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Heart  作者: 洋巳 明
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6話 再会


 忠直が目を覚ました。そういう旨の連絡を受けた一巳は宵人の運転で惣一の別荘である診療所に向かっていた。

「忠直さん、起きられたんだな。よかった。」

 隣の相棒は心底安心している。忠直に対してのそれは一巳も同様であったが、起こっている事象については。

 握りしめている地図を見つめて眉を顰める一巳。これは忠直の監禁場所で円が見つけた地図である。

 宵人や『発明課』の安保あんぽ課長、そして特務課の元課長代理であるきしに確認してわかったのだが、印のついてある墓は全て“特務課の職員”の眠る場所であった。それに、宵人が押収した黒い粉。それらから導き出される答えは。

 はっきりとした事実証明はできていない。『発明課』による成分分析の結果はまだだ。だけど、宵人の目と忠直の体が揃えば十分だろう。この嫌な予感は当たる。一巳はため息と共に地図を折り畳んだ。

 そもそもこの“ラパノス”という組織の名前が出始めた頃から一巳は宵人をこの件に関わらせるのは反対であった。当時の事件の生き残りで兎美の恋人である忠直はもうどうしようもないが、宵人はこれに関わることでいつか、立ち向かわなくてよかったことに巻き込まれる気がして。

「一巳。」

 ぐるぐるとそんなことを考えていた一巳は宵人に呼ばれて顔を上げる。

「俺、お前から何言われても引く気ねえから。自分だけ安全圏にいる気はない。……んな心配そうな顔すんな。」

 お互い、理解しすぎている。一巳は特に返事もせずに窓の外に目を向けた。

 宵人の運転はいつでも安定している。慎重派で丁寧な彼らしい。でも、最近は特に輪をかけて配慮されている。それが、何の為なのか。

 一巳は義姉の顔を思い浮かべる。無表情で無口で淡々とした声を使っていた彼女はいつの間にあんなに笑えるようになったのだろうか。

「……宵人。」

 彼の方は見ない。見れば、何かが鈍ってしまう。

「俺はお前に何があっても進むよ。何かを悼んでやるほど優しい心持ってねえから。」

 誰よりも優しいくせに。宵人は気づかれないように小さく笑って「ああ」と返した。


 診療所に着くと惣一が出迎えてくれた。彼はまず2人を応接間に通す。忠直のことは今、惣一の秘書である中野なかの すみれと雇っている看護師が診ているらしい。

「2人とも、仕事後にお疲れ様。」

 最近まで生死不明とされていた彼はぴんぴんしている。それもそのはず。惣一は『般若の面』に匿われていたのだから。

 彼の生存を一巳が知ったのは確か、ミリンを嵌める作戦を決行する前日。話をしてくれたのは杷子だった。


「うちの人が先生を匿ってました。」


 少し怒った様子の彼女に渡された電話の相手が惣一。彼は忠直の監禁場所を自警組織『般若の面』の頭目である鬼崎きさき れんと共に見つけたことを教えてくれた。

 彼らに作戦の説明をしたところ、それならばその裏での動きの見張りを担おう、ということで惣一たちは『特務課』が動く裏で動いてくれていたわけだ。

 それは功を奏して、なんなら敵の本拠地まで割ることができたのだが。


「いえ、榊さんこそお疲れ様です。」

 丁寧に挨拶を交わす宵人を見ながら、一巳はそっと促されたソファに腰掛ける。惣一に訊かなければならないことはたくさんあるのだ。

「んで、先生。確かあんたが旭さんとの連絡役を担ってたんだよね?……一体、どうなってるんですか?何で予見酉七が関わる?」

 忠直の誘拐時、何があったのか。どうして蓮の元にいたのか。そのへんも明らかにしておきたかったが、まずはさくらについて。

 正直なところ、『特務課』も彼女の扱いに困っていたのだ。“旭兎美”として扱うべきなのかどうなのか。だから、彼女に簡単に情報を伝えられなかった。兎美として、が前提のものもあったから。

「うん。本当に2人には申し訳ないと思ってる。慎重な対応をしてくれてありがとうね。」

 惣一はどこか疲れた様子で宵人と一巳に頭を下げた。


 彼女が変わり果てたことに気づいたのは2年前の冬。“ラパノス”によって“旭兎美”という名前が『裏』で出回っている、と蓮から報告を受けた後のことである。

 惣一はすぐに兎美に危険なことが起こっていないかの確認を取るために彼女に電話をかけた。しかし、その電話に出たのは。


『はい、ご機嫌よう、榊先生。』


 惣一にとっては聞き覚えのない声であった。思わず怪訝な表情を浮かべるが、あくまでも冷静を装ってその女に尋ねる。


「えーと、俺は旭兎美さんの携帯電話にかけたつもりなんだけど、間違えたかな?」


 電話に出た女の目的を探るために惣一は戯けた口調を使った。画面上で確認できるので自分が誰かに間違ってかけたわけではないことはわかっている。


『いいえ、先生。貴方は何も間違っていませんわ。初めまして、私、予見酉七と申します。』


 名前には聞き覚えがあった。予見酉七。一巳の妹に当たる女性であったはず。そんな彼女がどうして兎美の携帯を持っているのか。


『私、兎美様と忠直様には幸せになって欲しいんですの。』


 訊いてもいないのに酉七はぺらぺらと話し始めた。一体何が起こっているのか。惣一は黙って酉七の話に耳を傾ける。


『お2人が幸せになるには、兎美様が“さくら様”であることが必要だと、そう拝聴致しまして。私の『異能』が役に立つと思って協力させていただいた次第でございます。』


「……それは君、ナオと旭ちゃんの会話を盗み聞きしたってこと?一体、どうやって。」


『家が麗ちゃんの代で終わると決まってから、私も自由な時間が増えましたの。その間、お2人のことを見守っていただけですわ。』


 要は、ストーカー行為じみたことをしていたのか。なかなか、倒錯している。

 惣一は苦い表情を浮かべながら続けて訊いた。


「……今、旭ちゃんは何してるの?君の『異能』で、彼女に何をしたんだい?」


『そんなに怖い声を使わないでくださいな。私、兎美様のことも愛しております。決して彼女を傷つけることはしておりません。ただ、『さくら様』に近づくために兎美様の記憶を預からせていただいただけです。』


 惣一も伊達に研究者を名乗っているわけではない。すぐに酉七の言っていることがどういうことであるかは察した。


「『記憶消去』の類の異能か。……なるほど。……ねえ、酉七さん。今の彼女の状況を教えてもらっていい?」


 酉七は『旭兎美』を消してしまったのだろう。いや、厳密には奪った。それにより前世までの“さくら”の記憶だけが残され、忠直への想いという不純物を持たないさくらの人格が生まれたらしい。

 惣一は、彼女の記憶に関する相談を受ける医師を名乗ってさくらに接触してみた。すると、何もかも忘れた彼女は無垢で、ひたすらに“嘉七”を求めていた。


「2年前。さくらちゃんに会った後、俺はすぐにナオに相談した。たぶん、ナオが言えば酉七さんは旭ちゃんに戻してくれるだろう。だけど、ナオが『このままでいい』って断行したんだ。」

 つまり、酉七の勝手な行動をそのまま作戦に組み込んだのだ。一巳はなるほど、と頷く。

 “嘉七”は“さくら”を求めている。歪みのない、ひたすらに自分を慕ってくれる“さくら”のことを。

 旭兎美は永坂忠直のことを愛してしまった。その想いは不純物になる。だから、彼らは距離を取ることにしたのだ。でも、そもそも兎美の記憶のない“さくら”であれば、オリジナルに近い可能性が高い。

 その事情を鑑みると、酉七によって記憶が消されたのは好都合、とまで言えてしまうかもしれない。

「それからそのまま、さくらちゃんは酉七さんと行動していた。前の“さくら”の旦那さんに会ったりとかもそう。酉七さんは非常に協力的だったよ。」

 惣一の表情から、“さくら”側は順調であったことがわかる。“ラパノス”の邪魔がなければ、当初の目的通り“嘉七”に辿り着いていたとも思えるほど。

「だけど、『裏』の情報網と“ラパノス”の執念でさくらちゃんは発見された。そのときに俺と接触していたこともバレてね。ナオが追われる俺の身代わりになるように誘拐され、俺は君たちにできるだけの情報を渡して頭目殿のところに転がり込んだってわけ。」

 以上が惣一の握っていた情報というわけだ。ほんの少ししこりの取れたような顔で一巳は確認を取るように惣一に尋ねる。

「じゃあ俺らは旭さんのことをさくらさんとして扱い続けていい、ってわけですね?」

 彼の質問に惣一は頷こうとした。しかしそれは宵人が遮った。


「いや、駄目だと思う。……それじゃ、さくらさんは可哀想だ。」


 惣一も一巳も驚いた顔で宵人を見る。注目されたことにも怖気付かずに彼は淡々と言い放った。

「“嘉七”が求めてんのは、空っぽなものじゃない。きちんと肉の詰まった愛情だ。今のさくらさんじゃ、“嘉七”を満たせない。」

 宵人の目が何かを思い出すように光る。彼は、兎美が戻ってくるまでの期間に自身の父親を“視た”記憶を取り戻しているのだ。この発言はそれに基づくものだった。

「……じゃあ、旭ちゃんのことを教えた方がいいってこと?」

 目をくりくりさせながら問う惣一。宵人はそれに対しても首を横に振った。

「それも、違います。すみません、感覚的なもので、言葉での説明が難しい。だけど一つ言えることはたぶん全ては忠直さんと彼女が接触したら。そこから始まると思います。」

 

 夕方の暖かな橙の日差し。忠直は静かな病室でそれを眺めていた。彼は、日の光自体を久しぶりに浴びた。柔らかいのに眩しくて思わず目を細める。

 惣一は忠直の状態を診てほんの少し安堵していたようであった。執拗に手足を痛めつけられていて衰弱はしていたが、命に関わるような怪我などはなかったから。それでも包帯を剥がしたときに彼が泣きそうになっていたことには胸がキュッと縮こまるような感覚を覚えた。

 先程までは看護師とすみれが細々とした世話をしてくれて。ありがたいのに少し申し訳なかった。そう言うと、すみれには苦言を呈されてしまったが。

 そんな彼女たちと入れ替わりに部屋に入ってきた人物が1人。こんなしんみりした状況での見舞いなど柄ではないだろうに、きっと9年前を思い出して居ても立っても居られなかったのだろう。

「……わざわざすみません、岸さん。」

 口を開かないままむっつりと何かに耐えるように黙り込んでいる彼に代わって、忠直は眉尻を下げつつそう言った。

 きし 裕二郎ゆうじろう。『特務課』の元課長代理で9年前の事件を知る人物でもある。事件の際、“嘉七”を撃ち殺した忠直に最初に声をかけたのが岸。彼は当時、無理矢理にでも自分が介入しなかったことを悔やんでいた。

「…………。」

 顔を上げた岸は泣きそうな顔をしている。いつもあっけらかんと笑う上司の見たことのない顔に、忠直は目を伏せた。

「……この前夢に、かおりが出てきたんだ。ひどく生々しい夢でな。『永坂を見守ってやってくれ』。そう言って、あいつらしく笑っていた。」

 特務課の前課長である犬塚かおりと岸は憎からず想う関係であった頃が存在した。円満に別れた後、岸の方は別の女性と添い合ったが2人は仕事上でもいい関係であったから。

「旭さんの現状に関しては早岐に聞いた。彼女は2年前、免許を取りに来たときに俺に、お前に対して『ひどいことをするかもしれない』、そう言っていた。」

 いつになくたどたどしい話し方。忠直の胸はずきん、と痛んだ。自分のやろうとしていることが、いかに自分を想う人を蔑ろにしているかをまざまざと見せつけられているようだったから。


「永坂、頼む。死なないでくれ。」


 岸の大きな手が忠直の痩せた手を包み込む。暖かいそれが物語る寂寥感。岸の目からツー、と涙が流れていた。

「あの事件でお前は沢山のものを背負わされた。愛する女性に尽くすのもわかるんだ。だけど、俺はもうお前が自分を犠牲にするのを見たくない。頼む、永坂。約束を、してくれ。」

 忠直は息を呑んだ。岸は今までほとんど自分のやることに口を出してくることがなかったから。それは彼なりの線引きで、情に篤いのに仕事のメリハリのしっかりしているこの人が一度も崩したことのないこと。

「仇討ちだとか弔いだとか、そんなもの、生きているお前に押し付けることじゃない。永坂、どうか、一線だけは踏み越えないでくれ。」

 岸には2人の娘がいる。しかし、本当はその下にもう1人、息子がいたのだ。彼にとって念願の男の子だった。流産によって亡くしてしまったが。そんな家族の事情を打ち明け合ったことが岸と打ち解けるきっかけにもなった。

 そういう事情もあって岸が自分のことをどこか息子のように気にかけていることを忠直は知っていて。

 窓の外に目を向ける。その愛は温かくて眩しすぎた。

「……すみません。」

 忠直には謝ることしかできなかった。



 

 ゆら、とカーテンが揺れる。光が入ってくると温かくて、眩しい。背中を預けているのは柔らかいシーツで、澄んだ朝と昼の間のような匂い。

 私は、押し倒されていた。見下ろしてくる男は知らない人で、恐怖を感じるべきなのに私の体は落ち着いていてむしろその先を期待している。抱き締めてほしい。熱を感じたい。目を合わせたい。声が、聞きたい。

 男の人がゆっくりと動いた。手に握られていた黒いチューリップ。それを私の胸に押し付けて、ぐちゃりと花弁を散らす。微かに花の匂いが鼻腔をくすぐって、私は彼の目を見ようとその顔を見上げた。

 カーテンが揺れた。光に照らされて互いに眩しさに目を瞑り、開く。そのときやっと目が合って、彼は。


「……お前は、何も知らなくていい。」


 心臓の位置に置かれていた大きな手。それが、離れていってしまいそうなことに気づいた私は縋り付く。両手で彼の腕を掴んで。


「嫌、行かないで。ここにいて。もっと、もっと近くに。」


 たじろいだ彼の首に手を回す。グッと引き寄せて、逃げられないように。

 だけど、私の意思とは裏腹に彼の体はフワッと桜の花弁となって降り注ぐ。あぁ、と言葉にならなかった声が漏れ、私は勝手に嘆いていた。


「ッ、“ナオさん”……。」




 夢を見ていたようだ。“ラパノス”のアジトに踏み込んでから5日。同じような夢を見続けている。自分が誰かに縋り付く夢。さくらは部屋に降り注ぐ朝日に顔を顰めて、ゆっくりと体を起こした。


「おはようございます、さくらさん。」

 一階に降りるとキッチンには宵人がいた。珍しい、と思わず時計を見ると彼は苦笑いを浮かべながらさくらの疑問に答える。

「こんな状況ですけど、休暇は休暇です。仕事ばかりしているわけにもいきませんからね。」

 このところ一気にいろんなことが起きたことの皺寄せに追われていた彼だが、『課長』が戻ってきたことで『特務課』は落ち着きを取り戻したらしい。“ラパノス”への警戒は緩めていないものの、穏やかな日も増えている。

「それに、俺が忙しいと明鈴が無理しようとするから。もうすぐ朝ごはんが出来上がります。呼んできてもらえますか?」

 さくらは頷いて、明鈴の私室に向かった。


 『特務課』の『課長』が目覚めたのは一昨日の夕方。宵人はすぐに惣一の診療所に飛んで行ったが、さくらは躊躇った。

 たぶん初日は近親者が押し寄せるだろう。初対面の自分が行っては気まずい思いをしそうだ。そういう言い訳と共に断ったが、実際のところは怖かったのだ。

 救出の際に彼の姿を目にしたさくらは、自分の中から出てこようとする何かに脅かされた。落ち着いた後、すぐにあれが誰であったかは察した。あれは、“今世の自分”。名前は“旭兎美”だろう。赤い男と隼人の発言で予測はできた。

 昨夜、宵人にも確認を取った。彼ははいともいいえとも言わず、『忠直さんに会ってから全てを話すことになる』。そう言った。

 今までのさくらであればこの言葉によって『特務課』への不信感を強めていたのだろう。しかし、本当の明鈴と課長が戻ってきてからは彼らの態度は随分と和らいだ。それを見ているとさくらのざわついていた心も落ち着いてしまって。

 酉七の行方に関しては相変わらずわかっていない。だけど、この前杉崎に接触したときに思ったのだ。たぶん、“ラパノス”は酉七の存在を掴んでいない、と。彼女のことを知っていれば、さくら自身を追うよりもよっぽど効率的にさくらを誘き出すことができていただろうから。

 兎にも角にも今自分にできることは『特務課』の課長・永坂忠直に接触すること。そう自分を奮い立たせてさくらは今日、彼に会うことを決めたのだ。


「明鈴さん、おはようございます。」


 妊娠中は階段の登り降りがキツいということで、明鈴の私室は一階にある。宵人の部屋に比べて物の少ないさっぱりとした部屋だが、ところどころに彼女の趣味とはほんの少しズレているものが飾られているのが夫婦の仲を示しているようでさくらは好きだった。

 明鈴はさくらの声でゆっくりと体を起こす。起きてはいたらしい。

「おはようございます。さくらさん。」

 どこかとろんとした目つき。布団の中で微睡んでいたのだろう。彼女が立ち上がるのに手を貸しながら、さくらはふふ、と微笑んだ。


 朝ご飯は宵人のお手製のフレンチトーストだった。明鈴が最近、甘いものを食べたがるのだ。蜂蜜やジャムなどが共に出されていて、お好みで、ということらしい。

 食パンは焦げ目がつくまで上手に焼いてある。だから外はカリ、としているのに噛むと中はトロトロで思わずさくらはニコニコと満面の笑みを宵人に向けてしまった。

「あはは、最高の笑顔ですね。」

 明鈴の髪を結いながら宵人もつられてニコニコする。産まれてくるのが娘だということで、彼は毎朝練習がてら妻の髪を結っているのだ。その光景を眺めながらさくらは返事をした。

「はい!とっても美味しいです。今日はほんの少し憂鬱な気分だったので、元気が出ました。」

 さくらの言葉に宵人が申し訳なさそうな顔をする。彼が気に病むことではないのに。

「今日、俺が送って行きますね。普通に仕事でなく忠直さんと話したいし。」

 その言葉には素直に甘えておく。正直なところ、1人で会いに行く勇気はなかったのだ。


 惣一と面識はあったが、まさかこんなに立派な別荘を抱えている人だとは知らなかった。診療所の前に立ったさくらは思わずあんぐりと口を開けてしまう。

「おはよう、さくらちゃん。」

 出迎えてくれた惣一を見てさくらはホッとした。彼は酉七同様、さくらの中で信頼していい人物なのだ。

「お久しぶりです。榊先生。……貴方もこの件に一枚噛んでいたんですね。」

 とはいえ、身分を隠して近づかれたことには素直に苛立ちを覚えた。医者であることは知っていたが、『特務課』との繋がりは知らされていなかったから。たぶん、この様子だと彼も“旭兎美”について知っていたのだろう。

「うん。……ごめんね。」

 だが申し訳なさそうにその美しい眉を寄せられると弱い。特別責めることはせずに、さくらはただ頷いておいた。

 

 宵人とぽつぽつ言葉を交わしながら階段を上がる。永坂忠直の病室は日当たりのいいところに位置しているらしく、廊下には窓から暖かい光が差し込んでいる。

 顔には笑顔を浮かべつつ、さくらは自分の中にふつふつと不思議な感覚が昇ってくるのを感じていた。足が自分のものではなくなり、どこか客観的な視点で宵人と話している。それが、ひどく恐ろしかった。

 

 コンコン


 宵人がドアをノックした音でさくらはハッと我に帰ってくる。


「はい。」


 中から聞こえたその声に心臓が気持ち悪いほど高鳴った。赤い弾力のある筋肉であばらを弾かれたようだった。


『ナオさん』


 どくんどくんどくんどくん


 脳の血管が唸っている。頭がひどく痛んで吐き気を催した。


「さくらさん?ちょ、大丈夫ですか?」


 気遣ってくれる宵人の声にも脳味噌が揺れるような感覚を得る。自分の中で何かしらの葛藤が暴れていた。どうしてもあの人に会いたい自分と、会ってしまえば何も抑えられなくなることを自覚している自分。

 さくらの顔は真っ青になっていた。横に立つ宵人が息を呑んで彼女を座らせようとする。しかし、さくらの手は勝手にそれを拒んだ。


 ゆらり、と足を踏み出す。体は震えているのに抗いきれなかった。たぶん“さくら”という理性がなければ駆け出していただろう。


 男は、ベッドの上にいた。手元の資料から顔を上げ、こちらを見て懐かしむように目を細めた。朝日に透ける黒鳶色の髪の毛、眼鏡を外す無駄のない仕草、そして晒される深い黒青の瞳。さくらは口から、声にならなかった呻きを漏らした。


「……こんにちは、さくらさん。」


 深い情の籠った低い声。



 ああ、“これ”だ。



「……ナオ、さん。」


 やっと絞り出せたのはこの一言だけ。その後はもう流れてきた涙でぐしゃぐしゃになってしまった。

 目の前のこの男のことは何もわからない。顔も声も初めて。そのはずなのに、心臓の高鳴りは全てを物語ってしまう。


 嗚呼、私、この人が好きなんだ。



 その瞬間、拮抗を保っていた何かが崩れ落ちた気がした。



 それは、鋭い気配であった。なんとか蓮の猛攻から逃げおおせ、マスタード、ソウスと共に別の拠点に移動していた勇気は目を見開いた。

 いかに、自分の放った気配がチャチなものであったかを示すようだ。苦い笑みを浮かべながら、勇気は立ち上がる。


「ソウス、マスタード、大変です。“彼”が目覚めた。」


 この先の算段を立てていた2人はバッと自分たちのボスに視線をやる。彼は冗談を言うタイプではない。その目は全く笑っていなかった。

「そんなことあり得るのか!?今、“奴”はお前の気配を追っているはず。それは“さくら”への実験で立証された。」

 マスタードが慌てた様子でそう畳みかけると、勇気は冷や汗を滲ませながら首を横に振った。

「……そうです。“さくら”だけであれば、俺は上回れました。」

 勇気の言いたいことがわからない。とでも言うように顔を顰めるマスタード。だが、ソウスの方は目を見開いた。

「永坂、忠直か。いや、だからといってどうして。」

 ぶつぶつと顎に手を当ててソウスが長考しようとするのを勇気が遮る。

「たぶんゆっくりしている暇はありません。ソウス、誰でもいい。飛べますよね?」

 ソウスの『異能』は『転移』。彼が『力』でマーキングしている点に飛ぶことができる。よって彼は今、忠直の元であれば飛ぶことができるのだ。

「ああ、わかった。現場に急行しよう。」

 ソウスが手を前に突き出す。彼らはぐるぐるキャンディの真ん中に立たされたような感覚に襲われた。



 ぞわりと。忠直の眼前で泣き崩れていたさくらの背筋を舐める何かの予感。忠直も何かを感じ取ったように窓の方向に目を向けた。その2人の様子を見た宵人も違和感に気づく。

 そんなとき、ふらりと一巳が病室に入って来た。


「課長、失礼しますよー。あんたの中の物質に関して……。」


 さくらと忠直の耳には一巳の声がやけに能天気に響いた。彼は忠直に仕事の話をするために今し方到着したらしい。惣一もその後ろから続いていた。

 部屋の中に足を踏み入れた2人は異様な気配を察して固まる。さくらと忠直の様子を見守っていた宵人の顔もいつの間にか引き攣っていた。


「……ッ、あ、う、か、一巳。逃げろ。逃げてくれ。ここにいる人連れて、できるだけ遠くに!!!」


 宵人の声が恐怖に染まっていた。彼の目には何かが視えているらしい。全く状況は読めなかったが、尋常ではないことが起こっているのだろう。一巳はすぐに動こうと。



 メキッ



 木の軋むような音。ダメだ。宵人がか細くそう言った。



 ガラガラガラッドシャーーンッ!!!



 部屋の壁が吹き飛ばされる。宵人の『異能に包まれたこの面々は無傷で済んだが、他の被害は。


 だけどもう誰にもそんなことを考えている暇はなかった。


「見つけた。」


 熱に浮かされたような声。それは、一心にさくらに向いていた。

 崩された部屋の一角の壁。そこに、男が佇んでいる。誰も動けなかった。

 黒々とした髪の毛。齢は20そこそこ。紺色の着流しに身を包んでいて、忠直がその男を認識した瞬間に目を見開く。彼が9年前と一切変わらぬ容姿をしていたから。


「“杉崎勇気”……いや、“嘉七”、か!」

 

 忠直の声は意にも介さずに嘉七はゆったりとした足取りでさくらに向かっていく。さくらは惚けたようにしていて動かない。


「……さくら。」


 嘉七はさくらの頰に手を添えた。およそ、生きている人間とは思えない冷たい手。さくらの体は震え始めた。


 嘉七の真っ黒な、底の見えない闇のような眼差し。それに射すくめられているさくらは呻く。2人はしばらく見つめ合って、でもそうしているうちに嘉七の表情が曇っていった。



「…………違う。」



 ぽつり、と吐かれた声の無機質さ。それにその場の全員の肌が粟立った。


「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!」


 狂ったようにそう連呼し始める嘉七の爪がさくらの白い頰に食い込む。彼女は恐怖のあまりガチガチと歯の根が合わなくなってしまっていた。


「違う!!彼女は、こんな“紛い物”ではない!!!!!」


 突き立てられた爪の先にさくらの血が滲んだ。まずい、と最初に動いたのは忠直。彼はさくらの手をグッと引いて、どうにか嘉七から引き剥がす。そこまでは問題なかった。

 だが、ズズズ、と真っ黒な『力』が嘉七に集約してきていて、もう間も無くそれは放出されそうになっていた。忠直の脳裏に9年前の光景がフラッシュバックする。嘉七から真っ黒な『力』が溢れた瞬間に、全てが死に絶えたあの光景が。

 部下2人と惣一に目を向ける。彼らはすくんでしまっているのか動かない。手を伸ばしても届かない。みんな、死ぬ。


 パキンッ


 何かの割れるような音。嘉七の体が揺れた。だけど、広がるはずであったどす黒い『力』はなぜか放出されなかった。

 全員が驚いた顔で音のした方に目を向ける。そこには、本物の“杉崎勇気”が立っていた。

「僕の『異能』なら、これを止められます!」

 彼の『異能』は『力の封印と解放』。成功したのか。勇気の背後にはマスタードとソウスの姿もあった。


 全員がこの隙に体勢を立て直そうと。


「ッ、ダメだ。あれじゃ、抑えきれない。」


 しかし場に苦々しく宵人の声が響いた。今の状況に最も把握しているのは彼だろう。視える彼にはとても勇気には嘉七を抑え続けていられないことがわかるから。いまにも溢れ出てきそうなどす黒い『力』。判断は一瞬だ。


 ふと、宵人が一巳を見た。彼の視線に気づいた一巳も見つめ返す。


「……ごめん。後は任せた。」


 言っていることの意味がイマイチ飲み込めなかった。一巳は呆然と宵人を見つめ続ける。


 みんな、自分のことで手一杯だ。それなのにコイツだけは、何かしらの覚悟を決めている。


 フッと、まるで夜が訪れたかのように空が暗くなる。辺りはしん、と静まり返った。


「ああっ!?ダメだ!俺じゃ、彼を……!」


 嘉七に最も接近していた勇気が真っ先に闇に飲まれる。抑えきれずに放出された嘉七の『力』は次々に人を飲み込んでいく。


 だが、その中で一巳の目に焼きついたのは相変わらず美しい、明るい夜のような藍色。

 

 彼は、守ることを選んだのだ。








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