7話 おかえり
どれくらい時間が経ったのだろうか。さくらは呻いた。
誰かの慟哭が聞こえる。かなり取り乱しているようだ。すごく嫌な胸騒ぎ。ゆっくりと目を開けると、目の前に広がったのは瓦礫の山々、それに。
「おい!!起きろ!……ッ、嘘だ。やめろ。目を開けろよ!」
それが隼人の声だと気づいたのは少し遅れて。取り乱しているのは彼のようだ。彼は一心不乱に誰かに向かって叫んでいる。
「やめろ。兄ちゃんを置いていくな!頼む。起きろよ、宵人……。」
宵人。その名前でハッとしたさくらは痛む体を起こす。
立ち上がって目に入ってきた光景は地獄の様相を呈していた。嘉七の『力』の放出の際に部屋は消し飛んだらしく、さくらたちは下の階に転がり落ちていたらしい。よく見ると傍らに、咄嗟にさくらを庇って怪我をしている忠直の姿もあった。それに、瓦礫に背を預けて肩で息をしている惣一。一巳や“ラパノス”の3人組の姿は見当たらなかった。先に救護されたのかもしれない。
その中で忙しなく動いている影。現場にいなかった杷子と円、それに総務課の職員たちだ。怪我人を運んだりその場で手当てをしたりしている。比較的怪我の軽いさくらと忠直は後回しにされていたらしい。
さくらはふらふらと隼人の方へ歩いた。ひどく嫌な胸騒ぎ。さくらの脳裏には、出かけに「いってらっしゃいませ」と微笑んでくれた明鈴の顔が浮かんでいた。
「ッ、うっ……。」
彼を見た瞬間、さくらは顔を引き攣らせる。宵人は、誰よりもボロボロであった。声をかけながら心肺蘇生をしている隼人の必死さが滑稽に見えてしまうほど。
彼が後回しにされているのは。最悪のパターンを考えてしまったさくらは青ざめる。きっと、違う。こんな状態だから下手に運べなかったのだ。そう自分を奮い立たせて、さくらも宵人の傍らにしゃがみ込む。
「……手伝います。」
既に汗だくになっていた隼人にそう声をかけると彼はハッとして、でも場所は変わってくれなかった。それはまるで、動きを止めれば宵人の息が止まっていることを認めなければならなくなることを怖がるようだった。
「……俺1人で、大丈夫、だ。もうすぐ、救護が、来る。それまでで、いいから。」
さくらの顔を見たことでほんの少しだけ平静を取り戻したらしい。隼人は淡々と、弟の心臓を圧迫し続けた。
本当はここは彼に任せて他の人の救護に回った方がいいのだろう。でも、なんとなく隼人を1人にすることが怖くて、さくらはそこに留まって宵人に声をかけ続けた。
『時刻は12時になりました。お昼のニュースをお伝えします。』
テレビからはそんな音声が流れてくる。正午のチャイムを背景にして。
宵人とさくらは昼ご飯は家で食べる、と言っていたので明鈴はキッチンに立っていた。バジルソースに漬け込んだチキンをそろそろ焼こうとしていたのだ。
ピリリリリリ ピリリリリリ
ふと、携帯が鳴った。チキンの入っている保存用の袋に手をかけていた明鈴はサッと手を洗って電話に出る。
「はい。どうしました?」
相手は一巳。そういえば彼も仕事のことで忠直に会いに来る、と宵人が言っていたような。
『……明鈴、落ち着いて聞いてくれる?』
それはいつになく真剣な声だった。明鈴の胸に不安が湧き上がる。頭の中に宵人のふにゃりとした大好きな笑顔が浮かんだ。
『宵人が意識不明の重体だ。今から、病院来れる?』
明鈴は目を見開いた。とても信じられないことだったから。つい数時間前には、甘いものが食べたいと言った自分のためにフレンチトーストを焼いてくれた夫が、意識不明の重体?
『……明鈴、明鈴?……明鈴、今の、聞いてた?』
「……すみません。もう一度。」
『……無理もねえな。詳しい話は後でする。とりあえず病院来て。』
ツー、ツー。それで、電話は切れた。あまりにも現実味がなさすぎて、明鈴はしばらくぼうっと立ち尽くす。昨夜、夫は自分が眠るまで頭を撫でてくれた。寝ていると思ってこっそりおやすみのキスをしてくれた。その感触は今でもきちんと反芻できるのに、彼は。
そのとき、ポコポコっとお腹を蹴られた。ハッとして自分の腹に目を向けると、ぐに、と中で動いている感覚。
『今、動いた!すごいなぁ、俺たちの“娘”、元気だね。会うのがすげー楽しみ。』
初めて胎動を感じたときの宵人の声が思い出されて明鈴は呆然としてしまう。幸せそうに明鈴のお腹を撫でて、いつもいつも産まれてくるのが楽しみだ、と笑っていたあの人が、あの声が、もう。じわじわと胸を嫌な感情が席巻していく。思わず膝をつきそうになってしまった。
すると、またポコっとお腹を蹴られた。まるでしっかりしろ、と言われているようで明鈴はハッとする。
「……ごめんね。お母さん、少し驚いただけですから。……一緒に、お父さんに会いに行きましょうね。」
自分を奮い立たせるようにそう言って、彼女は無理矢理笑顔を作った。
あの部屋にいた忠直、さくら、惣一、一巳、そして勇気、マスタード、ソウスの宵人を除く7人は軽傷で発見された。宵人の『異能』は嘉七の『力』を凌ぐに飽き足らず、落下の衝撃からも彼らを守ったのだ。
その引き換えに、宵人はギリギリ一命を取り留める程度にしか自分に『力』を割けなかった。彼は、意識不明の重体となる。
それでもまだマシな方だ。あの場におらず、嘉七の『放出』をモロに食らった面々は亡くなった。局は再び、嘉七の被害の対応に追われることとなったのだ。
嘉七はというと、一旦『力』を使い果たして消えた。行方は未だ、わからない。
さくらは、病院にいた。宵人は身内以外面会の許されない状況で、先ほど中に入って行った明鈴を隼人と共に待っている。
彼女はいつものように淡々とした表情で2人に頭を下げてくれた。非常に冷静なように見えたが、きっとそんなことはないだろう。
「…………俺、誰かがいなくなることがこんなに怖いことだって知らなかった。」
先程から項垂れたまま一言も発していなかった隼人が不意にそう言った。さくらはゆっくりと彼の方に目を向ける。
「これは、罰だ。あいつに全部押し付けて逃げた俺への罰だよ。こんな、こんなに酷いことをしたのに、俺は宵人に何もしてやれてない。」
床の一点を見つめたまま隼人が震えた。かける言葉が見つからなくて、さくらは目を伏せる。
「守るって、ちゃんと決めたのに。俺は、ほんと中途半端で、何にも守れない。……クソッ、こうなったのが俺だったらよかったのに!」
自分の太腿を叩きつける彼は見ていられないほど萎れていた。きっと、宵人以外では駄目だった。彼だからこそ、身を削ってでもみんなを助けられたのだと。さくらにはそれがわかっていたが、とても口には出せない。ぎゅっと唇を噛み締めて、何もできなかった自分に対して苛立つ。
「お2人とも、顔を上げてください。」
しかし、そんな2人の沈んだ空気を払うような凛とした声。ハッとして顔を上げると、中から出てきていた明鈴がそこに立っていた。
「あの人は死んでいません。だから、私は誰にも彼を悼むことは許さない。」
さくらは思わず明鈴の目を見る。彼女の目はいつも通り深くて、でも何かしらの覚悟を決めたようにブレない。
「……明鈴さん、どうして、そんなに強い目ができるんですか。宵人くんは。」
続きを咎めるようにさくらの頰に明鈴の手が伸ばされる。むに、と摘まれてきょとんとするさくら。明鈴は切なく微笑んでいた。
「私はあの人に救われました。幾度となく。だから、私も返さないと。」
違う。そう気付いたのはそのときに初めて明鈴の目が揺れたから。明鈴は必死に宵人の意思に徹しようとしているだけだ。そうしないと、挫けてしまうから。健気なそれに自分の情けなさが浮き彫りになって、さくらはほぞを噛んだ。
「行きましょう、さくらさん。宵人さんがお待ちです。」
くい、と明鈴に手を引かれる。え、と目を見開いたさくらはそのまま病室に引き込まれた。
中はしん、としていて静かだった。1つ置かれたベッドに横たわる宵人にはいろんな機械が繋がっていて、痛々しく包帯が巻かれていて。
そんな彼が待っている、とはどういうことなのだろうか。明鈴の方を窺うように見ると彼女は椅子を2脚、ベッドの脇に並べた。
「私の『異能』について、覚えていらっしゃるでしょうか。」
包帯の巻かれた宵人の手を握り締めた明鈴に問われてさくらは頷く。
「確か、『テレパシー』ですよね。作戦のときに貴女の声が頭に響いてすごく驚いたのを覚えています。」
正解だ、と示すように明鈴も頷いた。それから、静かに宵人のことを眺めていた彼女の目がさくらに向く。
「それによって、私が宵人さんの意識とさくらさんを繋ぎます。準備はよろしいでしょうか。」
さくらは、頷いた。
明鈴が繋いでくれた手が温かったことだけは覚えている。あとはサラサラと自分が解けて、いつの間にかどこかに足がついていた。さくらは目を開ける。
穏やかな空間だった。さくらは空港や駅の待合場所のような椅子に座っている。ずらりと並んだ椅子。横にも後ろにも、他に座る人はいない。
ふと、右手の方に目を向ける。そこは一面ガラス張りになっていて、外は藍色に染まっていた。それに応じて、この空間も藍や紫で彩られていて。
「!」
そのガラスの奥を見つめる人物が1人。ふわふわしたウェーブがかった髪、痩せ型で少し疲れ気味の背中。彼のワイシャツも外の藍の光が反射して青い。その光景は、そのまま切り取ってしまいたいほどに美しかった。
「宵人くん!」
さくらは彼に駆け寄った。ゆっくりと振り返った宵人は彼女を見てにこりと微笑む。その優しさに、心がひたひたとした。
「御足労願ってすみません。……ああ、そんな顔しないで。貴女を泣かせると明鈴に怒られちゃうな。」
眉尻を下げて笑う仕草。あの、包帯に包まれて、機械で呼吸を維持されている男だとは到底思えない穏やかさだ。
「ここ、綺麗ですよね。明鈴が俺のために用意してくれた空間なんです。彼女の『異能』、テレパシーなんて呼んでますけど、あれはあの人がお母さんに外の世界を見せるための『異能』。こうやって、明鈴の許した人物を特定の空間に引き込むこともできる。」
明鈴の母親は目が見えない人なのだ。そんな彼女のために明鈴の『異能』は発現した。早岐の人間として『守る異能』を持つわけではなく、家族のための優しい『異能』が。
「綺麗な人です。それに、すごーく優しい人でもあるんです。俺にはほんと、勿体ないな。」
妻について語るときの彼はこれ以上なく幸せそうなのだ。思わず泣きそうになってさくらはぎゅっと唇を噛み締める。
「さて。時間を無駄にするわけにはいきませんね。あんまり惚気ると一巳がうるさいし。」
それは随分と明るい声だった。生死の境に置かれている人とは思い難いほど。
「あの、宵人くん。私を何のためにここに呼び出したんですか?……嘉七さんは目覚めてしまいました。私、何もできなかった。あの場で動けたのは。」
その続きはゆっくりと宵人が首を横に振ったことで遮られる。皆まで言うな、ということらしい。
「ええ。俺だけです。でもそれでよかった。対嘉七の要である忠直さんや貴女が倒れていた方が状況は厳しかったでしょう。」
対嘉七。『特務課』の彼らがさくらの事情に関してはきちんと把握していたことは知っていたが、その言葉はまるでこのような状況に陥ることを予測していたかのようで。
「俺たちはずっと貴女を待っていたんですよ。“さくら”さん。」
スッとこちらを見据える目が“変わった”。誰かへの親しみと信頼の籠ったそれにさくらは息を呑む。
「“嘉七”に苦しめられている貴女を救うために、うちの課はずっと準備をしていました。“ラパノス”っていう横槍がなければもう少しスマートにいけたんですけど。」
はにかむように笑って、宵人は淡々と話を続ける。この話はさくらに対して、というよりも。
「詳しい話はここではなく、一巳や忠直さんから。俺の役割は説明ではないので。」
こくん、と頷く。これは、誰の意思なのだろうか。宵人の目に見据えられるたびに、中にいる誰かがじっと何かしらのタイミングを見計らっていることに気づいてしまう。さくらはどこかふんわりした気分になっていた。
「さくらさん、俺が実際に“嘉七”を視た所見をお伝えします。あまり時間はないので聞き逃さないで。」
宵人の顔が引き締まる。さくらは再び頷いて、彼の話に耳を傾けた。
「まずあのとき、俺の目には“嘉七”の渇望が視えました。“さくら”に愛してほしいという満たされなさ。それがあそこまで増幅して、また人を殺した。」
そう。だから私はさくらとしてここにいたのに。
頭の中で宵人の声に呼応する誰かの声。さくらはもうそれがあまり不快ではないことに少し戸惑う。たぶん、自分でも気づいているのだ。
「紛い物。彼は貴女のことをそう称しましたね。貴女は紛れもなく“さくら”だったのに。でもね、たぶん彼にとっては“旭兎美”まで含めて“さくら”だったんです。外側だけの何かの欠けた貴女では駄目だったんだ。」
カツン、足音が高く鳴った。宵人がゆっくりとこちらに近づいてきている。
「ただ。2年前の旭さんでは駄目です。」
目の前に立った宵人に見下ろされ、さくらはたじろぐ。彼が言っているのは酉七にただ記憶を返してもらうだけでは駄目だということ。既にさくらは、自分の中の兎美の存在を、いや兎美のことを自己として認識し始めていたため、今起こっていることを理解し始めている。
「あの人は忠直さんを愛してるから。たぶんそれをもう嘉七に向けることができない。」
宵人の目を真正面から受け止めたのはどこか久しぶりであった。ヘーゼルの虹彩の奥で光の角度によって藍色が鈍く輝いている。美しい瞳だ。
「だから、酉七さんの『異能』はそのままに、俺が旭さんの“想い”だけを『異能』で包みます。……普段だったら到底不可能な芸当ですが、ここでは俺も貴女も実体がない。俺には貴女の“想い”、それが視えます。だから、俺に委ねてもらえますか?」
さくらはこくんと頷いた。いや、これはたぶん兎美の意思。目の前の友人を微塵も疑わずに信頼しているのだ。
「大丈夫。貴女はとびっきり強い。そして隣には頼もしい相棒も帰ってきましたから。」
こん、と額と額が合わさった。さくらは目がチカチカするような心地に駆られる。
ふわり、と。胸のあたりが優しい何かに包まれる。その最中、宵人の心も流れ込んできた。さくらを気遣うような気配、後のことを託す仲間への信頼、そして、残してきた妻子のこと。
いつの間にか、涙がつう、と頰をなぞった。彼は、“覚悟”している。
そのことに気づいたらもう黙っていられなかった。額から熱が遠ざかり、また宵人と目が合う。瞬間、口を開いていた。
「“御厨くん”。私、絶対あなたのことも助けます。絶対に。だから、何も手放さないでください。」
“彼女の”強い瞳だ。ギラギラしていて、深い紅は怖いほどに強い。宵人は思わず笑ってしまった。
「……あはは、やっぱりあんたが最強だな、
旭さん。」
旭兎美が、帰ってきた。
「じゃあ、そろそろですね。さ、目を瞑ってください。」
何かを悟ったようにそう口に出した宵人。彼の表情を窺う前に兎美はそっと目を塞がれてしまう。
「……ねえ旭さん。俺も、諦める気は毛頭ありません。俺が死んだらあんたに施した細工が無駄になっちまうし、あんな素敵な嫁さん未亡人にしてどっかの男に掻っ攫われるのも嫌ですもん。それに、娘に会うまで死ねねえ。」
宵人は戯けたような口調で言葉を紡ぐ。さくらには見せなかった距離感だ。兎美もふっと笑った。
「ん。上出来。旭さんはやっぱ笑ってんのが1番だから。」
兎美はその言葉を皮切りに目覚めの気配を察する。だから、最後に叫んだ。
「もう誰も死なせませんから!約束します。御厨くんはたくさん休んでてください!」
宵人の笑い声が、聞こえた気がした。
「……あーあ。折角明鈴が用意してくれた空間なのに。」
美しいこの空間の隅に真っ黒い何か。じわじわと広がって、ここを侵食していく。
「怖えな。死ぬわけにはいかないし、死にたくもない。なのに父さんが死んじまったの、なんかわかる。あれは、生きる意思を奪ってしまう。」
「……だけど、なんだろ。ほんと旭さん頼もしいわ。なんとかなる気がする。呪いも何もかも全部振り払ってくれそう。だって、隣には忠直さんもいる。」
「眠た……最近働きすぎだわ。はは、一巳過労死すんなよ。カフェイン、ほどほどに、な。」
「兄ちゃん。ごめん。怖い思い、させてる。誰かがいなくなるのは、怖いことだって知ってんのに。母さんにも、謝んなきゃ。」
「それに、明鈴に、愛してるって。」
目を開けると、明鈴は兎美の手を握ったまま、宵人の開かない瞼を眺めていた。愛おしげに彼を見る柔らかさ、宵人に重ねた手は握り返されていないこと。兎美は胸が締め付けられるような心地を覚えた。
「……お久しぶりです。明鈴さん。」
上手く、笑えているだろうか。この人の前だけでは泣くわけにはいかない。きっと、明鈴には宵人の目が開くその瞬間まで泣くつもりがないから。
「…………ええ。ご無沙汰しております。旭兎美さん。」
切なげに微笑んで明鈴はどこかホッとしているようだった。ちゃんと“兎美”が戻ってきたことにだろう。
「私、行かないと。御厨くんのことは必ず助けます。あなたたちの幸せを奪わせないために。」
立ち上がった兎美は明鈴に向かって深々と頭を下げる。それに対して眩しそうに目を細め、明鈴はベッドに頭をもたれかけさせた。
「……旭さん、私も、“御厨”なんです。」
彼女はそう言ってゆっくりと目を瞑る。管だらけの動かない夫の腕に擦り寄って、囁くように吐いた。
「この人がくれた、永遠にお傍に置いてくださる証です。大丈夫。果ててしまおうとも私の伴侶は御厨宵人、ただ1人ですから。」
ぐるる、と思わず喉が鳴る。泣くのを堪えた兎美はもう一度明鈴に頭を下げて病室を出た。外の椅子にはまだ隼人が座っていて、彼は兎美を見てフッと笑う。
「ひっでえ顔。美人サンが台無しだぜ。」
病室から出た途端、耐え切れずに泣き出してしまったのだ。確かにひどい顔だろう。兎美はニッと口角を上げる。
「お互い様ですよ、隼人さん。」
隼人の目も真っ赤。でも明鈴の激励が効いたのか、彼はどこかすっきりとした顔をしていた。
「もう俺は必要なさそうだな。いや、そもそもそんなに役に立ってなかったか。」
隼人も心のどこかで兎美が戻ってきたことを察しているらしい。彼はほんの少し寂しげにそう言ってくれた。
「いいえ。あなたは“さくら”の心の支えでしたよ。」
それに対して兎美は頭を下げる。宵人に関してのことは何も言わなかった。それはきっと不粋だろう。話があるのなら、宵人自身とするべきだ。隼人もそう思っているのか、もう項垂れる姿をこちらに見せることはなかった。
「そう言ってもらえるとありがたいね。……さ、行ってこいよ、旭兎美。アンタを待ってる奴がいる。」
兎美は頷いて玄関の方へ。もう、振り向くことはしなかった。
「ちぃーっす。久しぶり、旭さん。」
そこで出迎えてくれたのは一巳。てっきり忠直がいると思っていたのだが。
「あれ、何?課長がいること期待してた?」
それを察したかのようにつついてくる一巳。でも、残念ながら今の兎美は動じない。記憶があるだけに、それはほんの少し切ないことでもあった。
「そうですね。そろそろきちんと顔を合わせたかったんですけど。」
兎美の様子を見た一巳が目を細める。それは誰かを仰ぎ見るような仕草だった。
「……さっすがよいっちゃん。仕事ができる男だねえ。今のあんたはあのさくらさんでも旭さんでもない。正真正銘、“咲本さくら”ってわけね。」
『咲本さくら』。それは兎美の本名である。旭兎美が偽名というわけではないが、産みの両親がつけてくれたのは前者の方なのだ。
「……早岐くんは、変わりませんね。」
見上げた一巳の顔には涙の筋すらない。いつものような人を食った笑みに全てを見通すような目。落ち込むどころか、しみじみと兎美にそう言われて楽しげに答えてくれる。
「俺に残業押し付けて寝やがった馬鹿のために流す涙はありませんもん。ま、でも俺は優しいんで、託されたモンくらいはこなしてあげよっかなぁって。」
キラリ、と一巳の左の耳元で何かが光った。それは、宵人がいつもつけていた輪っか状のピアス。開けたばかりなのか少し赤い。
「行きましょうか、旭さん。やることは山積みですが、実はもう課長が戻ってきた時点で俺たちにとっては王手だったんですよ。」
一巳の運転でたどり着いたのは『予見家』。大きな和風の門の前に、早岐夕鈴が立っていた。
「あっ、旭さん!!お待ちしておりました!」
今は早岐の人間も自由な発言が許されているのか、彼女は大きくこちらに手を振ってくれる。兎美も嬉しそうに振り返して一巳の方を見る。
「あの、早岐くん。ここに来た目的って。」
どうせ答えてはくれないだろう。そう思った通り、一巳は不敵な笑みを浮かべたまま夕鈴についていくように示す。
「まあまあ。すぐわかりますって。御当主サマが首を長ーくしてお待ちなんで、急ぎましょ。」
応接の間として通されたのはいつか来たことのある広い畳の部屋。ここで確か以前は前当主の予見 令悟に接触したのだ。つまりここは。
「よーお、久しぶりだなぁ、旭兎美。」
どっしりと部屋の真ん中に胡座をかいて座っているのは現当主の予見 麗佳。真っ黒く伸ばした髪を後ろで団子にしていて、面差しは前に会ったときよりも大人びている。
「麗佳!また綺麗になりましたね。」
嬉しくて思わずニコニコすると珍しく麗佳も素直に微笑んでくれた。
「お前がいなくなってる間に俺様飲めるようになっちまったぜ?今度付き合え。」
兎美がこくこくと頷くと、約束な、と無邪気な顔を向けてくれた。しかし、その会話の後はきゅっと彼女の顔は引き締まる。
「さて。とりあえず最初は謝罪からだな。入れ。」
麗佳が合図して入ってきたのは。
「兎美様、お久しぶりでございます。ご無事で何よりですわ。」
予見 酉七。今回の事態をややこしくした立役者の1人。
「……酉七さん。あなたも、無事でよかった。」
彼女に笑いかける兎美に苦い顔をしたのは麗佳。ほんの少し怒っているような気配だ。
「はあ。まったくよ、俺様はどうかと思ってんだぜ?『異能』に対する嘘の報告、お前らへのストーカー行為、勝手な行動。局に訴えれば勝てるぞ、旭兎美。」
今回のことは本当に気に入らなかったようだが、当の本人たちがあまり気にしていないようなので麗佳は酉七に頭を下げさせつつ呆れたような顔をしている。兎美は酉七に関しては怒っていなかった。だって。
「2年間、酉七さんが私のお世話をしてくださったのは本当です。別に悪いように扱われた覚えはありません。」
これに尽きるのだ。酉七も兎美を見つめてニコニコとしていた。
「……ま、お前がそう言うならそれでいい。1ヶ月前、酉七はお前さんと一緒にいれば足手纏いになるから、と早々にうちに避難してきていたんだ。どうやら取り越し苦労をかけちまったらしいな。」
何も言わずに消えたのは、もしも兎美が追いかけてきた場合、麗佳などと接触することで記憶が戻ってはいけないと思ったから。確かにこちらとしては取り越し苦労をする羽目になったわけだ。
「じゃあお前さんの不安要素を消せたところで本題に入るか。」
兎美の背後に控えていた一巳がそこで隣に座る。麗佳が使用人に持ってこさせたのは。
「……銃?」
麗佳と兎美の間に細工が施された拳銃程度の大きさの美しい銀色の銃が置かれる。しげしげと眺めているうちにそれに見覚えがあることに兎美は気づいた。
「って、これ、明鈴さんが使ってませんでしたか?」
囮作戦のときに救助に来てくれた明鈴が確か、このような銃を使っていた気がする。変わったデザインだったので覚えていたのだ。それを口に出すと一巳が感心したような声を漏らした。
「お、ご名答。こいつは早岐の家宝です。」
彼はひょい、と銃を掴んで兎美の手に乗せる。乗ったそれはずしりと重たい。
「どんくらい前かな。俺様はそいつの貸し出しについてそこの愚兄から相談を受けた。予見と早岐に服従関係はもうほとんどないが、こういう宝物の使用権はうちにあるんだ。」
特に驚きはしなかった。両家の間にそのくらいの名残りはまだあるだろう。
「そいつは普通の銃とは違ってな、『弾』がねえんだよ。」
麗佳に促されて銃を検めると、確かにどこにも弾を込めるパーツは見当たらない。それではどうやってこの銃は使うのだろうか。
「『異能者』専用の銃なんだ。そいつは『力』が弾になる。操作によって出力も変えられたりな。忠直や一巳はそれが“嘉七”とやらに対しては通用する武器になる、と考えたらしい。」
そこまで言うと麗佳は説明を一巳に託すように彼を見る。彼は軽い目配せをして口を開いた。
「宵人や『発明課』の証言、忠直さんの感触で“嘉七”が既に“肉体を持たない”ことはわかっていました。あれは最早、自らの『異能』で保存されて妄執だけ残った『何か』です。人間と呼ぶにはもうあまりにも歪んでしまっている。」
それは兎美にもわかっていた。彼は最早、最初に出会った“嘉七”ではない。さくらと添うことに執着しているだけの何かだと。
「だからあれにトドメを刺せんのも『力』だけ。それも他の人ではなく“さくら”でないと。つまりあんたが使うことによってこの銃は嘉七に対する最高の武器になるでしょうよ。」
手に乗っている重み。兎美はじっとそれを見つめた。
「……私に、上手く扱えるでしょうか。」
不安げに揺れる彼女の目。一巳はふふ、と笑って兎美の背後に目を向けた。
「1人では行かせない。大丈夫だ。」
その声にはさすがに弾かれたように反応してしまう。“好き”という感情は宵人が封印してくれているとはいえ、彼への信頼と情は既に取り戻していたから。
「ナオさん!」
思わず立ち上がって飛びつくように彼を確かめる。光に透ける黒鳶色の髪の毛、黒いワイシャツ、両手には見覚えのない真っ黒い手袋。最後の記憶よりも痩せて、不健康そうな草臥れた雰囲気を纏っているが、その目だけは記憶の通りだ。
「よお、忠直。お前、傷は癒えたのか?」
兎美に小さく笑いかけた忠直は、麗佳に向かって頷く。彼は確か、拷問に耐えた傷だけでなく、咄嗟にさくらを庇った傷も作っていたはず。
「ああ。榊に治してもらった。問題ない。」
明らかにホッとする麗佳。今日の彼女はどこか素直である。たぶん、宵人がああいう状態だからだ。
「早岐、銃についての説明は済んだか?嘉七が目覚めた以上、ダラダラとはしていられない。」
「ええ、終わりましたとも。旭さんはお預けしますよ。早く行かなきゃでしょう?」
とんとん拍子に話が進んでいく。この感じは、たぶん“ラパノス”という組織の介入さえなければ、対“嘉七”の体勢は整えてくれていたのだろう。一巳の言った通り、王手の状態であったのだ。兎美は忠直を見上げる。
「……なんだ?その不服そうな顔。自分が置いていかれているようで不満か。」
きゅ、と鼻をつままれる。ぎゃ、と小さく呻くと忠直は楽しそうに笑った。
「約束は守る方だ。不測の事態はあったが、お前が帰ってきたときに、万全の体制で助けられるように準備をしておく、俺は2年前にそう言ったはずだからな。」
全てを告白したあの海で、確かそういうことを言ってくれていた気がする。相変わらず頼もしい。兎美はニッと笑った。
「さすが。つまり私はもう暴れるだけでいいんですね。」
また鼻をつままれるかと思ったが、忠直は意外にも同じようにニッと口角を上げて、約束を果たすように言った。
「ああ。おかえり、旭。」