50話
ピタ、ピタ
水を踏む音がする。
誰かが水溜まりを踏んでいるのだろうか。
こんな場所に来るのはきっと彼だろう。
私はそう思うのに、思うように体が動かない。
早く起きて彼を迎え入れないといけないのに。。。
もどかしい、私の体。
どうして動かないの?
『おいで、こっちに。お嬢さん。』
誰かが肩に触れてくる。
どうして嫌じゃないの?
彼ではないのに。
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カーテンから差し込む光が瞼にあたり、光に反応して恵は目を覚ます。
残暑はあるものの朝と夜は過ごしやすいために冷房を付けなくても
薄い掛け布団1枚で寝ている彼女はそれを避けて起き上がる。
うーん
両手を挙げて大きく体を伸ばすと体のどこかで
ボキッ
と音がする。
「うっ、やっぱり慣れないことはするものじゃない。」
その瞬間、恵は肩と背中を押えて呻く。
運動神経は良くても音に合わせなくてはならないことと、自由に動かせず決まった型で動かないといけないことの二重苦を強いられて四週間、今日がその本番だ。
成果を発揮する日なのに、恵の体はすでにボロボロで、ストレスが溜まっているせいか、毎月来るはずの生理も来なくなっている。
それが理由かはわからないが、寝ていても疲れが取れないし、朝起きても今のように体が凝っていて怠さもある。
「ふぁ、眠い。」
そのうえ、眠っても眠っても寝足りない。
「おはようございます、恵さん。体は大丈夫ですか?」
コンコンとノックをしてドアは開けないままにドア越しで瑛斗が声をかける。
こんなに苦しんでいる恵とは違い、瑛斗のほうはわずか1日でダンスを覚えてそれ以来、練習はせずに全体で合わせる時のみ参加している。そのほかは、恵がなかなか上達しないので、彼が付きっ切りで練習を見ることが主に彼の役目だ。
なんといっても、恵はわずか2日でダンスを考えて教えてくれる指南役の3年の先輩女子から匙を投げられるほどに酷いリズム感の持ち主だ。
それを全体で通しても全く違和感ないほどに四週間で仕上げた瑛斗の指導力に恵の実力を知る先輩たちは驚いていた。
「今、行きますよ。」
「わかりました。下で待っています。」
恵の返事を聞いた瑛斗が階段を下りる音がする。
それが聞こえなくなってすぐに体操服に着替えて鞄に今日必要なハチマキと日焼け止めが入っているかを確認し、それを持って下に行く。
瑛斗が作る手の凝ったと一目でわかるほどの気合が入った弁当を見て思わず恵は感嘆の声をあげる。
「なんでこんなに力が入っているんですか?ダンスを教えてくれる時も結構熱血になっていませんでした?桜井さんはそんなにイベントが好きなタイプではなかったと思うですが。」
「そうですか?僕は結構イベントは好きですよ。」
「そうですか。」
別に彼に対して疑念を抱くわけでもなく、ただ、この数か月でイベントをいくつか経験していたが、瑛斗がここまで舞い上がっている様子はみたことがないので、恵は彼に尋ねただけだ。
それなのに、彼は一体何を勘違いしたのか、彼は正直に言うように努めているように見える。嘘を吐いたら命が脅かされる、と思っているほどに。
「そんなに必死に言わなくてもいいですよ。私は別にあなたに何かを期待しているわけではありません。ただ、力の入りようが伝わってきたのでとても驚いただけです」
恵は自分が発した言葉で、なぜか悲しそうな顔をする瑛斗に対して疑問は浮かんだが無視して弁当を鞄に入れる。
「さて、行きますか。」
朝食を摂って、さあ、玄関から出るぞ、という時に、恵はいつもと違って一息吐き自分に対して気合を入れる一言を発する。それを後ろから見ていた瑛斗から噴き出したような小さな息使いが聞こえる。それすらも今の彼女には苛つきなど浮かばないほどに緊張しているのだ。
体育祭は学校の一大イベントであり、この日はたいてい家族が見に来られるようにと配慮されて土曜日開催が多く、学校関係者以外の人たちも自由に学校内に入ることができる。体育祭と並んで有名なのは文化祭であり、体育祭と続けて実施される学校もあるが、恵が通う学校では1か月遅くに文化祭が開催されることになっている。
体育祭の時、グラウンドには各色、赤、青、黄の3色それぞれの色のテントが並べられ、その向かいには実行委員と教師たちのテントが配置される。それ2つを結び中心部の競技スペースを囲むように、ちょうど円形になるように配置されるテントが生徒の家族が座れる場所になる。
ただ、高校生となれば、あまり親が応援に来ることはなく、9月で涼しいので熱中症もなることはないだろう。特に太陽が出ていても雲がたまに日の光を遮るようなこの日はなおさらだ。
それでも、熱心な親はいるもので、恵はそのテントに座っている親族が予想より断然多いことに驚く。
ちなみに、恵は赤色なのだが、それが親族テントと近い距離、つまり4色の端の片側に位置しているので、なるべく彼女はテントに入らないようにして校舎内で隠れようと朝の時点で考える。
体育祭での出場種目である100メートル走は午前中の頭から2番目であり、恵にとっての最大の山場であり、生涯の黒歴史になるだろう応援合戦は午後一だ。つまり、午後のほとんどは彼女にとっては自由時間になることを示している。これまで通り目立たず、そっと閉会式まで校舎のどこかで見つからずにいられれば良いのだ。
しかし、開会式が終わってテントに入った時にそれが困難なことだと彼女は思い知らされる。なぜなら、今までとは違い瑛斗《番犬》の存在があるからだ。彼はどこにいても目立つ、つまりは広告塔のようなものであり、恵にとってはこういう日は特に不用品以外の何物でもない。
「桜井君、これ渡しておくわね。」
「桜井、今日応援合戦頑張れよ。」
「そうそう、明日はお疲れ様会的なものをするから出席しろよ。先輩たちから誘われたから。」
いつものように囲まれている分にはいい。恵は隣が騒がしいことには慣れているうえに、そのほうが瑛斗の注意が分散されて彼女への意識が薄まるからだ。しかし、この日に限って彼はいつも以上に恵の横を離れないようにと注意しているのだ。まず、恵との間に女子生徒が入ってこようとするのを阻止するためにさりげなく恵との距離が近く無理に入ろうとする女子は手で退かしている。それには、女子生徒も諦めたようで彼の三方向を囲むようにしているのだが、その際は必ず恵へ睨みが来るのだ。恵は幸い俯いているので目を合わせることはないが、体のあちこちに刺すような痛みはテントに入った時から感じている。
「ま、かっこいいわね。」
「あら、どこかのモデルか俳優かな。」
「あんな子がいるなんて知らなかったわね。」
それに加えて、親族用のテントが近いために彼らの視線も瑛斗の方に向かっているので、倍の視線が瑛斗へ向けられその分隣にいる恵にも少しは影響してくるのだ。
レイドリックも同じように注目の的になるはずなのだが、彼は出場種目が多いためにほとんどテントに戻ることはない。戻るとしても午前の途中の1時間ほどであり後は競技スペースで活躍している。
そういう意味では、彼は通常ヒーロー的に注目される。今、最初の種目でも期待通りの活躍を見せており、脚光を浴びている。
「うん、普通はあれだな。」
恵は自分が偉くなった脚本家のように呟く。




