに死んでもらいたいわけじゃないの」
(契約結婚ならぬ契約交際か)
志得のことを好きになれるかなんて、分からない。正直、現時点では無理だ。
だけど、出来るだけのことをしようと思う。
志得は、帽子を深く被りなおす。
「…いいえ。それよりも、契約を破った時、あなたの一番大切なものを貰う」
志得が空中に文字を描いた。書き終えたとき、それが浮き上がって見えた。
【喜瀬菜々子】
(‼)
「どうしてあいつなんだ?」
思わず、志得を睨んでしまう。いけないことだと分かっていても。
「あなたの一番大切なものだからよ。それはあなたの命や財産ではなく、彼女でしょう。知ってるの。安心して。秋音くんが裏切らなければ、私は彼女に何もしない。無意味に傷つけたりなんかしないわ」
「分かったよ」秋音は頷く。「だから、菜々子には危害を加えないと約束してくれ」
それはあなた次第だわ、勘違いしないでと志得は言った。
「これは口約束。だと言っても、簡単に反故に出来ないでしょ?」
志得が、にやりと笑って言う。彼女なら、やろうと思えば菜々子をひねりつぶすことなんて簡単にできるだろう。証拠も残さずに。
志得が、大きな目を閉じて、胸に手を当て、すうっと息を吸い込んだ。
「時よ、進め‼」
ごおぉん、と地響きのような音が鳴って、目に見えて時が進みだしていく。
途端に、せき止められていたダムの水が勢いよく流れだすように、秋音の耳に様々な音が流れ込んでくる。それを、騒音だと感じてしまうほどに。
初めは、人語として聞き取ることさえできなかった。
行き交う人々の声。有線放送のミュージック。耳をかすめる風の音。雀の鳴き声。衣擦れの音。コツコツと地面をたたくハイヒールの音。
「痛いよお」とさっきの子供はこけ、大声で泣いている。
正直、耳が痛い。それとともにまた戻ってこられた安心感があった。
「志得?」
そこにはもう彼女の姿はなかった。代わりに、忘れ物があった。
『私立エタンセル学園 高等部』の刺繡の入ったハンカチ。そういえば、連絡先も何も交換していなかった。わざわざ、所在が分かるものを残していったのだろう。ここまで来いということか。
(あれは夢だ)
いいや、そうではないと首を振る。現にこのハンカチがそれを言っている。無視してしまいたい。そんな気持ちもないではない。
だが。
【喜瀬菜々子】と、志得の書いた文字を思い出す。
「はああ」
とんだ災難に巻き込まれてしまった。あの時、あの場にいなければ。もう少しゆっくり学校を出ていれば。学校を休んでいれば。アイスクリームの出店がなければ。掃除をさぼっていれば。
だが。
さっきの出来事を思い出すと、いくら別の可能性を思い浮かべても、偶然ではなく必然であったかのように思うのだ。秋音自身が今まで、一つ一つ紡いできた選択肢の山が織りなした場である、そんな風に感じる。
とにかく、起きてしまったことを悔やんでも仕方がない。
ハンカチを拾い、丁寧に通学カバンにしまった。