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Heart  作者: 洋巳 明
9/12

8話 最後の猶予期間


 忠直に連れられて向かったのは『異能対策局』。その隣にある罪を犯した『異能者』が送られる収容所だった。

「……まだ、杉崎勇気に用があったんですか?」

 宵人によって軽症で済んだ“ラパノス”の幹部3人は拘束されたのち、収容所に送られたはず。一巳からそう聞いていたのだ。

「いや、違う。お前にとってはもっと懐かしい顔だな。」

 懐かしい。そう言われてもあまりピンとは来なかった。しかし、通された部屋で待っていた男を見てあっと叫ぶ。


「あなたは、水原、壱騎さん?」


 水原みずはら 壱騎いちき。忠直の元相棒で、4年前の事件の黒幕でもあった男である。兎美と忠直は、彼によって出会わされたと言っても過言ではないだろう。

 あのときよりも髪が短くなって、手には手錠をかけられている。兎美を見て彼は気まずそうに目を逸らした。

「久しぶりだな、壱騎。……“嘉七”が目覚めたぞ。」

 忠直が淡々と告げると壱騎の顔色が変わる。元は『特務課』の職員であった彼も、“嘉七”によって人生を狂わされた1人。あの事件がなければ妻子とともに幸せに暮らせていただろうから。

「お前の力が必要になった。事情は、もう説明しなくていいな?」

 どうやら壱騎には既に何かしらの説明をしてあるらしい。兎美は静かにこの2人の邂逅を見守った。

「……ああ。わかってるさ。」

 事件当時よりも声のトーンが落ちている。壱騎は暗い表情のまま兎美に目を向けた。

 暗い、怯えたような目。それを見ていると沸々と湧いていた怒りが兎美の中で鎮まっていく。彼がここにいる原因の一端を兎美は担っているから。

「だけどその前に。」

 じっと壱騎の様子を窺っていた兎美は身構える。何をする気だ。そんな彼女に対して壱騎が深々と頭を下げた。

「……すまなかった。君には本当に謝らなければいけない。」

 あの事件についてだろう。当時、兎美は巻き込まれただけであった。あれがなければ忠直とは出会えなかったが、それでもあのときは死にかけたり散々な思いもしたのだ。

 しかし、壱騎もまた、嘉七の被害者である。それを思うととても罵倒などもできない。だから、萎れてしまったこの男性に兎美が今更かけてやる言葉は持っていなかった。でも。

「…………あの事件に関しては許しませんよ。だけど、私が彼から逃げたせいであなたの人生を狂わせたことは謝らないと。……すみませんでした。」

 兎美も返すように頭を下げる。壱騎は忠直から事のあらましを聞いているのか黙ったままそれを受け取った。

 その間に何かしらの用意をしていた忠直が壱騎の手を取る。カシュッという軽い音とともに手錠が外れた。それを皮切りに壱騎が口を開く。


「それじゃあ、やるぞ。」


 何をするのだろうか。そうきょとんとした兎美の左の手首に激痛が走った。いっ、と呻きつつこの感覚には覚えがあることに気づく。もう今となっては随分と懐かしい。

 手首を見ると赤黒い印。見るたびに顔を顰めていたはずのそれに、兎美は思わず微笑みを向けた。忠直の気配をより近くに感じる。彼の右手首にも同じ印があった。

「……物好きだよな。またあの状況に戻りたい、だなんて。」

 壱騎は呆れたようにそう言って、自ら忠直に手首を差し出す。先程とは違うタイプの手錠をつけられながら彼は笑った。

「俺にはお前ら物好きの考えはわかんねえけど、ケリつけてくれんなら何でもいい。」

 確かに忠直の意図はまだ読めなかったが、間にぶら下がる鎖の感触はもう嫌なものではない。兎美は感慨深げに手首を眺めた。

 忠直が看守に合図をすると、彼らは壱騎を連れて行く。そのまま、と思ったが壱騎がふと立ち止まって言った。

「…………ナオ、唯子のこと、よろしくな。」

 それに対して忠直はため息で返す。まるで、そう言われることを予想していたかのように。

「お前に言われずとも。だが俺は壱騎の尻は拭わない。……てめえのケジメはてめえでつけろ。」

 最後の一言は非常に厳しい口調。だけど壱騎は忠直の相棒の顔で笑って、そのまま去って行った。



「さて。説明が必要だな。」

 2人は『特務課』の事務所にいた。これで大体の準備は終わったらしい。忠直が淹れてくれたお茶を啜る。相変わらず、美味しい。

「嘉七を消滅させる方法としては早岐の宝銃を使う。ただそれだけ。非常にシンプルだ。しかし、それをやるにはお前の中の“さくら”の『力』全てを注ぐことになる。」

 兎美の内部には2つの『力』がある。違いは微妙だが、連綿と受け継がれてきた“さくら”の『力』と兎美自身が生まれ持つ『力』。このうちのさくらの『力』を撃ち込むことでたぶん、嘉七は満足するだろう。『力』の塊となっている彼と対になるように、さくらの存在を保っているのもまた、その『力』であるから。

 しかし、問題が1つ。それをすると兎美の生命を維持できなくなる可能性が高い。『力』不足になってしまうのだ。

「お前が死んで解決するなんて論外だ。そこで、こいつが役に立つ。」

 忠直が右手を上げた。そうして示された手首には“見えない鎖”が繋がっている。これは水原壱騎の『異能』。兎美と忠直、両方の『力』が流れ込むことによって形を維持するという、4年前は苦戦を強いられた『異能』である。

「俺もお前も、互いの『力』を共有できる。この『異能』のおかげでな。だから、旭が全てを投げ打ったとしても俺が命綱になれる。多少、不便ではあるが。」

 鎖をつけられた当初は兎美が倒れたりすることもあったというのに、それを逆手に取れるようになったのはなんとなく面白い。

 だが、それでは忠直の方が『力』不足になるのではないだろうか。

「そのための準備はしていた。この手袋は『異能』の制限ができるんだ。俺の中にはお前の『力』が蓄積されていてな。俺は2年間、それを無駄に放出しないようにこれをつけるように心がけていた。」

 それはとんだ杞憂だった。彼が準備していないわけがない。兎美は小さく笑ってわざとチャリチャリと鎖を揺らす。本当に懐かしい感覚だ。忠直が傍にいる。その事実は不思議なほどに心強かった。

「ふふ、ナオさん、本当に私が戻ってきたときのために万全の体制を整えてくれていたんですね。」

 顔を上げると忠直と目が合う。彼は兎美にフッと笑い返して答えた。

「ああ。旭の帰りを心待ちにしていた。きっと、誰よりも。」

 思わずう、と呻いてしまう。彼の向けてくれる真っ直ぐな目に混じる想い。仕方がないのだろうが。

「……ナオさん、あの、ひょっとして、本当に待ってくれていたんですか?」

 不粋だと思いつつ訊かずにはいられなかった。忠直は苦笑しつつ正直に答えてくれる。

「お前のいない間に三十路を迎えたが、独り身だよ。」

 直接的な口説き言葉を入れてこないのは彼なりの気遣いだろう。心苦しいような、ありがたいような。

「じゃあ、急いでカタを付けないと。私、御厨くんが押さえてくれていたとしても、ナオさんに迫られたら断れる気がしないんで。」

 冗談めかして言うと嬉しそうに微笑んでくれる忠直。その視線から気持ちは同じであることが伝わる。

 詰まるところ、忠直との関係なんてなんだっていいのだ。恋人だろうが、親友だろうが、相棒だろうが、全部彼とならば。

「ああ。早く何の憂いもなくお前との再会を喜びたい。宵人も、きっとそう望んでいる。」

 同意するように兎美は頷いた。惣一によると、宵人の負った大きな傷は治したものの、彼に目覚める兆しはないという。

 それは、たぶん黒川唯子くろかわゆいこという9年前の事件からずっと眠り続けている『特務課』の職員と同じ理由だろう。“嘉七”の『保存する異能』に囚われ続けているのだ。彼を倒さなければ、彼らは目覚めない。飲み込まれる際に抵抗した宵人に関してはその間に命を落としてもおかしくない、と。

「嘉七のところに乗り込むのは3日後だ。久しぶりのこの感覚にも慣れておきたいし、何より宝銃は撃ち慣れておいた方がいい。明鈴には負担をかけてしまうな。」

 1人、病室で夫の不在に耐える彼女の背中には込み上げてくるものがある。なるべく早く、彼女の元に宵人を返してあげたい。

「……だがこれでお前の呪いも、俺の憂いも無くなる。全部終わらせて、これ以上は食い止めるぞ。」

 兎美はもう一度、力強く頷いた。

 



 今、忠直とは色っぽい関係ではない。そうわかっていてもなんとなく緊張してしまった。

 彼の家に足を踏み入れるのは随分と久しぶりで、“独り身”と言ってくれたとはいえなんとなく変わっていないかどうか、怖い。

「どうぞ。」

 玄関は全くと言っていいほど変わっていなかった。女の靴の一足や二足覚悟していたのにその様子はカケラもない。

「……お邪魔します。」

 忠直に続いてリビングに入る。……全く変わっていない。驚いた兎美は思わずぽかん、と口を開けてその場に立ち止まってしまった。

 忠直は苦笑しつつ、ぐい、と右手を引く。鎖に引っ張られてハッとした兎美はキッチンの方に入ってきた。


「その、何にも変わってなさすぎません!?」


「変わってて欲しかったのか。恋人の不在時に遊びの1つや2つできない男はつまらないか?」

 

 スーパーで買ってきたものを冷蔵庫に押し込みながら忠直は少し拗ねたようにそう言う。彼は何と答えようもなく口籠った兎美の頭にぽんぽんと手を乗せた。

「安心しろ、この2年、お前の知り合い以外の女性はこの家に入れていない。」

 それはどういう断りですか。聞きたくなったがそういうのは終わった後にしよう。兎美は開きかけた口を閉じて忠直が料理をするのを手伝った。


「一緒に食事をするのも2年ぶりだな。」

 今日の晩御飯はタンドリーチキンとポトフ。ごろごろと大きめの野菜の入ったとろとろのポトフは相変わらず美味しい。

「相変わらず料理上手ですね。こっちに来てから明鈴さんや夕鈴さんの料理で結構舌が肥えてたのに、美味しい。」

 口に運びながらニコニコと微笑むと忠直も嬉しそうに笑んでいた。久しぶりのはずなのに、そんな感じがしなくて。まるで2年前の延長上にあるようだ。

「あの2人は料理上手だからな。そうだ、夕鈴の方は今も昔もレシピに忠実なんだが、最近、明鈴には少し変化があった。」

 へえ。食べながら兎美はどこか嬉しそうに目を細める忠直を眺める。彼は、この2年で随分と落ち着いた。穏やかさに柔らかさが加わった感じ。

「宵人の好みに合わせて作り方を変えているらしい。……あの2人は本当に仲がいいんだ。」

 それは兎美も感じたことだ。明鈴のフリをしていた夕鈴の料理は精密なお店の味がした。だが、明鈴の方は完全に家庭料理の味でいつも淡々としている彼女から考えると意外だな、と思ったりしたのだ。

「ふふ、素敵ですね。御厨くんが起きたら馴れ初めとか聞いちゃおう。」

 彼らの出会いを知らない兎美は呑気に笑う。それに対して忠直は、大変だったんだぞ、と顔を顰めた。

「それに、杷子ちゃんと蓮さんも何かあったんでしょう?柴谷くんも頼もしくなっていたし、早岐くんも、こう、ぐっと落ち着きましたよね。」

 さくらであったときに感じたことをぽんぽんと口に出すと、忠直は部下の成長や変化を喜んでいるようだった。この2年、兎美がいなければいないなりに実りはあったのだろう。家に入ってきたときにも思ったのだ。2年間、忠直は決して寂しく過ごしていたわけではない、と。

「ねえ、ナオさん。2年間、何してたんですか?どういう楽しいことを見つけました?全部、聞きたいです。私も話すから。」

 それを知りたいと思った。嘉七に挑むまでまだ3日ある。鎖に繋がれていると窮屈で、でもそれでいて忠直のことをより深く理解できるから。

「……ああ。聞いてくれるか?」

 普段多弁ではないくせに話し上手な忠直の声に耳を傾けながら、夜は更けていくのだった。




「よっ、お兄さん。1人酒なんて寂しいじゃないですか。」

 そこは、とあるビルの屋上。市の中心地から外れたところにあるここでは星が見える方だ。

 隼人は1人、瓶を片手に遠くの街の輝きを眺めていた。彼に後ろから声をかけたのは一巳だ。

「……宵人に俺の世話まで頼まれてた?」

 少しだけ煙たそうに応じる隼人。1人で感傷に浸っていたかったのだろう。まあ、わからなくもない。

「いいえ。俺とあいつは予定調和なんてしてませんよ。ただ、いつも、相手のして欲しいことをしてるだけ。」

 一巳はカシャン、とフェンスに背をもたれかけさせる。その手に持っているのは煙草の箱。1本だけ取り出して火をつけ、そしてそのまま煙だけを垂れ流す。


「吸うわけじゃねえのかよ。副流煙の方が健康には悪いらしいぜ?」


「はは、お生憎あいにく様、俺はこんな贅沢な身に余るもん好みませんよ。これは線香代わり。」


 線香。そしてこの場所。隼人はケッ、と言ってまた街の方に目を向ける。

 ここは、宵人と隼人の父親が亡くなった場所。一巳も隼人も大体同じ目的で来たのだろう。

「……まあ、俺は神様なんて信じてないんで、あいつの親父殿に拝んでおこうかなぁって。」

 一巳はそう言って、ゆっくりと星の瞬く空を見上げる。


 『宵人を連れて行かないでくれ。』


 そう祈るために2人ともここに足を運んだのだ。別にご利益なんて信じていない。だけど、何もせずにはいられなかったから。

「…………飲む?」

 隼人が瓶を差し出す。一巳はへらりと笑ってそれを断った。

「贅沢なお誘いですね。だけど、俺はよいっちゃんと飲みたくて飲んでる性質なんですよ。だから、俺も今は禁酒中。」

 顔を顰める隼人。なんというか、本当に隣の男は読めない。自分よりもよっぽど蛇が似合う男だ。

「……アンタさあ、どうして宵人にそんなに執着するわけ。あいつ別に特別な人間でも飛び抜けて優秀な人間でもないぜ?たぶん、アンタに合う人間なんて他にも山ほどいるんじゃねえの?」

 これは、以前からわりと思っていたこと。宵人に訊いたときはめんどくさそうに同じ課に配属されたから、と答えられた。だがそれだけにしては2人の絆は深い。それが、どうしてなのか。

「へえ、合う、合わない、ねえ。お兄さんは人を損得勘定で判断すんの?意外だなあ。」

 じぃ、とこちらを見定めるような目。取り調べを受けたことがあるので隼人はウッと萎縮する。隠し立てを許さない一巳という男は少々苦手な手合いなのだ。

「……俺、憧れてんだわ。ああいうお人好しに。一生なれねえし、なるつもりもないけどあいつの隣にいれば俺は自分のことを許せる。」

 しかし、その言葉にはそんな底知れないはずの彼の『底』が在ったような気がして。思わず表情を窺うと、彼はしんみりと微笑んでいた。

「合う合わないとかいう話じゃないんですよ。あの素朴な優しさが俺を人間にしてくれる。だからアイツと一緒にいる。ただ、そんだけ。」

 一巳の過去は流石に知らない。知っているのはせいぜい予見家と関わりがあることくらいだ。だけど、彼の変に落ち着いたところやこなれた気配は、1つ歳を食っているだけの自分よりも深い人生経験を匂わせる。それを救っているのが自分の弟なのか。

 ふうん。そこまで興味のない体を装って、隼人は口を開いた。なんというか、踏み込むと眩しさに焼き殺されそうだったから。

「…………弟と、いつも仲良くしてくれてありがとな。」

 隼人がいない時間を埋めたのは一巳だ。そして、彼は絶対に宵人を裏切るようなことはしないのだろう。それはなんとなく隼人にとっては眩しい関係で。

「は?あんたに礼を言われることじゃねえよ。……前々から思ってましたけど、変な責任感とかいらねえからあんたはあんたの人生を生きろよ。俺は俺のためにあいつと一緒にいる。」

 一巳の言葉に隼人はぶはっと吹き出した。お人好しになるつもりもない、と言ったわりにはだいぶお人好しな一言。まるで、宵人の言葉のようだった。

「ああ。肝に銘じておく。」

 悪くない夜だ。月が青くて、静かで。

 一巳は煙草が燃え尽きた後、義姉の様子を見てくる、と言って去っていった。


 

 風呂上がりのふわふわとした多幸感に包まれながら、兎美と忠直はベランダに立っていた。食事中の歓談と打って変わって、しんみりとした雰囲気。2人とも何も話さない。

 夜の空には星が輝いていた。街並みはこの2年でほんの少し変わってしまったが、ここから見上げる空は変わらない。4年前の共同生活の際、兎美はここで忠直に晩酌に付き合ってもらうことがあったりした。今日は2人とも何も持っていないが。

「……ナオさん、大丈夫ですか?」

 忠直があえてそのことに対して強い言葉を使うようにしていたことには気づいていた。本当はきっとずっと苦しんでいるのに、見せないように。

「…………うん。わりと痛い。俺は、何もできなかったから。」

 あの瞬間、あの場で嘉七の急襲に対してまともに動けたのは宵人ただ1人であった。仕方のないことである。だけど、1番悔しいのは忠直だろう。彼が間に合っていれば、宵人が昏睡状態に陥ることはなかった。忠直はまた手を掴み損ねたのだ。

「……宵人がああいうときに動ける人間であることには気づいていたんだ。そのために手を打っていたはずだった。それなのに、俺はまた取りこぼしてしまった。」

 深い後悔が染みた言葉だ。嘆いていても嘉七は消えてくれない。宵人を犠牲にしている以上、忠直は弱音を吐いてはいけないのだろう。

 だけど、そんな我慢をしていたから9年前の事件の後、彼は押し潰されてしまった。そのせいで、4年前にも存在ごと消えようとしたこともあった。

 兎美はそんな彼をもう見たくない。仕事から離れたときくらいちゃんと弱さを吐き出しておいてほしい。

「誰も死なせたくないと言いながら俺は守られてばかりだ。……本当に、情けない。」

 彼の弱さを否定することはしない。だけど。

「御厨くんは信じてますよ。私たちのことを。」

 明鈴が用意したあの空間で会った彼はひたすらに落ち着いていた。あれは、死への覚悟によるものもあるだろう。だけど、それだけではない。仲間たちを信頼していたのだ。自分が倒れようと止まる人たちではない、と。

「彼は、毎朝奥さんの髪を結うんです。産まれてくるのが娘さんだから、朝の支度を手伝えるように。お子さんの性別がわかった頃からずっと続けているからもうかなり上手になってて。」

 共に生活していたのだからわかる。宵人は誠実な彼らしく、一心に明鈴を愛していた。彼女との子どものことも。あの空間には彼が不可欠だ。

「帰してあげないと。彼の愛する人たちのところに、ちゃんと。」

 忠直は兎美の目を見た。それははどこまでも強い。宵人が死ぬことなど微塵も考えていない顔だ。

 忠直は小さく息を呑んで、苦笑いと共に頷いた。こいつは、本当に頼もしい。

「私、最初は自分が死ねば全て済むと本当にそう思ってました。」

 兎美には後悔したことがあった。自分が死んでいれば、嘉七はあんなにたくさんの犠牲を生むことはなかっただろう。ただ1人の命と複数の命。天秤にかけると重いのは。そう考えて悲観していた。でも、今は違う。

「だけど、違う。私の代に起こってしまっただけで、これはいずれ起こりうることだったんです。嘉七さんが今よりもっと強くなってしまうと誰も対処できないことになるかもしれない。だからこそ、御厨くんは命を賭けてくれた。」

 代を重ねるごとに強くなるのはさくらだけではない。嘉七もまた、強くなる。

「だから、ナオさんには本当に申し訳ないんですが、私は9年前に死ななくてよかった、そう思っています。」

 この言葉には少しくらい嫌な顔をされると思っていたのだが。忠直は笑って、兎美の頭をくしゃりと乱した。

「それは申し訳ないことではない。俺もそう思っている。1人だけ生贄にすれば済む話ではない。そんな危ういことを続けてきたのがいけなかったんだ。」

 久しぶりに頭を撫でられている気がする。こんなに心地よかったっけ。兎美は好きなようにさせながら忠直の声に耳を傾けた。

「2年前、蓮から『般若の面』に伝わる手記を手渡された。その中には“嘉七”を殺したという旨の記述があった。」

 初耳だ。兎美は目を見開く。

「新しい情報になるようなものではなかった。嘉七をただ殺すだけではいけないことが確信に変わっただけ。その代の頭目は“さくら”を助けるために“嘉七”を殺したがそこに死体は残らなかった、そう書いてあった。」

 確か、今世も同じようなことが起こっている。9年前に一度、“嘉七”は忠直に射殺されている。そのときも死体は残らなかった。

「そして、その一年後、“さくら”は死んだらしい。蘇った“嘉七”によって。……きっと、その時点で対処をしておくべきだったんだ。そのときはまだ“嘉七”に強大な『力』はなかったのだから。」

 そのことを考えると、兎美にまで今までのツケが回ってきている。だけど、今世は味方が多い。終わらせるなら好機だ。

「……そのことは今となってはたらればでしかないがな。そういう点も考慮すると、俺たちはこれ以上嘉七を増長させるわけにはいかない。」

 忠直の目にもいつしか強い光が戻ってきていた。それを確かめた兎美は嬉しそうに目を細める。

「ありがとう、旭。いつも俺の弱音を引き出してくれて。」

 スッと頭の上から熱が引く。今はまだ、この程度。それにほんの少し寂しさを覚える。

「……だって、それが私の役目ですもん。」

 気恥ずかしさに負けそうになりつつそれだけ伝えると忠直が声を出して笑った。

 


 右手の重みに目を細める。ゆらゆらと鎖が揺れたのは兎美が隣の部屋で寝返りを打ったからだろう。

 忠直は時計を見る。そろそろ寝なければ。彼の体調は決して万全ではないのだ。打ち込まれた薬の副作用で毎晩毎晩ひどい夢を見てしまうから。

 カサリ、と読んでいたものを封筒にしまう。“準備”と“覚悟”その2つが整っていれば十分だ。嘉七を消滅させれば兎美は自由になり、宵人は目覚めてくれるだろう。そして、唯子も。

 兎美は綺麗になっていた。自分の予想よりもずっと。髪の毛が伸びていたことで、記憶がなかったにも関わらずあの約束を覚えていてくれたのだろうか、と勝手に心が躍った。触れた蜂蜜色の髪の感触は、あのときのまま柔らかくて。何の縛りも憂いもなければ今夜は抱き締めて離したくなかった。

「……あれなら、十分だな。」

 忠直は呟いて微笑む。あんなに美しい女性が1人になったとて、放っておく男はいないだろう。きっと、兎美は自分とじゃなくても幸せになれる。

 ベッドに潜り込む。また、兎美が寝返りを打った。彼女は寝相が悪い。隣で寝ていた頃は何度蹴られたかわからないほど。それなのに離れると擦り寄ってくるから堪らなく可愛いのだ。

 この関係だけは自分のものだ。忠直は右手首の印を見て目を細め、ゆっくりと眠りに落ちていった。



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