104話
恵は頭から古い木の壁に突っ込んだ月姫を心配して様子を見ようとしたのだが、彼女のお腹がその時にドクンと脈動するのが見えて足を止める。彼女が飛んだことでお腹も一緒にそちらに動いたのだが、床に落ちてはじく反動とは明らかに別のものだ。
「桜井さん、今、動きませんでした?」
「はい、動きました。」
「もしかして、もうすぐ生まれます?」
「おそらく。お腹の中から力が感じられますから。それも、少し大きくなったような気がします。」
『おそらく今晩だろう。』
隣にいる瑛斗に恵は顔が引きつくのを感じながら尋ねると、彼は推測を述べるが、彼女の肩に乗っているクモさんは断言する。
「ええ!子供って産んだことがないので知らないんですけど、こんな場所で生まれてもいいんでしょうか?」
『気にするのはそこか?』
「他に何を気にしろと?」
『いや、もうちょっと気にするところがあるだろう。こいつのお腹にいるのは人を養分としているんだろう?』
「あ!」
恵はクモさんから言われて初めて気づく。
「そうでしたね。まあ、生まれてみたら食べ物も口にしてくれるかもしれませんから、今はどうでもいいです。まずは、誘拐された人たちの捜索ですね。同級生らしい人は見つかったから周辺探しましょう。」
恵は瑛斗以外にも秋元教師とレイドリックも見渡して言うのだが、すでに後者の2人はウロウロと他の場所を探している。そして、すぐに神隠しとされていただろう人たちは見つかり、彼らはやせてはいるが、誰一人として命に別状はない状態だ。月姫が子供のために人の何を養分としていたのか、恵にはわからないでいる。
「クモさん、さっき”養分”って言ったけど、あの人たちの命を取ってはいないみたいですよ。一体、何を取っていたんですか?」
『記憶だ。』
「記憶?」
『そうだ。あいつは愛した人との子を身ごもるための体になることはできるが、その子供が人でなくてはならないと考えた。あいつはおそらく子供を産んでも人の中で生きさせる気だったんだ。そのためには人らしい記憶がいる。あいつが生む子供は最初からほぼ成長した姿で生まれてくるからな。そこに獣としての記憶だけでは生きてはいけないだろう?』
「確かに、そうですね・・・・て、生まれてくるのって赤ちゃんじゃないんですか?」
『もちろんだ。この腹の大きさからわからないか?もともと、我らは年を取らないからな。人と混ざったところでそうだろう。なあ、悪魔。』
クモさんの問いかけは瑛斗に向いていると思ったが、答えたのはすでに誘拐された人の保護を終えて戻ってきた秋元教師だ。
「そうだね。確かに、俺らは最初から子供の姿だ。瑛斗もそうだしな。赤ん坊から完全に成熟するまでは母親の胎内から養分をもらうから。」
「そうなんですね。」
恵は相槌をうつ。
のっそりと壁に頭を突っ込んでいた月姫がやっと起き上がる。
「月姫様、おきましたか?」
『ええ、何がどうなったの?頭が痛いわ。』
「それは大変ですね。天災によって、あなたは壁まで吹っ飛ばされたんです。子供は無事ですよ。」
『そう。』
あれだけ最新の注意を払って子供に関しては何とか取り繕っていた月姫だったが、今見せるのは興味を失せた他人ごとのようだ。
「今晩にも出てきそうです。よかったですね。」
『そうね。よかったわ。』
恵は慰めのつもりで言うと、彼女は心ここにあらずと言った状態でつぶやき、そして、
ポタ、ポタ
と涙を流す。
これには恵は驚き焦る。こんな風に気遣ったことがないので、傍から見れば彼女は妊婦の女性を泣かせている非道だという扱いを受ける。そんな思ってもいないことになりたくない一心だ。
「あ、あの、そんなに泣かないでください。えっと、もしかして、お腹が痛いですか?私がさすりましょうか?」
恵がなんと声をかけても彼女はただ顔を上げて固まったまま涙を流し続ける。彼女の中で何かの感情が流し切っていて、何かと戦っているように恵には不思議と見える
そんな様子を見ていたら、恵はもう取り繕うことは止めて、月姫に今思っていることを聞かざるをえない。
「月姫様はどうしたいんですか?本当に、子供を産みたいんですか?本当はもうご自身でわかっているのでは?時代がすでに違うことも、あなたが愛した人はもうどこにもいないことも。」
『・・・・そうね。わかっていたわ、、、この体を借りたときから。』
恵は月姫の後悔をにじませた声音に笑みが出てしまう。不謹慎と言われるかもしれないが、彼女の表情と感情が一致したものを聞かせてくれたことが恵にとっては喜びだ。
「あなたの本体は?」
『元からないもの。私は人ならざるもの、すでに私は人から忘れ去られているわ。でも、私にはそういうものたちが持っていないはずの無念が強かったから魂はまだ残り、ある人と出会ったことで死体を動かす方法を覚えた。そして、夢を見たわ。』
「その人はどこに?」
『さあ?私にはもうどうでもいいことよ。でも、その人によって体を手に入れ、他に収集してくれる人とのつなぎもできたわ。お互いの利害の一致だった。まあ、私がその人間の感情を大きくしたというのもあるけれど。』
「そうして、1年前から実行し、子供はすでに臨月。」
『そうね。これが最初で最後の機会。私は躍起になっていたけれど、本当はもうどうでもよかったわ。だって、あの人の想いは私には向いていなかったもの。もう、いいの。子供もね。本当は未完成なの。』
「未完成?」
思いがけない月姫の言葉に恵は驚く。
「どういうことですか?」
『子供の成長に必要なものを知っている?』
逆に質問されて恵は戸惑うが、先ほどのクモさんの答えを思い出す。
「記憶ですよね?成長スピードが違うから人の世界で生きるなら人の記憶がいると。」
『その女郎蜘蛛のつがいから聞いたの?』
「はい。」
月姫は恵の頬に手を当てる。やっぱり腐敗臭がして、それが死体だと彼女はそこで納得する。
『そうなのね。でも、それでは不完全よ。本当は人の肉も入れる必要があるの。私の中では人の体も血も生成できないから。悪魔ならできたんでしょうけど、私にはそこまでの創造能力もないし、この体は死体だったから生殖能力もないわ。だから、私個人の力を使ってあの人ではない誰かからの子種をもらい、そこからあの人をイメージして皮を作った。そこに入るはずの肉や血は他人からもらわなければならない。それが、私にはできていない。このお腹にいる子供はただの皮よ。』
「でも、ここまで育っていますよ。」
『もともと、この大きさなの。成長とは違うわ。それに、私にはもう力が残っていない。あの人から火を放たれた後、異能の使い手に深手を負わされても、私は恨みであの人もその縁者たちは一掃した。その際に力を使いすぎてね。もう、私には大きな力は残っていない。』
月姫は言い切ったと満足げにほほ笑んだかと思うと恵を見上げ、手を恵から放す。
「何が望みなんですか?」
『もう、疲れたわ。あの人にしがみ続けることも、いろいろと考えるのも面倒。あなたには子供の始末をお願い。それと同時に私は最後の力を使ってこの建物を壊すわ』
「それでいいんですか?」
『ええ、いいの。』
力なく彼女は頷く。
恵は目の前の女性の望みをかなえられる保証はなかったが、それでも彼女には幸福であってほしい、と願う。恵は相手を想って初めて涙を流す。
「どうか、最後にあなたが見る夢が幸せなものであるように。」
恵はつぶやき目をつぶる月姫を抱きしめる。
彼女たちを薄い黄色の光が膜のようになって包み込む。
心地よいまでに温かい、天のような心地の場所の中、月姫は少しずつ体が粒子になり、そのまま魂ごと空気の中に溶け込んでいく。
「お休みなさい。」
恵はそれを見送って別れを告げるのだ。
月姫の子供だと思っていた皮は脈動と思った心臓だけが動いていたが、母親の胎内にいられなかったことで、その鼓動はすでに止まっている。心臓部分だけ形成された皮からはすでに力は無くなっており、瑛斗によって炎に焼かれそのまま灰になる。
悲しい恋の物語はこうして幕を閉じる。その台本を書いた人物はわからないまま。




