第二話 掌
聡明な彼女は自身の手が血まみれになるのも顧みず花瓶をたたき割る。
音の主は、すぐに見つかった。くるくると日傘を回している、一人の小柄な少女だった。深い紺色を基調とした、ミリタリーのワンピース。袖口に向かって扇のように広がっており、ストライプの三本線があった。服に合わせた帽子をかぶった頭は、優しい藤の花のような色をしており、癖なく真っすぐ下におりていて、胸の下あたりまで届いていた。小さな顔やワンピースから出ている足、服の袖とはめられた手袋の間からちらりと見える肌は、陶器のようにひどく白かった。
数秒後、秋音は、この少女が秋音と同じように取り残された者ではなく、彼女が意図して作りだしたものであろうことが分かった。
彼女は、おもむろに手袋をはずしたかと思うと、その手を大空に浮かぶ一匹の鳥に向ける。すると、瞬く間に鳥がバサバサと飛び始めた。彼女の掌は光っていた。そこには能力者を示す紋章があった。
自分とは別世界の人間。いや人間と呼ぶべきではないかもしれない。人々は〈神の子〉〈神に選ばれし子〉だと彼らを呼ぶ。強大な力を前にして、他に言葉が見つからないのだろう。
神というのは、人間を超えた存在である。
そのようなものと肩を並べていいものか。そう問う声もあろう。しかし、安易に〈神〉と表現するのは好ましくないと秋音は思うが、また彼ら〈能力者〉も人間を超えた存在であるのだ。〈無い者〉の秋音には分からない。彼らが神かどうかなんて。
なぜ、彼女のような存在と、二人っきりになる必要があるだろう。
目の前の少女を見つめる。秋音より、四つ、五つほど年下だろうか。
「あのさ」
秋音が声をかけると、整った顔をこちらに向けてくる。少女には、幼い顔立ちの中に、凛とした表情があった。そしてすぐに視線を外される。
「何かしら」
いや、何かしらじゃないだろと思いつつ言葉を続ける。
「この状況は一体?時間を止めたのは君?」
秋音は、とっくに解決された疑問を少女に向ける。少女は、こちらに目もくれず日傘を閉じた。そして、さっきのを見て分からないの?というようにため息をついた。風が吹いていたならば、絹のように柔らかそうな髪がふわりと揺れていたことだろう。
「まず、私にすべきことは分かりきった質問ではなくて感謝ではなくて?あなた死ぬところだったのよ。…いえ、一度死んだわね」
そういって口に手を当てて笑う。きゅっと目が細くなる。
(俺が死んだ?)
確かに、死んだかのようなリアルな幻覚を見た。死にそうになって、最悪の状況が頭に浮かんだ。思い込みのせいか、激しい痛みを感じたような気がした。
だけど、秋音はここで生きている。それは覆せない事実。息をして、こうしてものを考えている。
「あなたはきっと私を【時間停止】の能力者だと思ったでしょう。そうなのだけれど、正確には違うわ」
少女は再び右手に手袋をはめた。そして言う。
「【時間操作】よ。時間を巻き戻したり、進めたり、今のように止めたり。こうやって空間の時間を止めるだけじゃなく、人一人の時間や物体の時間を止めることもできるわ。たとえば、果物をドライフルーツに変えたり、使い古したノートを新品の状態に戻したりね。まあその必要は私にはないのだけれど。
銃声が聞こえて、叫び声が聞こえて、何事と思ったら、秋音くんが倒れていたの。死んでいたわ、あの様子じゃあ。だからその時間から少し巻き戻して、時間を止めた。そうしてあなたがここに来るように誘導した」
リアルの死に際の体験も、痛みも、叫び声も、すべてが現実だったというわけだ。
彼女の言葉を聞いていて、引っかかる所があった。それが何かと言えば———。
「なぜ俺の名前を知っているんだ?」
秋音がそう言うと、少女はあからさまに不機嫌な顔をした。
「さっきから質問ばっかりね。まずは礼を言いなさいよ」
幼い容姿の割に、真っすぐ飛んでくる矢のようなきつい口調をしている。彼女の言葉を鵜呑みにするならば、秋音は失うはずだった命を助けられていた。そして、それは本当だろう。開いた目の先には、実弾があったのだから。それは秋音にぶつかるはずだったもの。
「ありがとう。君は命の恩人だ」
「さっきから思ってたんだけど、君ってなんか気障りね。気持ち悪いわ」少女がストレートに秋音に言う。「なぜか上から目線に感じるのはなぜかしら?」
だって明らかに自分より年下だし、と思ったが、彼女の顔を見て言えるわけがない。秋音は上から目線でいるつもりはないのだが、小学生の妹に話しかけるような口調になってしまう。妹いないけど。
「君、って言い続けるのは何だし、名前を教えてくれないか?」
秋音は少女に尋ねる。
少女は、一呼吸おいて、名を名乗った。
「仕方ないわね。君って呼び続けるつもりだったの?…琴宮志得。楽器の琴に、宮殿の宮。志を得ると書いてシエルと読むわ」
「ことみや…しえる」
名まえを嚙み締めるように復唱する。
(変わった名前だな)
彼女は「アジアン」な顔立ちでなく、人形のような愛らしい顔で、目鼻立ちがはっきりしていている。故に、名前が浮いていない。
(志を得る…かっこいい)
素直に、そう思った。
「素敵な名前だね。誰がつけてくれたの?」
「おじいさまよ。って、今はそんなこと関係ないでしょう」
琴宮志得は、立ち上がって、襟を整えた。そして、顔を近づけてきたかと思うと秋音の左目をじっと見つめた。
「何?」と秋音は尋ねる。
それには答えないで、彼女は言った「それはそうと、私のことは志得って呼んでいいのよ。ありがたく思いなさいよね。気安く私の下の名前を呼べるなんて」
少女は高らかに笑う。
「いやいい」秋音は即座に首を振った。別にファーストネームで呼びたい派の人ではないし。あと、何か偉そうでむかついた。
「な、何ですって⁉」
なぜか琴宮はうろたえていた。かと思うと、人差し指を秋音の鼻の先に向けてくる。
「いい?これは命令よ。志得って呼びなさい」
(どうしてこんなにも偉そうなのだろう)
秋音は面倒くさそうに目の前の高飛車な少女を見る。
「琴宮じゃだめなのか」
秋音は無駄に対抗してみる。
「私、琴宮の名前で呼ばれるのが好きじゃないのよ。どうしても家柄が意識されてしまうでしょう?だから私だけの名前、下の名前で呼んでほしいの」
初めからそう言えばいいのにと思う。
(家柄?)
「もしかしてすっごい嬢様?」
そういうと、勝気な表情で、貧相な胸に手を当てて志得が鼻を鳴らす。
(家柄と自分は関係ない的なこと言ってたくせに)
使える権力は使いたいタイプのようである。
「能力者だからか?」
「違うわよ」
志得は即座に否定する。そういえば、聞き覚えのあるような。
琴宮、ことみや、コトミヤ、kotomiya……。
「KOTOMIYAグループ?」
秋音が口にしたのは、世界でも指折りの大企業だ。社長には、次期社長の長男と、能力者である16歳の娘がいるという。
(…?ということは)
「私はKOTOMIYAグループの社長令嬢よ。すっごいお嬢様よ」
本当にそうならば、志得は16歳ということになる。
(俺と同い年じゃないか!あの容姿で?)
つい、琴宮をじっと見てしまう。
「ものすごく失礼なことを考えられてる気がするのだけど?」
察しの良いことで、とつい言葉が口をついて出ていたらしく、志得の拳が腹に飛んでくる。
「ぐほっ」
その細い腕のどこからそれほどのエネルギーが出ているのだと思わせるほどの威力だった。
「これでも手加減した方よ?護衛はいるけれど、もしものことがあるでしょう。自分の身くらい自分で守れないと」
志得の言わんとしていることが分かる。社長の娘であり、希少な能力者であり、襲われる危険はいくらでもあるのだ。それに、かわいらしい顔立ちをしている。変態がいたっておかしくない。
ちなみに秋音は変態でも助兵衛でもない。
「俺は君に助けられた」と、即座に拳骨が飛んでくる。「君じゃないでしょう」「志得様」「馬鹿にされてる気がしてならないわ」「お嬢」「ふざけてるの?」「ことみ…ぐほっ」「志得」「それでよし」
「はっは、は」
志得が目を細めて、口を大きく開く。
「は?」
避ける間もなく。
「ふぁあっくしゅん!」
志得が突然くしゃみをした。当然、わけがわからず突っ立っていた秋音の服に飛び散る。
「……」
「わ、私としたことが!申し訳ないわ!」
「いや、別に気にしなくても」
彼女もそれくらいは気にするという常識はある様である(くしゃみをする前によそを向いてほしい)。素直に謝ってくれるのなら、別に構わない。
「醜態をさらしてしまって。気にしないで」
(そこかよ)
飛沫のふりかかった秋音の制服に興味はないらしい。
仕方なく、「どこ行くの?」と問いかけるお嬢様を無視して、ティッシュ配りのお兄さんのかごからポケットティッシュを頂戴する。多分、飛んだであろう個所をティッシュでかろうじて拭く。
「あら、ごめんなさいね?」
と言って、何かを吹きかけてきた。消毒スプレーだった。
(ずっと持ち歩いているのか)
ポシェットの三分の一くらいのスペースを奪っていそうだ。まあそんなことはどうでもいい。
少し考えて、ティッシュをもう一枚取り出す。
そして、それを鼻にあて。
ぶびーっ、と思い切り鼻をかんでやった。
「秋音くん、女性の前で失礼ではなくって?」
志得が眉をひそめて秋音を見る。
「……」
とりあえず、丸めたティッシュを公共のごみ箱に捨てた。
この時間はいつまで「続く」のだろうと志得に聞こうとすると、先に彼女の方が口を開く。
「ねえ、私はあなたにとって命の恩人よね?」
志得が不敵な笑みを浮かべる。
「そうだな。感謝している」
本来なら秋音は死んでいた。正確には、死んでいたところを弾丸が秋音にあたる直前に時間を巻き戻してもらった。志得の【時間操作】の能力によって。
(何を企んでいる?)
そう思いながら、感謝の意を述べた。
「私のお願いを聞いてほしいの」
隣に目をやると、さっきとはうってかわって、真剣な表情で志得はこちらをみつめていた。
志得のそれは、企みを含んだ笑みよりも怖い。秋音は何を言われるのだろうと、ごくりと唾をのんだ。