5話 求める
「……貴方は?」
男は、自分を惚けたように見つめていた。まるで、あの日のように。桜が舞って、それは白く夜に映える。
だけど、さくらは目を丸くして男を見つめ返した。この人は、誰だ。
「……君が、さくら、か。」
男の髪は真っ白だった。まだ誰にも手のつけられていない雪のように白い。最初に目についたのはそれだった。
次にハッとしたのは『嘉七』の気配が消えていること。確かに感じた筈だったそれは、いつの間にかもう感じ取れなくなっていて。
すぐに頭の中によぎったのは敵の罠だということ。だがしかし、あれは確かに『嘉七』だったはずだ。焦がれるほどに会いたい人。それなのにそれが叶わなかった。さくらは悲しげに目を伏せる。男は、それに見惚れているようだった。
「桜が散るまでにお会いできるのかしら。」
さくらは嘆くように呟いて、とぼとぼと帰路に着く体勢になる。その腕を男が掴んだ。
「待って!」
歳の頃は20代後半から30そこそこといった具合。染めた頬を隠しもせずにさくらを見つめている。でも、彼には微塵の興味も抱けなかった。
「……どちら様ですか。手を離していただいてもよろしいでしょうか。」
冷たくそう言い放つと男は悲しげに目を伏せる。だけど、その手はより強くさくらの腕を締め付けた。
「俺の名前は杉崎勇気。そう言えば、少しは興味を持っていただけますか。」
杉崎勇気といえば、“嘉七”の今世での呼び名である。珍しい名前ではないが、この場でさくらに向かって名乗るものとしては偶然の同姓同名ではないだろう。さすがにさくらも眉を顰めた。
「……私に、何の用ですか。」
渋々訊き返すと勇気は嬉しそうに微笑む。その平凡さにさくらはほんの少し面食らった。
「君はどうしてここに来たんですか?」
質問に質問で返すとは、と思うもののさくらの頭の中にはその答えが浮かぶ。
どうしてここに来たのか。それは、“嘉七”の気配を感じたから。でも素直に答えるわけにはいかない。さくらはじっと勇気を見つめたまま、無言を貫いた。
「答えたくないのなら当ててあげます。それは、もう1人の“杉崎勇気”の気配を感じたから。違いますか?」
彼の言うもう1人の“杉崎勇気”というのが嘉七のことであることは察する。勇気は嘉七の名前までは知らないのだろう。だけど、さくらは息を呑んだ。
どうしてわかったのだろうか。目の前の男は名前を使われただけであって、“嘉七”とは何の縁もないはずなのに。警戒したさくらは更に黙り込む。下手なことを口走るわけにはいかない。
「……君は、なぜ彼が未だに君の前に現れないのかを知りたくはありませんか。」
しかし、さくらに対して投げかけられたそれは、彼女の頑なさを突き崩した。さくらは眉間に皺を寄せて、凍りついたような表情で勇気を見上げる。
「知りたいですよね。だって、彼に会うために君はここまで来たんだから。」
勇気は穏やかに微笑んでいた。月明かりに照らされるそれはまるで、この世のものではないようで。
「俺の名前は杉崎勇気。“ラパノス”のリーダーを務めています。俺の知っていることと君の知っていること。それを合わせれば、君を救うことができる。……だから、俺と一緒に来てくれませんか?」
真っ直ぐにこちらを見つめてくる勇気の目は澄んでいて、まるで晴れた空のようだった。自分を追っていた鬱陶しくて憎たらしい組織のリーダーと名乗った男は、素朴なのにどこか美しい。
「…………。」
彼の提案は罠、どころの話ではない。真正面から来られてしまった。さくらは悩んだ。逃げた方がいい。そして、特務課の誰かに通報すべきだろう。
だけど、なぜか無性に気になるのだ。確実に感じた筈の“嘉七”の気配の正体。その秘密を勇気が握っているのが本当であれば、彼について行くのもやぶさかでは。
「さくらサン!!!」
しかし、その声に現実に引き戻される。ハッとして振り向くと、息を切らしてそこに立つ隼人の姿があった。
「これ、どういう状況?さくらサン、親しいオトモダチでもなければそいつから早く離れた方がいい。何か、変な感じがする。」
隼人の言葉で腕を掴まれていたことを思い出したさくらは、やっと勇気の手を振り払う。そして後ずさるように隼人の隣に並んだ。
「……御厨隼人。なるほど、今君が最も信頼を置いているのは彼なんですね。」
その光景を眺めながら勇気はまた穏やかに微笑む。彼にとって隼人の存在はどうでもいいらしい。それが余裕として滲んでいた。
「誤解のないように言っておきます。僕には君たちを害すつもりはない。」
その言葉に隼人もさくらも顔を顰める。それは今まで起こったことを思えば俄かに信じがたいことだったから。
目の前のこの男は敵の親玉で、まだその目的も不透明。その上今は人数も優っている。わざわざ目の前の男の提案に乗る必要はない。そう判断した隼人は速やかにさくらを自分の背後に回した。それなのに。
「だから、御厨隼人さん。君もどうぞ。」
杉崎は一切の態度を崩さずにそう言い放った。言っていることの意味が一瞬汲み取れずに隼人が眉を顰める。
「……アンタ、俺が異能使えねえと踏んで舐めてんのか?」
今は2対1の状況。さくらも隼人も戦えないわけではない。今すぐに通報して、彼を捕まえる方が早いのだ。それは勇気もわかっていることだろう。
「いいえ。理解者は多い方がいいと思っただけです。僕は君たちと話し合いたいだけ。本当です。何なら、縛られたって構いません。」
にも関わらず彼は手首を簡単に差し出してきた。その様子は嘘をついているようには見えないが、一巳でもいない限り彼の本当の腹の内などわからない。
しかし、さくらは興味を惹かれているようであった。それを横目で捉えた隼人は小さくため息をつく。
「……隼人さん。」
さくらの目が、酉七の行方と敵の真意が知りたい、と言っていた。誰になろうとこの女がわかりやすいところは変わらないのだ。隼人はもう一度ため息をついた。
「…………はー、とんだはずれくじ引いちまった。」
隼人の言葉でさくらが臨戦態勢を解く。それを得て、勇気はにこりと笑った。
そこは、古びた3階建ての建物。見た瞬間に嫌な予感がしたが、『特務課』が到着したときには既にもぬけの殻であった。
「早岐主任、こっちも何もなさそうですね。でも御厨さんの言う通り、つい最近まで人がいた形跡はあります。」
円の報告を受けた一巳はありがと、と言いつつ不機嫌そうに口角を上げる。あっさりとミリンが捕まった段階であまり期待はしていなかったが、やはり忠直は移動された後だったから。
2階を任された一巳は既に一通り見て回っていたのだが、ほとんど何も残されていなかった。これは、自分たちが場を荒らすよりも先に情報課や捜査課に回した方がいいかもしれない。目が特別な宵人だけを残して、他の人員は引き上げさせようとして。
「あれ、早岐さん。それ、なんですか?」
円が一巳の足元に落ちていた折り畳まれた紙を指差す。示されるがままに一巳はそれを拾い上げた。
「……地図?」
広げてみるとそれは局のある市街地の周辺一帯の地図のようだ。それには印をつけてある場所が何点もあった。何かしらの目的地だろうか。
「……なんか、全部墓地に印ついてません?なんすか?相手には墓マニアでもいるんですかね。」
うげ、という顔をする円の隣で一巳も首をひねる。正直言って、この地図の意義はさっぱりわからない。
「ま、でもこれは一応うちが押収しておこうかな。まめちゃん、宵人の補佐についてくれる?俺と池田は一旦引き上げるわ。」
だけど、なんとなく重要な意味を持つ気がして一巳はそっとそれをしまった。彼の指示に円は元気よく返事をして、宵人の担った3階へと駆けていく。その背中を見届けて、一巳は伸びをしながら階段を降りていった。
「御厨さん、お疲れ様です。何か見つかりました?」
ドアからひょっこりと顔を覗かせた円に笑いかけつつ宵人は一応頷く。彼のいる部屋には簡素なベッドが置いてあって、窓には鉄格子。部屋に1つだけある白いドアには見張り用の窓がついていて、ここが忠直の監禁部屋であったことを想起させた。ついでに言えば宵人の目はこの部屋に残る忠直やミリンの気配を捉えている。忠直の方は本当につい先ほどまでいたような感じ。
「ミリンの情報に嘘はなかったみたいだな。一巳が取調べをしたから当たり前か。にしても、一歩遅かった。」
悔しくて思わずそう零すと円も同様に目を伏せる。彼も忠直を救えなかったことに思うところがあるらしい。
「忠直さんの気配は弱い。……早く、助けないと。衰弱しているのは確かみたいだ。」
宵人の言葉に円の表情が引き締まる。それを見た宵人は小さく微笑んだ。課の全員から忠直を救いたいという気持ちが伝わるのは素直に嬉しいことであった。
「3階はこれ以上俺たちが探れるものはなさそうだ。でも、ここに来て忠直さんの気配を視たことで気付いたことがある。ここ、地下あるよな。」
円に確認を取るように訊くと、彼はえ、という顔をする。入る際に確認したここの地図にはそんな記載がなかったのだ。
その反応にピクリと頬を引き攣らせる宵人。彼は忠直の気配に惹かれるがままに3階を探っていたので、あまりここの地図は把握していなかった。
「……柴谷は来なくてもいい。たぶん、あんまり気持ちのいい光景じゃないと思うから。」
ほんの少し落ちた声色。宵人は地下で何が行われていたのかの見当がついているらしい。その上で円にそう言ったのだが、まだよくわかっていないらしい彼は首をぶんぶんと横に振った。
「俺も行きます。御厨さんだけに背負わせるわけにはいきません。」
2年。その初期は自分の犯したことに打ちひしがれていることもあったのに、随分と逞しくはなってくれた。真っ直ぐすぎるくらいなのも、気を遣いすぎるこの課の雰囲気にはいい風になっていて。
宵人はフッと笑った。見せるべきでない、と彼を庇護するのもほどほどにしなくてはならない。彼も、うちの課の一員なのだ。
「わかった。行こう。」
地下への入り口はカビ臭い物置の隅にあった。鍵などはかかっておらず、少し錆びている取手を力一杯引っ張るだけで開いた。
現れた階段を降りていく。中は案外綺麗でここが1番使われていた形跡がある。それに、なんとなく宵人の背筋を粟立たせるような嫌な気配があった。
部屋の数はたくさんはなかった。開けていくとほとんどもぬけの殻だが、ある部屋に入ったときに異様な気配を感じた宵人が立ち止まる。
「……あの、御厨さん、顔真っ白っすよ。」
背後から円の心配そうな声。しかし宵人は答えずにぼんやりと部屋を見渡した。
空っぽのラック、並んだテーブル、投げ出された椅子たち。何をしていた部屋なのかわからない程度に物が残っていないが、宵人の目がある一点に止まる。彼はずんずんとそこに歩いていってしゃがんだ。
指で床をなぞる。白い手袋に乗る埃やゴミの他にチラチラと黒い粉末。それが何なのかはわからないのに、手袋越しでも触れていることにゾワゾワと震えが下から上がってきた。
「…………“嘉七”の、気配?」
ぽつりと呟いて一応それをパケ袋に押収する。振り返ると心配げに円が立っていた。その顔を見て、ほんの少し安堵する。
「悪りぃ、柴谷。進もう。」
他の部屋には気になるものはなかった。ただ、1番奥の部屋。そこからは忠直の気配がした。
たぶんここが現場なのだろう。地下であれば、どれだけ悲鳴を上げようが漏れにくいから。
3階の部屋と同じように鉄格子のついた見張り窓のあるドア。そのドアノブを押し下げて、宵人と円は中に入った。
ヒッと円の悲鳴が耳に届いた。宵人は顔を顰めるだけに留める。一応、想像よりは酷くなかったから。
部屋の真ん中に椅子が一脚。その肘置きの部分は嫌な感じにところどころ赤黒い。そして、部屋の中自体に嫌な生臭さが充満していた。
入って左に目を向けると作業台。その上こそ酸化した血がこびりついていて、それを見た円の顔は真っ青になっていた。
衰弱していた忠直の気配はここでは少し濃ゆい。それだけ血を流したということで。グッと握りしめた拳が痛くなる。
「……ああ、クソッ。なんで間に合わなかったんだ。」
ちゃんと視ると、忠直の気配だけではない。ここで、複数の人間が。そう思うと怒りが込み上げてきた。今すぐ何かに当たりたい気持ちに満たされるが、グッと飲み込んで宵人は振り返る。
「柴谷、戻ろう。一巳に報告して、俺たちは引き上げる。ここに踏み入れば現場を荒らすことになるから。」
顔面蒼白の円はおずおずと頷いて、肩を叩かれるがままに宵人と2人、部屋を後にした。
一巳が建物から外に出ると、既に杷子はそこにいて、誰かと電話をしているようであった。一巳に気づいた彼女は砕けた口調で話していたそれに緊張感を含めて電話を切る。
「ん?続けてても良かったけど?」
わざとらしくそう言うと、杷子が顔を顰めた。一巳は彼女が誰と話していたのかをわかっているのだ。
「私用の電話はしていませんよ。……さくらさんの方、動きがあったそうです。」
ピリッと雰囲気を正した杷子に対して一巳もわかっている、というように頷いた。
「いやあ、頼りになるねえ。正直すげえ助かるわ。あの人いるだけで戦力がだいぶ違う。……2年前の旭さんみたいだな。」
彼が思い出話をするのは珍しい。杷子はフッと目を細めて微笑んだ。
「でも兎美さんと違ってあの人は普通に遊びに走るところあるので信頼しすぎは駄目ですよ。」
随分と訳知り顔をするようになったものだ。一巳は揶揄う言葉を考えながら、目の前の部下の和らいだ雰囲気に心地良さを覚える。頼りになるのはお前もだよ。そう告げるのはさすがに照れ臭かったが。
「自分の男のこと、よくわかってるねえ。あっちもそうなのかな?」
“自分の男”という単語に反応して杷子の頰が赤く染まる。彼女は呆れたように一巳を睨みつけながらため息をついた。
「隣に選んだんやけん当然やろ。で、あっちは任せるとして、私たちはどう動きます?」
正直に反応するのでもう少しつつきたい気もしたのだが、一応気を緩めてはいけないときだ。一巳は表情を正す。
「宵人が何か見つけてくんだろ。それを待って、俺たちはもう退勤時間。残業代にも上限あるしね。一旦休み。ああ、でも婚約者さんからのオンコールには控えててね?」
最後に含まれた揶揄いに顔を顰めつつ、杷子はしっかりと頷いた。
「な、なんだ、ここ。」
隼人は思わずそう口に出していた。隣でさくらも似たような表情をしている。
勇気に連れられて辿り着いたのはとある一軒家。住宅街の片隅に位置していて、古びた木造建築には味があった。いい家だ。
ではなく。それは、あまりにも普通の民家すぎるのだ。自分たちを付け狙う組織のトップが使っているとは思えないほどに。
俺たちはもう少しジメジメしたところに集まってたけどな。この家を眺めながら隼人は思わずぼんやりとそんなことを考えてしまった。
「どうぞ。」
玄関のドアの鍵を開けた勇気に言われるがままに中に入る。なんというか、警戒心が削がれてしまった。
「粗茶しか出せませんが。」
居間に通されてお茶を出される。隼人もさくらもそれに手をつけることはなかったが、部屋に漂う緑茶の匂いは随分と呑気なものだった。
生活感のある家。絵に描いたようなちゃぶ台、使い込まれたソファ。敵のアジトとは思えないほど普通の生活を想起させる。
だけど、この家に着いたときからさくらはあることが気になっていた。特に口に出しはしなかったが、横の部屋に繋がる襖の方を彼女はチラリと窺う。
今すぐにその襖を開けたかった。とても変な感覚だ。そこにいるのは“嘉七”ではない。なのに、求めてやまない。そんなものがあるわけがないのに。
「いい家でしょう?ここは僕の生家に似ているんです。」
自分の分の茶を注ぎ終わった勇気は2人と対面するように座った。ぼーっと襖に気を取られていたさくらはハッとして姿勢を正す。
勇気が顔を上げた。それで話が始まることを察した2人はそっと気を引き締める。
「なんて、世間話はもういいか。お2人とも、もう9年前にもなるあの事件はご存知ですよね。特に、御厨さんは。」
9年前の事件。“杉崎勇気”と称された“嘉七”が人々を蹂躙した事件で、その最中、特務課の主任であった隼人の父は亡くなった。この3人の中で誰よりもあのときに直接的な被害を受けたのは隼人である。
「……まあな。」
ため息混じりに返事をすると勇気は同情するような目で見てきた。それが不愉快で、隼人はフン、と鼻を鳴らす。そんな彼の睨みにも屈せず、勇気は隼人に注目したまま続けた。
「その事件をきっかけとして4年前、貴方がたは事件を起こした。『アポトーシス計画』。首謀者の水原壱騎は確か、そう呼称していましたよね。」
四年前の事件に関しては、さくらにとっては聞き覚えのないことであった。だから、杉崎は2人を見ながら話していたが、話の内容に苦々しく表情を動かしたのは隼人だけだった。
「“ラパノス”はあの事件をきっかけに足掛かりを掴んだんですよ。貴方がたには感謝しています。御厨隼人さん。」
そのつもりはないようだが、勇気の言葉は皮肉として刺さる。隼人はそりゃどうも、と頬を引き攣らせて杉崎を睨んだ。そんな彼の視線も意に介さず、勇気は淡々と続きを言い放った。
「僕たちの目的は、“杉崎勇気”の名を奪ったあの男の封印。そして、再利用することにあります。」
彼の言葉を聞いた途端、さくらと隼人に緊張が走る。封印ときたか。それにしても随分あっさりと目的を教えてくれるものだ。いや隠すものでもないのだろう。目的を明らかにしなければ、さくらに警戒されている状況が変わらないことはわかりきっている。
「9年前。僕は『異能者』の社会のことはおろか、自分の本当の名前も覚えていませんでした。ですが、あのニュースで全てを思い出したんです。」
杉崎勇気。彼は孤児である。
10歳のとある夏の日。両親と川遊びに来ていた彼はそこで溺れた。彼を助けに入った父親は息子を助けられないまま流され、勇気自身も流されてしまった。父親はそのときに亡くなったらしい。勇気は行方不明となった。
同時に2人を失った母親は精神を病んでその後すぐに儚くなったという事実を、勇気は記憶を取り戻して調べた後に知った。
だが死んだと思われていた彼は川の下流の方に流れ着いていた。その記憶は全て失われ、施設に保護される形とはなったが生きていたのだ。
彼の生きるよすがは自分の記憶を取り戻すことにあった。記憶を取り戻せば、きっと両親と再会して幸せな生活を送れる。そう思っていたのに。
9年前、杉崎勇気の報道がなされてから彼の生活は一変した。その名前を聞いた瞬間に全てを取り戻した勇気は絶望した。自分の居場所であったはずのそこは、“嘉七”によって乗っ取られてしまったのだから。彼の影響で杉崎勇気は犯罪者となってしまった。
そこに手を差し伸べたのがマスタードという記者。彼はこちら側への見聞の浅かった勇気に『異能』やその社会について手解きをして、彼にあの事件の詳細を教えた。勇気は血眼で自分の名を名乗る男の正体を探った。
どうして“嘉七”が“杉崎勇気”を名乗るに至ったのか。それは、勇気の祖母のせいである。彼女はふらりと自分の家の付近に現れた“嘉七”のことをどうしてか、勇気が帰ってきた、と解釈して家に招き入れた。息子夫婦と孫を失った彼女もだいぶ参っていたのだろう。
嘉七はぼんやりしていて、存在感の薄い口数の少ない青年だったらしい。日々の大半を寝て過ごし、食事や排泄も行わず、ただひたすらに14年もの間、勇気の祖母に保護されていた。認知症の始まっていた祖母は、孫の異常さにもそれが孫ではないことにも目を瞑ってしまったのだ。本物の勇気が見つけた頃には、もう人物の判別はおろか、まともに口を利くこともできなくなっていた。
そんな祖母が事件当時、嘉七のことを“杉崎勇気”だと局の人間に伝えてしまったらしい。調べるとすぐに杉崎勇気という人物が戸籍上では既に亡くなっていることはわかったのだが、他に呼び名もない。局は杉崎勇気の名前を使うことを断行した。
本物の勇気は生きていたというのに。
「……お気の毒さま、としか言いようがねえな。」
話の区切りに冷めた雰囲気で隼人がそう言うと、勇気は癪に触ったようにピクリと片眉を上げた。同情はいらないといった感じ。
「……突如現れた男に帰る場所を奪われたんです。これ以上なく、残酷なことでしたよ。」
睨み合う2人の横で、さくらはじっと勇気の言ったことを噛み砕く。なぜ、嘉七は14年もの間、勇気の祖母の家で沈黙を保っていたのに動き出したのだろうか。そんな長い期間、さくらを求めなかったという事実に違和感を得たのだ。
そんな彼女の表情を見た勇気はフッと笑って、話を続けた。
「9年前。記憶を取り戻す前の俺はしがない町工場の作業員でした。でも真面目に働いていれば評価されるもので。僕の技術を見込んだ上が出張させてくれたんです。指南役として。」
何の話だろうか。神経を尖らせていた隼人もそれをそっと抑えて話に耳を傾ける。
「出張先は自身の生家、つまり祖母の暮らす家の近くでした。あの男は、『僕の気配』に反応して行動を再開したんです。」
さくらは目を見開いた。それは。
「貴方の気配に反応した?そのせいであの人は来てくれないの?」
どこか苦しさを孕んだそれを口に出した後にさくらが一瞬押し黙る。
前世までは、嘉七は一直線にさくらを求めて現れていた。だけど、今世はそれが滞っている。それは、もしかすると。
「つまり、今、嘉七さんが追っているのは、私ではなく貴方……?」
思わず口に出していた。俄かに信じがたいことであったが、勇気は正解だと示すようににこりと笑っている。
「あの男、“嘉七”というんですね。」
失言というほどのことではないが、勇気はとても嬉しそうにそう言った。宿敵の名前を知れた、そんなふうに。
「……さくらサン、俺はイマイチわかってねえんだが、アンタがあの桜並木で想い人に会えなかったのはコイツのせいって解釈でいいかい?」
隼人の質問にさくらは頷く。大体間違っていない。そういうことだろう。
「嘉七さんは、いつも私の気配を追って現れます。私も彼の気配を感じることができる。惹かれ合うように近づいて、私たちは添ってきました。でも、あの桜並木まで行っても今世、嘉七さんは来てくれなかった。」
悔しそうなさくら。隼人が勇気の方を窺うと彼はどこか満足げであった。
「その原因は僕の体質にあります。僕は人の数十倍、濃い『力』を持っているんです。それは、さくらさんよりも強い。」
その言葉にはさくらも隼人も目を見開く。それもまた信じがたいことであった。彼らの目の前にいる男からは普通の『異能者』よりも薄い『力』しか視えないのだ。ちらりと視ただけではっきりと『力』の質がわかる隣の女よりも強いとは信じられなかった。
「僕の『異能』は、『力』の開け閉めができるんです。自分も他人も問わずに。今、僕は自分を『閉じて』いるので貴方がたの目には標準以下の『力』しか視えないでしょうね。」
真偽のほどはわからない。でも、勇気の言うことが本当だと裏付けることをさくらは経験している。今日感じた嘉七の気配。あれは。
「“嘉七”やさくらさんは、たぶんより濃い気配に惹かれるのだと思います。尋常であればさくらさん、貴女よりも濃い気配を持つ人間はいないのでしょう。」
やったことがないのでわからない。勇気の言葉を否定できる材料を持たないさくらはごくりと息を呑んだ。彼の言っていること、それが本当であれば、これはとんでもないことに繋がる。
「あの、桜並木。現れた貴女は美しかった。貴女にとっては“嘉七”の気配を感じたのでしょう。あれは、僕がただ一瞬、自分の『力』を解放しただけだったのに。」
勇気の言葉に動けないさくらをじっと観察していた隼人が代わりに口を開く。彼女が怖くて聞けなくとも、ここまで来たら知っておかなければいけない事実だ。
「……それは、つまり、アンタはその『異能』で自分の『力』を解放すれば、“嘉七”をいつでも呼べるってことか?」
勇気ははい、とは言わなかった。でもその可能性は高いぞ、と脅すような声色で彼は言う。
「仮定としては。ただ、さくらさんより濃い気配を知ってしまった“嘉七”が僕へと標的を変更しているのはほとんど確定かと思われます。」
厄介。実に厄介なことである。隼人はため息と共に無理矢理口角を上げた。
「なら、もうさくらサン逃がしてそっちで勝手に乳繰り合ってくんねえか?どうしてこの子巻き込むんだよ。」
標的がさくらでないのであれば、もう巻き込まれなくていいのではないか。
だが勇気は首を横に振った。さくらも複雑そうな顔をしている。
「僕たちの目的である“嘉七”の封印。確かに封印だけであれば僕と『器』で事足りる。でもこの計画には先があります。」
それが事の本題のようだ。勇気の語気が上がった。
「それにはさくらさんの協力が不可欠です。それは……。」
「ボス、お話し中にすまない。」
しかし、話は遮られる。隼人とさくらがハッとして振り向くとそこに仮面をつけた怪しげな人物が。
「ソウス。どうしたの?」
勇気に全く驚いた様子はない。彼は元々ここにいたのだろう。恐らく、ラパノスの幹部だ。
「盗聴されている。これ以上、ここで話すのは悪手だ。移動する。」
ソウスと呼ばれた男は勇気に向かって手を伸ばす。訳知り顔でにこりと微笑んだ勇気は彼の手を取った。
瞬間、ソウスの『力』が増幅する。さくらも隼人も目を見開いた。これが、先程言っていた勇気の『異能』の効力。自他問わず『力』を解放すると言ったのは嘘ではなかったらしい。
にしても、これはまずい。ソウスは移動する、と言った。その言葉で嫌な予感がした隼人はさくらの腕を掴んだ。
「おっと、逃がさんよ。」
しかし、玄関の方からマスタードが顔を出す。彼は脅すようにゆっくりと帽子を脱いだ。万事休す。他の脱出路を隼人が探したところで。
ぎゅるん、と世界がねじくれた。自分たちが渦巻いたペロペロキャンディの中心にいるような気分。ソウスの『異能』は空間転移の類なのだろう。やはり、勇気の話に乗るべきではなかった。後悔に呑まれながら隼人がさくらの手を握り直したところで。
パンッ
それは、シンプルで、でも非常に不愉快な音であった。何かの割れたような。鳴り響いたそれに顔を顰める一同。
それに続いて、次に男の悲鳴が響いた。
「……ぐぅッ、ッ、すまない、ボス。」
苦しげな声だ。隼人がその声の方を見ると、ソウスの腕からぽたぽたと赤い血が流れ出ている。腕は美しいほどに一太刀でざっくりと斬られていて。彼は咄嗟に勇気を庇ったらしい。
しん、と空間が静まり返る。ねじれた世界が正常に戻って、さくらは眼前に現れたその男に目を奪われた。
強く迸る美しさ。短く切り揃えられた真っ赤な髪の毛の鮮やかさは、その手に握る刀から滴り落ちるそれに勝るとも劣らない。
「いい判断だ。お前さんが庇わなければ、当方はそこな兄ちゃんを仕留めていただろうな。」
かかかっと男は明るく笑う。対面したソウスは勇気を庇う体勢を崩さず、いつの間にかその2人との間に割って入られたマスタードは呆気に取られていた。
「さあて、めぼしい話は聞けたか?御厨の兄ちゃんの方に……久しぶりだな、“兎美”。」
くるりと振り返った深紅の男。どこか楽しそうにさくらを見ている。
兎美。その名前には聞き覚えがある。確か、隼人が最初に自分をそう呼んだはずだ。あのときは人違いだと振り払えたのに、男の視線のブレなさにさくらはたじろぐ。
「兄ちゃん。兎美を連れて離脱しろ。」
だけどさくらの反応に気づいていながらも彼女に何か言う間を与えずに男はニコッと笑った。彼はさくらと隼人に向かってきていたマスタードの触手を見もせずに斬り払う。しかし、触手の勢いは止まらず、量で押そうという考えの見える攻撃が男を襲った。
「おや?お前さん、前回自分が誰相手に手こずったのか覚えとらんようだな。……あれは俺の女だぞ。」
それを一笑に伏して、男は迎え撃つ。さくらはその美しい『異能』捌きに思わず見惚れた。ぐにょぐにょと攻撃を仕掛ける触手、隙を突こうと回り込む触手、さくらと隼人に向かってくる触手。複数の方向に向いていたそれらが男がグッと引き寄せた瞬間、集約され、弾け飛んだ。
その光景はまるでただただ強いものに対して、小細工など無駄だと示すようだった。思わずぼんやりとするさくらの腕を、今度こそ確実に隼人が引く。
「逃げるぞ。あの人はこっちの味方。」
気になることはあるが、さくらは素直に頷いて隼人に腕を引かれるままに走り出そうと。
「おーい!こっちこっち!」
まだ何かあるのか。そう思って振り返るとこちらを呼ぶ声が聞こえたのは“あの襖”の方から。そちらに目を向けたさくらは驚いて叫びかける。すぐに隼人が口を塞いだ。
「久しぶり、2人とも。情報量多くて頭パンクしそうだろうけど、もうちょっと付き合って。」
そこにいたのは榊 惣一。確か、死んだとされていたはずだ。宵人からそう聞いていた隼人はさくらの口を塞ぎつつ、信じられないものを見る目を彼に向けた。
「説明は後。早く。頭目殿が惹きつけている間に、“ナオ”を助けよう。」
その言葉で弾かれたように隼人は動く。それに引っ張られるがままにさくらは襖の奥に入った。
刹那、向こう側の喧騒が嘘のように遠くなった。いや、さくらの耳にはもう何も届かない。
畳の踏み心地の柔らかい和室。その真ん中に布団が敷かれていて、そこに。
あれは、『』だ。
頭がひどく痛んで割れそうだ。さくらは、自分の中で誰かが叫んで出てこようとしているのを感じた。
あの人は、『』さんだ。
違う。知らない。あれは、知らない人。
知ってる。だって、私。
知らない。あんな人知らない。
知ってる。あの人は、『』さん。
知らない。しつこい。うるさい。黙ってよ。
知ってる。だって、あの人は、『ナオさん』だもの。あの人は、私の。
「……ッ、知らないってば!!!!」
思わず、叫んでいた。隼人と惣一がこちらを驚いたように見ている。かなり大きな声が出てしまったらしい。
しかし、それでもなお、彼は穏やかに眠っていた。胸が上下していなければ死んでいるかと見紛うほどに。さくらはそんな彼をなぜか直視できなくて目を逸らす。
「……大丈夫か?さくらサン。」
隼人が心配げに顔を覗き込んできた。さくらの顔は真っ青で、息を切らしている。明らかに普通ではない。
それは、たぶん。隼人はちらりと眠っている忠直に目を向けた。
「榊サン、早く忠直サンを連れて離れよう。今の叫び声でこっちに気づいた奴もいるかもしれない。」
険しい顔でさくらを見ていた惣一は隼人の言葉でハッとしたように動き始める。2人はさくらの様子を窺いつつ、忠直を持ち上げた。脱力している人間は重いが、持てる程度に痩せてしまっていることに隼人の眉間に皺が寄る。この部屋には縁側に通じる障子があって、少し落ち着いたらしいさくらがそこを開けた。
あの赤の男はしっかりと足止め役を果たしてくれているらしい。特に邪魔もなく忠直を運び出すことができた。
惣一と男が2人で乗ってきたらしい車に忠直を乗せる。その隣にさくらを座らせ、惣一が助手席に。隼人が運転席に着いた。
「発進していいんですか?鬼崎さんは。」
エンジンをかけながら隼人が訊くと、惣一はあっけらかんと笑いながら答える。
「ま、頭目殿が負けるようなことはないでしょ。」
丸投げなのか信頼なのか。隼人は小さく笑って、ギアをドライブに移動させた。